館林キリスト教会

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伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(3)

 エジプト考古学博物館A 2000年11月19日

 エジプト王の墓は、その遺品を狙う墓泥棒の手によって殆ど荒らされてしまっていた。その中でたった一つ、ツタンカーメンの王墓だけ例外として、盗掘されずに1922年に発見された。彼は9歳で王として即位し、18歳で若死にしたため(殺されたという説が強い)、少年王として比較的質素に葬られたので、盗賊の目から免れたと言われる。しかしツタンカーメン王の黄金のマスク、彼の身に着けていた装飾品の数々、幾重にも重ねられてある黄金の棺に象徴されるエジプトの豊かさは、私たちの想像をはるかに超えたものだと思う。少年王ですらこれ程なのだから、盗賊にあったピラミッドの王たちの副葬品はいったいどんなだったろうか。質素だったといわれるツタンカーメン王の副葬品の数々を博物館で見た私は、あらためて当時のエジプトの巨大さに驚かされた。そしてその陰には、重税に悩む民衆と、むち打たれた奴隷たちがあったのだと知らされた。
 モーセの登場は、ツタンカーメン王が死んでから約百年後といわれる。その時のエジプト王はラメセス二世で、エジプト人の誇りだ。私はラメセス二世のミイラを博物館で目の当たりにしたが、権力の象徴とも言える彼も、今はただ惨めな姿を横たえているだけだった。

 コプト教会 2000年12月17日

 コプト教会は、カイロ発祥の地でオールド・カイロとも呼ばれている所に3,4箇所ある。エジプトの下町であると言われて、この周辺には沢山のキリスト教徒が住んでいるということだった。コプト教会とは、ギリシャ正教会に属する原始キリスト教の一派で、今でもコプト語によって翻訳された聖書の一部が大英博物館に展示されてある。コプト教会については、少し神学校で学んだり、本を読んだことがあったが、分からないことが多すぎて途中で調べのをやめてしまった。
 そしてこの地域が何より有名なのは、ヘロデの手をのがれてエジプトに逃避行したヨセフの家族が隠れ住んだという場所であるということだ。聖セルギウス教会の地下には、イエス様たちが住んだと言われる場所がある。入る事はできなかったが、すぐそばで見ることができた。私が行った時は水が少したまっていて、いかにもじめじめした暗い所で、ヨセフとマリヤはさぞ大変だったろうと思った。

 パピルス製作見学 2000年12月17日

パピルスは、ナイル川など温暖な川の岸辺に生える植物で、聖書の多くはこの茎を切って引き伸ばし繋ぎ合わせたものに書かれた。紙という英語paperの語源になった言葉だ。その製作過程を、昔のやり方で実演してくれる。茎を細かく切って、縦横にならべて押し固める。こうして出来たものは引っ張ってもびくともしないので驚いた。しかし、これもほんの短い時間カイロ大学の日本語学科の学生がやってくれただけで、実際展示されているパピルスはプレス機でやっている。このパピルスの上に描かれた絵や文字は、とてもきれいで誰もが魅了される。私もおみやげにいくつか購入をした。

 ギザのピラミッド 2001年1月21日

 ギリシャは哲学や美術を、ローマは法律制度を、そしてエジプトは建築や土木工学あるいは天文学を後世に残しました。
 土建好きのヘロデ大王は、エルサレムの神殿の西の壁やマサダの要塞やヘロディオンなどを残しましたが、エジプトの建造物と比較すると問題になりません。
 たとえば、私が見た、あの有名なギザの三大ピラミッド(BC2500年頃)の場合でも、今日のようなブルドーザーもクレーンもなかった時代にあのような膨大なものを作り上げたパロ(エジプト王の王朝名)の権力の絶大さには想像にあまりがあります。1つの石が十数トンから数十トンに及ぶものを150メートルも積み上げたのです。そんな工事を成し遂げたのは、十万人以上の奴隷が十年から十数年もかかったといわれています。その奴隷の苦役のゆえに、そのうめきが聞こえそうです。
 モーセの時代とは違いますが、このような奴隷労働、血と涙と鞭と鎖とによって建設された遺跡と、この奴隷の鎖からの解放が一貫したテーマであった聖書を、エジプトの地に立って思い返すと深い感動がありました。
 主なる神が私たちを奴隷の鎖から解放して自由の民としてくださったという主題は、出エジプト記、預言書、福音書、使徒行伝に貫かれている思想です。
 神様が解放者という信仰は、旧約の中だけでなく新約の中でも中心的な主題です。主イエスは汚れた霊に捕らえられた人々、肉体的な病気に苦しむ者たち、障害に悩む者や社会的差別されている民、そして何よりも罪の鎖に縛られていた私たちを解放してくださったのです。

 シナイ半島を走る 2001年3月18日

 エジプトのピラミッドや考古学博物館に展示されてあったツタンカーメン王の黄金のマスク等を見て、エジプトの栄華というものを容易に想像することができました。
それに比べて、スエズ運河を渡ったシナイ半島はいまだに不毛の地であり、荒涼とした所です。ですからモーセが「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた」という信仰の告白は、彼の献身とイスラエルの民への愛の現われであることがよくわかります。
 バスの中では、讃美歌244番の「ゆけどもゆけどもただ砂原」を歌いました。その通りで、バスは110kmの猛スピードで走っていますが、ゆけどもゆけどもあまり変わらない景色には驚きました。こうした中を、モーセに引き入れられたイスラエルの民がカナンの地を目指して歩いていったのですから、それは想像を越えた苦難であったと思います。
 しかし、いくつかあったオアシスは、人々のからだをいやし、心をどんなに慰めたかしれません。オアシスという言葉の意味が実感できる場所でもあります。あの出エジプト記17章に出てくるレピデムなどは、シナイの真珠と言われています。また、ところどころにアカシアの木をみました。この砂漠でみることのできるたった一種類の木です。アカシヤの木は、水のないような荒野で、根を自分の木の数倍も伸ばし、地下水からその水分をとっているのです。私は信仰の根をしっかり張ることが、人生の荒野で生きる秘訣であると教えられたような気がいたしました。