小林前牧師 コラム集(23) 「希望のダイヤル原稿」から
お母さんと自動車 2001年11月4日
「私たちは神の作品です」と言うテーマでお話していますが、職人が何か作る時に、作ってしまってから、さて「こんなものができたが、何に使おうか」と、使い道を考えたりするでしょうか。そんなことはありません。作り始める前に、使い道が先に決まっていて、それに合わせて、品物を作るのです。そこで私たちも、神の作品である以上、造られた目的、使命というようなものが、あらかじめ、予定されているに違いありません。
「神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」とエペソ人への手紙2章10節に書いてあるのは、そういう意味なのです。すなわち「人は使命とともに生れる」と言われ、「神のわからない人には、自分の使命もわからない」と言われるとおりです。誰からもあてにされず、用もない人ほど淋しいものはありません。いたたまれない気持ちです。自分の人生の意味、目的、使命がはっきりしないために、いたたまれない気持ちでいる人は大勢います。おそらくこれは自殺者の気持ちでもあるでしょう。若者が非行に走るのも、この世に自分の場所がないような淋しさが原因のことが多いと思います。
その反面、使命感、役割意識がはっきりしている場合には、人間はとても強くなり、勇気も出る、がんばりもきく、がまん強くもなるのです。
事故で自動車の下になった子供を助けるために、一人で自動車を持ち上げたお母さんもいます。子供が病気のとき、お母さんが頑張る様子は、普段とは全く別人のように見えるほど強いものです。自分の人生の目的、使命のために、心を静めて神に祈ろうではありませんか。ある場合は時間をかけ、祈りつつ、神と共にこの問題を研究することも必要です。
医科大学 2001年11月11日
ある女子高校生が、お医者さんになるつもりで、その方面の大学にはいるために一生懸命勉強していました。
ところが大学受験にすべってしまったのです。シッョクでした。この娘さんはクリスチャンだったので、熱心にお祈りしていたのに、お祈りがきかれなかったので、これもシッョクでした。でも、受験にすべった後の気持ちを整理して立ちなおるためにも、お祈りしたり、考えたり、牧師さんとも話し合いました。そして「なぜお医者さんになりたいのか」と、自分に向かって質問をくりかえしたのです。
この娘さんは、気立てのやさしい子でした。小さい時から、よく、もっと小さい子の面倒を見たり、犬や猫でも可愛がり、世話をしました。おじいさんが長い病気のあげくに死んでしまった時、また友達が病気になって入院して、淋しそうにしているのをお見舞いに行った時など、病気の人がかわい相で仕方がありませんでした。それで、大きくなったらお医者さんになって大勢の病気の人を助けてあげよう、と、小さい子供の頃から考えていたのでした。
それが高校生ごろになると、医者になれば社会的地位も高くなり、収入も多くなると考えるようになりました。大学入試がいよいよ近づいてくると、意地と面子だけで、機械のように、馬車馬のように、夢中で勉強していました。まるで大学が人生の全てであるかのように。そして、いつか本当の自分を見失っていたのでした。
今、それに気がつきました。そしてもう虚栄心をおさえて、看護婦さんになりました。立場は違っても、それで、少女時代から抱いていた、自分の本当の使命感をはたせると思ったのです。本当にそうでした。この人は素晴らしい看護婦さんになりました。大勢の患者さんに慕われました。満足幸福でした。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えてくださったのである」 エペソ人への手紙2章10節
一本の線 2001年12月2日
トルストイがある時、ノ−トに線を引きました。ちょうど定規がなかったので、ペンだけで線を引こうとしまたが、なかなかまっすぐに引けませんでした。トルストイはペンをなげて「私は一本の線さえ、まっすぐに引くことができない。若いときから理想を抱いて、高尚で清潔な人生を志してきたのだが、つい誘惑に負けて、実際は低級不潔な生活におちこんでしまうのも、またやむを得ないことだ」と嘆いたそうです。
「我々人間ひとりびとりは、深い神のみ心によって作られた神の作品である。そしてひとりびとリは、同じく神によってあらかじめ定められた、それぞれの使命をもっているのである」というのが聖書の真理ですが、現実の人間の状態では、長い生涯、神から与えられた使命を果たしてゆくことはむずかしいと思います。なにしろトルストイが言ったように、毎日の日常生活においてさえ、神様のみ心にかない、自分も満足できるような、よい行い、良い生活がなかなかできず、かえって罪や失敗ばかり多くて困るのですから。それはちょうどこわれた時計、こわれた自動車のようです。
しかし、神様はキリストの十字架によって、そういうわたしたちを救って下さるのです。それが「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」という、エペソ2章10節の聖書の意味なのです。
キリスト教の歴史は、人を造り変える歴史です。時計や自動車は人間が作ったものですから、人間の手や、人間の工場で修理できます。人間の改造は、人間を造って下さった神様にしかできません。
ですから、若いときから放蕩無頼だったアウグスチヌスも救われてりっぱな聖人となり、好地由太郎も、死刑囚の独房から救われて牧師になることができたのです。むかしイギリスの伝道者ブ−スが東ロンドンで始めた伝道所は「人間改造所」とアダ名がついたくらいでした。
どうぞあなたも、お宅のお子さんも、このキリストの救いを経験してください。
ふたつの祈り 2001年12月9日
ルカによる福音書12章を見ると、一人の人がキリストのところに来て「先生、わたしの兄弟は欲が深くてずるくて、親の遺産を一人じめにして、わたしによこしません。何とかわたしにも遺産を渡すように言ってください」と頼みました。するとキリストは「わたしは裁判官でも計理士でもない。あなた方の遺産争いに割り込むのは、わたしの役柄でもないし、わたしはそれをしようという気持ちもない。しかしわたしはあなたに話すことがある。」と言われました。
キリストは「人の生活も健康も幸福も命も、財産やお金の多い少ないによって決まるものではない。つまり、みんなが考える程、金が人生の決め手というものではない。だから、むしろ、限りもなく欲ばったりむさぼったりしないように注意が必要だ。」と言われました。
金持ちでも不幸な人はいます。貧しくても幸福な人もいます。また欲ばりすぎて一番大切なものをだいなしにしてしまう人もいます。最も身近な家族や友人の間でも金のために、愛や信仰や一致をメチャメチャにするケースもあります。金をふやすことと、どちらが大切で、どちらが幸福だろうかと考えさせられるケースも多いようです。
有名な聖書のことばをご紹介します。旧約聖書箴言30章7節〜9節です。これはある人の祈りです。
「わたしは二つのことをあなたに求めます、…うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」