小林前牧師 コラム集(11)
パンタグラフ 2000年1月9日
詩篇第46篇1節の有名なみことば
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」
これは神様を信じて生活するクリスチャンの実感です。
さて二番目の「神はわれらの力である」とはどういうことでしょうか。
「力」は普通、カロリ−とかエネルギ−とか言われます。私たちは太陽からも食物からも、カロリ−、エネルギ−を受けて生活しています。そして、それらの一切のものは、神様がお造りになり、神様が与えて下さったのですから「神はわれらの力である」とは、わかりやすい真理です。
ですからクリスチャンは、一杯のごはんでも、神様に感謝しないでは食べません。そして、日々神様の恵みによって生かされている生活が、いつもみ心にかない、その祝福に価するものとされるよう、お祈りを続けるのです。
また身体の力、生活の力のほかに人格的な力というものも必要です。意志の強い人というのは、身体の力とは別です。ねばり強い人、数学に強い人、などという場合もあります。
私たちは誘惑をしりぞけ、困難を乗り越え、事業を経営し、家族を養っていくために、どれほどの力を必要とすることでしょうか。また実際人間は、大切な場面で、どれほど自分の弱さを痛感することでしょうか。
しかし、その意味においてこそ、神様は私たちの力の源なのです。電車がパンタグラフをのばして電線に触れることによって力を受けて走るように、クリスチャンも日々、祈りの中に神様の力を受けるのです。
イザヤ書40章に「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得る」とある通りです。
医者と弁護士と牧師 2000年1月16日
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」
という、詩篇46篇のみことばは、神様を信じて生活しているクリスチャンの実感そのままですが、本当に神様は私たちが困っている時、悩んでいる時の、すぐ近くにいる助け主なのです。
何でも、医者と弁護士と牧師とは、ふだんから仲良くしておくと良いと言われますが、こういう話があります。
アメリカ、カリフォルニアの小さな町に、ヘルバ−ト・スミスという牧師がいました。あるクリスマスの夜、家中で忙しく飾りつけをしている時、10歳になる男の子が、ドタンと椅子から落ちました。見ると呼吸困難で、その苦しい様子と言ったら見ていられません。
近所の医者に電話をしたところ、クリスマス休暇で家中で出かけたということでした。
試しに、ハリウッドの親友の医者に電話しました。医者の言葉、「すぐ子供を電話のそばにつれて来なさい。良く見るのだ。指が内側にまがっているかね。指の色が紫色になっていないか。体中黄色くなっていないか」
「ああ、ドクタ−・ウェイン、君の言う通りだ」
「それは"喉頭浮腫(こうとうふしゅ)"だ。すぐ切開しないと助からない。僕が行ったのでは間に合わないのだよ。すぐ近所の医者を呼びなさい」
でも近所の医者は、どこへ電話をかけても休暇のため留守でした。
牧師夫婦は絶望の気持ちで、でも一生懸命神の助けを祈りました。
すると、電話のベルがなりました。
「ああスミス君、ウェインだ。僕の友達の医者が、休暇で君の町のホテルに行っているのがわかった。電話しておいたからすぐ迎えに行きなさい」
牧師はすぐ行きました。医者の顔を見ると「むすこ、ふしゅ」としか言えませんでした。でもこの医者がすぐ来てくれて、手術をしてくれたので、子供は助かりました。
牧師は今さらのように、神様が一番近い助けだということがわかった相です。
ナイアガラの瀧 2000年1月23日
昔、木村清松という牧師さんがアメリカへ行って、有名なナイアガラの瀧を見ていました。
すると一人のアメリカ人が
「どうだい大きな瀧だろう。小さい日本にはとてもこんな大きな瀧はないだろう」と自慢しました。
そこで負けず嫌いな木村牧師が
「ああ、ナイアガラの瀧は本当に大きくて立派だ。しかし、これはもともと私のお父さんの物なんですよ」と言ったので、アメリカ人は驚いて
「ハテナ、この人は日本人だと思っていたが、案外昔この辺を領分にしていた、インディアンの子孫か何かで、そう言うのかも知れない」と思いました。
しかし、よく聞いてみると、この男は木村という日本人の牧師で、お父さんというのは、彼の信じている「天の父なる神様」のことだ、と分かって、すっかり感心しました。
ところがこのアメリカ人も、近くの町の牧師さんだったのです。そこで
「私の教会に来てお話をして下さい」という事になりました。
やがてこの教会の前には大きな看板が出ましたが、それには
「今日から、木村清松という日本人の牧師がお話をする。彼の父親は、ナイアガラの瀧の持ち主だ」と書いてあった相です。
神様は、私たち人間にとって、天のお父様です。世界万物も、私たち人間も、この神様が造って下さったのです。そしていつも守って下さるのです。
だから神様を信じ、神様にお祈りし、神様に従う生活は、本当に安心です。それゆえキリストは次のように教えて下さいました。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。…
あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。… 一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
マタイによる福音書6章25:32〜34節
あり 2000年2月6日
旧約聖書箴言の30章に出てくる4種類の小動物。彼等は弱い小動物ながら、それぞれの生活の知恵でなかなか賢く生きている。
その一つ、ありについて「ありは力のない種類だが、その食料を夏のうちに備える」と書いてあります。
「あり」が、必ずやってくる厳しい冬に備えて、夏の炎天のもとでせっせと稼いでいる姿はまことに感心で、若い元気なときによく働いておいて、病気になったり年をとって働けなくなっても、困らないように貯金をしておかなければならない、という勤勉のお手本によく使われます。
しかし用心深い人間も、秋にあらず冬にあらず、必ずやってくる死に対して、ちゃんと準備ができているでしょうか。後に残る家族のための生命保険でなく、あなたが安心と希望をもって死ねる、あなた自身の心の準備です。
神様に対して毎日罪を悔い改め、キリストの十字架によって全ての罪を許され、信仰と祈りと服従によって神と共に歩むことこそ、地上の生活においても豊かな神の祝福を経験し、同じくまた神の恵みにつつまれつつ天国にゆく道なのです。
ウェイスレイは誰かに「あなたが明日の真夜中に死ぬことが、あらかじめ分かったらどうしますか」と聞かれた時、予定表を記した手帳を開いて「私はこの予定どおり神様のご用を勤め、予定どおりに明日の夜10時にベッドに入ります。私が死ぬのが神のみ心ならば、翌朝は天国で目覚めるでしょう」と言いました。
彼は死ぬときに「あらゆることの中で、最善のことは、神様が一緒にいて下さることだ」と、繰り返し言って亡くなりました。彼は天国で永遠に神様と一緒なのです。
「死」という言葉を「縁起でもない」などとなるべく言わないように、また死について考えまいとするのは、決して賢いことではありません。死は確実に来るのです。だから我々はありの知恵に学ぶべきです。