館林キリスト教会

Sub Menu

小林前牧師 コラム集(22) 「希望のダイヤル原稿」から

 新しい生活 2001年9月2日

 ヨハネによる福音書4章13,14節に出ている有名なキリストの言葉「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」という意味は、ここで「かわく」と言われているのは、幸福を求めてなかなか得られず、あれかこれかと迷っている人間の心を例えたのです。「この水」とは、人間に幸福満足を与えそうに見える地上のすべてのもののことです。ごちそう、お金、賭け事、映画、スポーツ、恋愛。金と体力があって、そういうもののすべてをあさって、さて人間は幸福でしょうか。案外、歓楽尽きて、かえって哀愁多し、ということになるのではありませんか。
 ゲーテは言っています。「人は自分を幸運な人間だという。自分でも俺の運命に不足はない。しかし自分が本当に満足と幸福を感じた日は、一生の間に十数日を出まい」と。お話してきたサマリヤの女もそうでした。勇敢に熱心に粘り強く幸福を求めて頑張り、あせりぬいた結果が、いわゆる疲れ果てた淪落の姿だったのです。
 しかし、キリストはこの女の悲しみを知っていました。この女の罪も失敗も理解し赦しました。そして神を信じ、神に従う新しい生活を示しました。サマリヤの女は一時間後に救われて、人生の残骸のようなところから、全く新しい生活に出発することができたのです。それはコリント人への第二の手紙5章17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とあるとおりでした。これは昔だけでなく、現にたくさんのクリスチャンがいろいろな形で経験している救いなのです。キリストとの出会い。それはあなたにもすばらしい経験となりますよ。

 目に見えないあなた 2001年9月9日

 キリストの教えの中に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである(ヨハネによる福音書4章24節)」というみ言葉があります。
 ある一人の学生が牧師に言いました。「先生、私たちに神を信じなさい、とおっしゃるなら、私たちに神を見せてください。私は現代人ですから、科学的に、見たり、実験したり、確認したりしてから信じます」
 牧師「よろしい。ではその前に、君にお願いがある。神を知り信じようという、君をまず見せてくれないか」
 学生は「私はここにいるじゃあありませんか」と言って自分の鼻に指を当てました。「それは君の鼻じゃないか。見たいのは君自身だよ」
 学生は胸に手を当てました。「ここに私がいます」「それは君の胸だよ」
 学生は手足を振って見せました。「これが私ですよ」「いや、それは君のからだだ。一体君自身はいないのか」
 「います」「ではなぜ見せてくれないのだ」「それを先生に見せることはできません」
 「そら見なさい。人間と言えども本質は霊的なもので、肉眼では見えない。神様もそうだよ。人間同士の交際でも、愛といい、信頼といい、友情といい、そのすべては、お互いに目に見えない人格同士の関係なのだ。それゆえキリストも『神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである』と教えてくださったのだよ。」

 神の作品 2001年10月7日

 駅に行ってみると、きちんとした紋付正装の人がいます。きっと結婚式のおよばれでしょう。また、スキーをかついで、4,5人でしゃべっている若者もいます。彼らはスキーにゆくのです。旅行する人はそれぞれの目的がはっきりしています。そしてその目的に合うような服装や持ち物を用意しています。ところがここにどっちつかずの格好をした人がいて、聞いてみると「どうも目的がはっきりしていないのです。服装や荷物の用意をしようにも、方針が立ちません。でもとにかく出かけようと思います」と言っている。そんな人がいたらおかしいでしょう。
石川啄木の歌に
 「なんとなく汽車に乗りたくなりしの
 み、降りてみたれど行く先もなし」
 というのがありますが、淋しい歌です。
 ところが実は、せっかく生れて、せっせと人生の旅行をしているのに、人生の目的がどうもはっきりしません。ただなんとなく生きている、という風になりやすいのです。明るく楽しければ、それに気をとられて、どうにかやっていきますが、ただなんとなく生きていると言うのでは、つらいことや、苦しいことに出会うと、とても乗り切ることができません。そして最後は年をとって淋しく死んでいくのです。
 「人の一生って何だろう」と、どうしても考えますね。
 聖書は神について教える書物ですが、同時に人生について教えるものです。新約聖書、エペソ人への手紙2章10節に次のようなお言葉があります。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」
 ここに教えられてある人間とは何か。それは「神の作品」です。神がわれわれ人間を作品として造られたのは何のためか。良い行いのため、人それぞれの使命を全うするためです。次回では、その意味をもう少し詳しくお話しましょう。

 体の弱いハーデイー 2001年10月14日

 世の中には、なんとなく自分が気に入らない。人のことばかり良く見えて、いつも淋しい、という人がいます。しかし前回お話したように、神を信じて、その結果、自分も聖書に書いてあるとおり「神の作品」なのだということがわかってくると、自分に対しても自分の人生に対しても、新しい目が開かれてくるのを感じます。大勢の人間がいても、その顔や姿、性格や才能は、一人一人不思議なほど違っていて、人間はよほど念入りな神の作品だと思うのですが、世界広しと言えども、わたしはわたし一人しかいず、あなたはあなた一人しかいません。尊い存在です。私たちは他の人と比べてあせったり、イライラしたりするのをやめて、神を見つめ、自分を見つめて、自由と確信の生活に進むことが幸福です。
 昔アメリカに、アルフェアス・ハーデイーという人がいました。熱心なクリスチャンだったので、青年時代に牧師になろうとしましたが、体があまり丈夫ではないので、みんなからムリだろうと言われて思いとどまりました。そしてクリスチャン生活を守りながら、実業に従ったのですが、神様の祝福によってこの人は、実業家として、成功しました。あるとき、一人の日本人の青年が頼ってきたとき、これも神様に対する役目の一つだと思って、この青年の世話をし、この青年を指導しました。この青年もまた立派なクリスチャンとなり、立派な成績で大学を卒業し、日本に帰りますと、今度は自分が京都に大学を建てて聖書の教えに従って、日本の青年を教育し、若い明治の日本に大きな功績を残しました。この青年こそ、あの有名な、新島襄先生なのです。ハーデイー氏が希望の道に進めなくても、がっかりしないで、神の作品として自分の生涯を全うし、神と人のために役立つ生活ができたのも、神を信じる信仰を持っていたからでしょうね。