館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(8)

 神様の名刺 1999年10月3日

 聖書は何を教える本でしょうか?。
 聖書は「神様について教える本である」ということができます。
 聖書の最初に、創世記という聖書がありますが、その一章一節に「初めに神は天と地とを創造された」と書いてあります。
 本というものは「最初にどんなことが書いてあるか。これが大切だ」とよく言いますが、聖書はそのような言葉で始まっているのです。
 このお言葉はちょうど神様の名刺のようです。
 聖書を読み始める人にむかって神様は「私は神です。そしてこの天と地を造ったのは私です。
 またいまもこの天と地を管理し、支配し、動かし、人間の歴史を導いているのも私です」。と自己紹介をしておられる。こう解釈することができます。
 しかし、わたしたちが「聖書」に興味をもって読み始めても「聖書はなかなかむずかしい」というのが実感でしょう。
 教会の集会では、専門の牧師が、わかりやすく聖書の意味をお話します。
 また疑問や質問があれば、いくらでも説明します。
 聖書を読みはじめたら、あなたの生涯にすばらしい変化があらわれて来るでしょう。お心やすく集会においでください。

 お父さんと純君 1999年10月10日

 お父さんと男の子の純君はとても仲良しです。お父さんはよそへ行くたびに必ずおみやげを買ってきます。純君も眠くても我慢して、お父さんの帰りを待っています。
 ある日、今日もお父さんが純君の大好きなおみやげを買って帰ってきました。純君のよろこぶ顔が目に見えるようです。
 「ただいま」と玄関に入ると、いつも「お父さんお帰り」と一番先に飛び出してくる純君の顔が見えません。奥さんが出てきました。
 「純はどうした? 病気にでもなったか?」「いえ、純はちょっと」奥さんは言葉をにごしています。
 お父さんが座敷に上がって見ますと、純君が、あわてて逃げたのがようすで分かります。次の部屋にいってみるとまた逃げたらしい。しかしとうとう最後に純君をつかまえました。
 「純、お父さんはおみやげを買ってきたのにどうして逃げるのだ」
 純君はもじもじ。
 お母さんの説明。「実は、今日友達が大勢遊びに来たとき、純たちは、お父さんが『入ってはいけません』とおっしゃる書斎に入って遊びました。そして遊んでいるうちにお父さんの大切な花瓶をこわしてしまいました。だからお父さんの顔が見られないのです」
 純君はお父さんにあやまりました。もちろんお父さんは許してあげましたから、純君はおみやげをもらって、ご機嫌良くその晩は休みました。
 イザヤ書59:1、2 「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。ただ、あなたがたの不義が、あなたがたの神との間を隔てたのだ。また罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ」。

 あなたにとって神とは 1999年10月17日

 「あなたはクリスチャンですか」「ハイ」「では神を信じていますね」「ハイ」「それでは聞きますが、ズバリ、あなたにとって神とは何ですか」
 「それはズバリ、詩篇46篇1節に『神はわれらの避け所、また、力、悩めるときのいと近き助けである』とあるとおりです。神様は私にとって第一に『避け所』なのです」。
 「避け所」というのは、「避難する場所」という意味です。
 人間は弱いものだから、暑ければ帽子をかぶり、寒ければ重ね着をし、雨がかからないように家には屋根をふき、風が入らないように壁を作る。またク−ラ−をつけ、ストーブを燃やす。このように、何かで自分の身を守り、カバ−します。弱い人間には避け所なしの、裸の生活はできません。
 しかし、私達の精神上の生活はどうでしょうか。悲しみの雨は遠慮なく私達の心を襲います。また、難しい境遇や事情や人間関係の中で、私達の魂は冷えきってしまうことも多い。
 そのときに、私達の心を、魂を休ませるのはどこでしょうか。
 家庭はたしかに避けどころです。けれども実は、それは比較的問題がない時の話なのです。本当に深刻な問題に追い詰められてくれば、家庭も決して休息所ではない。
 ときには一夜転々反側、眠ることもできないほど私達の心は脅かされます。
 ここに「神は我等の避け所」と書いてあるのは、そういう時に、神の前に一生懸命お祈りすると、私達の心の中に不思議な平和がよみがえってくる。不思議な安心感を持つことができる。また、困難や問題に立ち向かう力を新しく回復することができる。こういう意味です。
 これこそ神を信じる者の実際の生活実感なのです。

 レーナ・マリア 1999年10月24日

 来週の礼拝では、福音的歌手、レーナ・マリアさんの、歌と証を撮影したビデオを見ます。
 マリアさんは、1968(昭和43)年にスエーデン中部のある村に生まれました。
 しかし彼女は、両腕がなく、左足が右足の半分しかないという障害者として、不幸な生を受けました。
 3歳のとき、家族と水泳教室に通い始めました。
 高校を出ると「ストックホルム音楽大学」に進みました。高校時代から音楽を専攻していたのです。
 彼女は言います。
 「私は一人で都心のアパートで暮らし始めました。広々とした田舎で育ったせいか、都会に住むのが夢でしたが、しかし父や母と話し合えないので、孤独を感ずることもありました。
 そういう時、小さい頃から教えられつづけてきた『イエス様は最高のお友だち』ということばを思いだし、イエス様に祈りながら、どんなことでも打ち明けました。誰でも親友には、自分の思っていることを遠慮なく言えるものでしょう」。
 「神様は全能ですから、私の手足を作りなおすこともできます。でもそうしないで私に障害を残しておいでになるのは、人間にとって第一に大切なのは、からだの健康より心の健康であることを、明らかにするためでしょう」。これも彼女の言葉です。
 彼女は一人で生活できます。自動車も運転します。
 20才の時に、ソウルで開かれた「パラリンピック」に出て、背泳ぎで4位、自由形で5位、平泳ぎで6位でした。
 けれども、最もすばらしいのはその歌です。神をたたえ、信仰と感謝の思いを歌い上げる彼女の歌には、世界中の人が感動しています。
 さあ、皆さんも一緒に感動しましょう。