館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(20) 「希望のダイヤル原稿」から

 内村ルツ子の死 2001年4月8日

 内村鑑三先生に、ルツ子さんというお嬢さんがいました。ルツ子というのは変な名前だ、ツル子の間違いじゃないか、と思う人もいるかも知れません。実は旧約聖書の中に「ルツ」という女性が出ていまして、この婦人が、淋しく孤独になった姑に対して、とても親切で忠実でしたから、彼女にあやからせようと、クリスチャンの両親は娘にルツという名前をつけることがあります。
 内村ルツ子は十八才で亡くなりました。その病気が重くなって心配な時に、内村先生は、昔女中さんだった高橋さんという人のお葬式に、岩手県の花巻にゆきました。
 この人は内村先生の人柄を慕って、女中さんになろうと家出をして来た人でした。先生はすぐ帰宅させましたが、いろいろあった末に、やっと親の許しを得て内村家の女中さんをしていたのです。
 彼女のお葬式で、内村先生は十五分間の告別説教をする予定でした。ところが、二、三分話をすると、しゃくり上げてしまって、話ができなくなり、とうとう十五分間泣いていて説教ができずじまいだった相です。
 そのお葬式が終わらないうちに、「ルツ子キトクスグカエレ」という電報を受け取ったのです。それから一ケ月半でルツ子さんは天国にいきました。
    (つづく)  この娘は性質も顔も、お父さんそっくりだったので、先生も特別かわいがっていた相です。
彼女は小学生のころから、外でも「わたしはクリスチャンです」とはっきり言っていました。一人の親友がいましたが、その人は父に死に別れ、母に棄てられた一人ぼっちの娘で、ルツ子さんは自分の死を覚悟したころ、自分の多くない着物の中から三枚選び出して「これをあの人にあげて頂戴」と言った相です。
 また意地の悪い友達もいましたが「私は全部の人を許しました。神様が私の罪を許して下さったように。だから私の心にはくもりはありません」と言っていました。

 内村ルツ子の死(2) 2001年5月6日

 内村ルツ子さんは、有名な内村鑑三先生の娘さんです。顔かたちや性格もよく先生に似ていたので、先生は特別かわいがっていたようでしたが、気の毒なことに十八才の若さで世を去りました。ルツ子さんはお父さんの指導によって、子供の時から深く神様を信じていました。いつも神様に自分の罪を悔い改め、またキリストの十字架によって、一切の罪が許されたことを確信していたので、病気が重くなっても動揺しませんでした。
 亡くなる三時間前、ルツ子さんはお父さんから洗礼を受け、細い手を伸ばして聖餐式を受けましたが、亡くなるまで喜びの笑みをたたえ「感謝、感謝」と言いつづけていました。
 お葬式の時、内村先生は言いました。「今日は実はルツ子の結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです。これこそ聖書に書いてある、婚宴です」と述べました。
 雑司ヶ谷の墓地では、棺に土をかける時に、内村先生は一握りの土をつかんで手を高く上げ、「ルツ子さん万才」と叫びました。
(お葬式の時、内村先生は言いました。「今日は実はルツ子の結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです。これこそ聖書に書いてある、婚宴です」と述べました。
 雑司ヶ谷の墓地では、棺に土をかける時に、内村先生は一握りの土をつかんで手を高く上げ、「ルツ子さん万才」と叫びました。)

 内村ルツ子の死(3) 2001年5月20日

 丁度数ケ月前から、内村先生の聖書講義の集会に出席するようになっていた矢内原忠雄は、ここに居あわせましたが、雷に打たれたように感じて「これはただごとではない。キリスト教の信ずるということは命がけだぞ」と思いました。
この人はまもなく熱心なクリスチャンとなりましたが、やがて有名な経済博士となって、東大の学長を何年もやった人ですから、ご存知かもしれません。
内村先生のそのころの詩
  私たちは四人家族だった
  しかし今も四人だ
  戸籍から一人の名は消えたが
  天の記録に一人の名は増えた
  四角の食卓の一方は空しく
  三度の食事に空席ができたが
  しかしなお私たちは四人だ
  残された三人はもっと親しくなった
  天にいった娘が
  愛のきずなとなっている
  そしてやがて天国で
  再び一緒に相会うのだ

 ネクタイとペンダント 2001年6月10日

 旧約聖書箴言の第3章に、次のようなみことばがあります。
 「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。」これは聖書を勉強して、良くそれを記憶し、その教えを守りなさい、ということです。みことばは続きます。
 「そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。」1日はだれにとっても24時間ですが、むなしい一日もあり、充実した1日もあります。聖書の教えは、私たちの心と生活を整え、1日1日の生活を、充実した、奥行きの深い、価値あるものにして下さるのです。
 「命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。」というのは、心に平安、家庭に平安、人間関係に平安を与えてくださるという意味です。そしてこれは、体の平安、つまり、健康を増進し、長生きをさせてくださる、という約束です。腹を立ててムシャクシャしたり、心配事でクヨクヨ、イライラしていると、食欲もなくなり、消化も悪くなり、血圧もあがり、安眠もできない。その上、酒を飲み、タバコをすい、徹夜マージャンでは、大根おろしで、体をすっているようなものです。神様が、聖書の教えを守って神様に従う者に対して、その心と生活、体と寿命を守り祝福してくださることは、すばらしいと思います。
 次に「いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。」首に結ぶのはネクタイ、心の碑というのはペンダントのようなものです。いつくしみは、愛と親切、まことは、正しくて誠実なことです。これは目に見えませんが、人格の中にそれが備わってきますと、目に見えぬ最高のネクタイ、ペンダントとも言うべく、これこそすばらしいおしゃれで、とても魅力的ですね。聖書の教えは、私たちを人格的に、美しく魅力的にして下さるので、すぐは見えなくても、人は次第にそれを感じ、あなたを尊敬し、あなたに近づきたくなると思いますよ。