伊藤牧師コラム集 聖地を旅して(4)
シナイ山登頂(1) 2001年4月29日
シナイ山のふもとエルラーハ平原に着いたのは、午後4時ごろでした。聖書を読み、写真でみたあの山(ジェベル・サフサファ)が目の前に聳えているのです。早速カメラをもって走り出し、シャッターを何回も切りました。
十戒を授けられた山として最も有力なシナイ山はジェベル・ムーサ(モーセの山)です。その他、ジェベル・カタリンという山などがあります。
早目に寝て、夜中の1時に起き、1時半に出発しました。4、5キロある山道を登りました。この旅行で、最も興味あるシナイ山(ジェベル・ムーサ)にのぼるために毎朝30分くらい足を鍛えてきたのです。やめるわけには行きません。しかし自信のほどはいまいちでした。ラクダで途中までのぼることが出来ます。私たちのグループでは3人の人がラクダに乗り、他の人は歩きました。わたしも歩いて行くグループに加わり、前の人にくっついて足下を懐中電灯で照らしながらのぼって行きました。途中までは頑張って登っていきましたが、頂上近くの石を積んだ階段付近からは、何回も休みました。植木武先生に「もう少し、もうそこだよ」なんて励まされながら、やっとこ頂上にたどりつきました。
シナイ山登頂(2) 2001年5月20日
だれでもが言うことことですが、この山は昼間ではとても登りきれないだろうと。夜が明けてから下山するとき、初めて知りましたが、あんなに高く険しい岩山だとわかっていたら、登る勇気をくじかれてやめてしまったかもしれません。
それにしても、のぼっていく時の星のきれいだったことは忘れることができません。また暗い山道を登る中に、ジャパン?、コレア?と現地の人々の呼びかける声を聞きながら、ああ日本人と韓国人がたくさん来ているのかなあと思いました。
朝日が昇って来る時は、いっせいに「ワアー?」(世界各国の共通語のような感動)の声が沸きあがり、何とも言えない感動を覚えたものでした。
下山する時は、もと来た道を引き返さずに、エリヤの泉と言われる所を見てまわりました。そこから添乗員のマホメッドさんの案内で、ゴツゴツした岩また岩の間を降りていきました。シナイ山がいかに険しい山かということを体で実感させたいただいたというところです。
サンタカテリーナ寺院が見えたときは、もうすぐだ!と思いましたが、いえいえそれからさらに岩だらけの、道とも言えない所を1時間近くも歩かなければ降りることができませんでした。
しかし念願のシナイ山に登ることが出来たのは、疲れを覚える中にもなんとも言えない爽やかな気分を覚えたものでした。
シナイ半島東岸を走る 2001年6月17日
モーセとイスラエル一行が約1年間生活したであろうエル・ラーハの平原に建てられた、当時のテントに似せて作ってあったユニークなホテルを後にして、バスは一路ヨルダンに向け、シナイ半島の東岸を走って行きました。
ここからは民数記10章11節以降に出てくる場所なので、しっかり見ていこうと張り切っていました。しかしシナイ山に登った疲れがドッと出てきたのと、ほとんど変わらない褐色の岩ばかりの殺風景な景色に、しばらくするとぐっすり眠ってしまいました。
12時20分頃、アカバ湾の港ヌエバのヒルトンホテルで昼食をとりました。青いアカバ湾の海を眺めながらいただいた魚料理はとてもおいしいものでした。美しい庭園で食べたのもその雰囲気を満喫させてくれました。民数記11章に、欲心を起こした民が、エジプトではただで「魚を食べた」といってモーセにつぶやいた記事がありますが、魚がおいしかったので、ああ言ったのかなあ、と思ったりしました。
昼食も終わり、ヌエバから船でヨルダン領のアカバ港へ向かいました。ヌエバでの出国手続きが、予想以上に時間がかかり、ヌエバを出発したのは3時過ぎでした。しかし予定していたフェリーではなく、ホーバークラフトだったので、所用時間は何とフェリーの3分の1の55分でアカバ港に着くことが出来ました。
このアカバ港は聖書に出てくるエジオンゲベルです。シバの女王もここを経てソロモン王に謁見したのです。
ヨルダンを走る 2001年7月15日
今回の旅行メンバーで、ヨルダンを訪れた人は誰もいませんでした。それだけにヨルダンの地の旅はみな興味津々でありました。
モーセは、エドムの王に王の道を通過する許可を求めましたが、拒否され、しかたなく迂回することにしました。そしてアカバのエジオン・ゲベルへ行き、さらに東より北上することにしたのです。私たちは彼らが通過したであろうキングス・ハイウエイを走り、第一の見学地ペトラまで行きました。残念ながらペトラまでは、夜、走りましたので、素晴らしい景色を眺めることはできず残念でした。
ペトラの町 2001年7月15日
ペトラの町が古代史において重要な役割を演じたのは、エジオン・ゲベルとダマスコを連結する、聖書の時代の、最も重要な通商路に位置していたからです。聖書の中にこの町の名は出てきませんがセラの町がそうであろうと言われています。