館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(3)

 知識と教育 1999年5月16日

 知識があるのと、教え方が上手なのとは別物らしい。
 幸田露伴はすごい学者だ。娘の文子(あやこ)さんが女学生のころ、教科書の文字や文章について質問すると「そこだけでは本当には分からない」と言って、原典のそもそもから説明するので、時間がかかって仕方がない。
 しかもそれからそれへと話がひろがるので、しまいには何を言っているのか分からなくなる。文子さんは懲りて質問しなくなったそうだ。
 露伴は一時、京都の大学で教えたが、一年で止めたのは、あまりの博識で、やはり学生を混乱させてしまうためだった。
 小林 勇は岩波書店の社長をやった人だが、交友の少ない露伴に気に入られて、最後までその家に出入りしていた。
 あるとき小林が「易」を勉強したいと言うので、露伴も喜んで教え始めたが、お互いにあきれ果てて、まもなく中止になったそうだ。
 日本が好きで、帰化して日本人の奥さんと結婚し、小泉八雲と日本名を名乗ったラフカデオ・ハーンは、東京帝大で英語を教えていた。少なかった文学部志望者が非常に増えた。
 その授業は、すべてが美しい詩文で、学生を魅了したが、その割に学生が英語を覚えないので、ハーンは辞めさせられた。そのあとに夏目漱石が代わったのだ。
 漱石はシエクスピアの「マクベス」から講義を始めたが、他の学部の学生まで聞きに来るので、いつも教室は、2,3百人の学生であふれていたそうだ。

 聖なる神 11999年5月30日

 賛美歌66番「聖なる聖なる聖なるかな」という歌の作者は、英国のレジナルド・ヒーバー牧師だ。彼はオックスフオードで教育を受けたが、牧会のかたわら、有名な詩人たちと交友を深めて詩才を磨き、多くの賛美歌を作った。そして、英国の5大賛美歌作者のひとりに数えられるに至った。
 インド伝道に使命を感じ、カルカッタで暑気と戦いつつ奉仕中、43歳で現地で亡くなった。
そのうち、賛美歌66番は、恐らく最も有名で、詩人テニソンの愛唱歌だった。テニソンの葬儀にも歌われたという。
 この歌は、イザヤ書、6章「わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、互に呼びかわして言った。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』」のパラフレーズだろう。
ヘブル語の「@r'f'」 (セラフ)は「燃えるもの」という意味で、複数で「セラピム」になる。多分天使だろう。
 昔は「熾天使(してんし)」などと訳された。「熾」は「し」と読む。やはり「盛んに燃え上がる」という意味だ。
 賛美歌にはこのほかに、118,214、376、464、474番など、たくさん彼の歌が収められている。
 「214番」などは、勇ましい世界宣教の歌で、「464番」は、かわいらしい子供の賛美歌だ。
それぞれを歌ってみるのも楽しいことだと思う。
                (注意:ヘブル語の部分は正しく表示できません)

 牧師の教訓? 1999年6月6日

 先日の青木新夫妻の結婚感謝会に、宮田和枝さんが良い話をした。「相手の身内を大切にしなさい」と言う話で、ご主人の耕輔さんの例が出たときはほろりとした。
 また彼女の話の中に、宮田夫妻の結婚の時、わたしに「『クリスチャンだから浮気なんかしない』などと思うな」と言われた」ということが出た。
 私は若いときは威勢が良く、言葉も中身も強くて、誤解されたり迷惑をかけたりしたが、これもその頃のことだから、少し注釈が必要だ。
 私の言わんとしたことは、「『クリスチャンのご主人は浮気などはしないから安心だ』ということが、奥さんの甘え、不注意、怠慢に繋がってはいけない」という意味だ。
 旦那は外に出れば、道路でも電車でも会社でも、よそゆきの支度をした女性たちを見る機会が多い。誘惑の機会も多い。クリスチャンは決して行かないが、遊び場には着飾った女性がいくらでもいて、いくらでもちやほやしてくれるわけだ。
 ところが内の奥さんが着飾るのは外出の時、つまり他人に見せるときで、ふだんは安心しきって、旦那にはぶざまな格好しか見せず、また旦那をちやほやもしないとすれば、(もちろん経済的、時間的な理由はあるが)それじゃクリスチャンの旦那がかわいそうだと言う意味だ。
 あるクリスチャンの奥さんの息子が、お嫁さんと子供を置いて蒸発したので、相談を受けた。行った先を知っているのは、行き付けのバーのマダムだけだと言うので、結局そのマダムから聞き出して、息子がやっと家に帰ったことなどもあった。
 これは奥さんについても言えるので、ご主人は会社ではきちんとして、尊敬されているのに、家では(緊張から解放されたのだから無理もないが)ステテコでテレビの前に寝そべっているだけでは、奥さんもかわいそうなわけだ。
 私の言葉は「それだから、それぞれ注意深く、相手を尊敬し、具体的に、賢明に愛し合うことが大切なのだ」という、とても為になる言葉のはずだったのです。

 上田 敏詩集 1999年6月13日

 ある劇作家が友だちと近所の古本屋に行った。
 友だちはその店にあった豪華版の「上田敏詩集」を手にとって「息子が欲しがっている本だ」、と言ったが「どうもこの値段ではね」と苦笑して、もとの棚に収めた。
 その息子は東大の秀才で、友だちの生きがいはこの息子一つと言っても良かった。
 ある日、劇作家がまたこの本屋に寄ってみると、あの「上田 敏詩集」はもとの棚に、金色の背中をにぶく光らせていた。あれから10年の月日が流れたが、なんの変りもなかった。
 しかし友だちの息子はこの間に、妻もあり二人の子供もある、平々凡々たる、小会社のサラリーマンになっていた。そしてあの友だちはすでに亡くなっていた。
 本の上の10年、人の身の上の10年。そんなことを考えさせられた。
 これは最近読んだ文章だが、実はわたしの本棚にも、この豪華版の「上田敏詩集」が入っている。牧師になる前、多分行商をしていた貧乏な頃、古本屋で無理をして買ったのだ。田舎の古本屋だから安かったのだろう。あれから数十年、だいぶ古ぼけたが、いまも書棚に「金色の背中を鈍く光らせて」置いてある。
 わたしは金がなくなったり、買い込んだ本の置き場に困ったりで、涙を飲んで本を売り払ったのは、五回や七回ではない。しかしこの本は、手放さなかった一冊だ。
 いま改めて棚から引っ張り出し、ほこりを落して眺めてみるとなつかしい。本人の詩もさることながら、外国の詩を、流麗、典雅、そして自由な日本語に訳したことで、天下一品の詩集なのだ。
 奥付けには「大正一五年五月第六刷発行、定価三円八〇銭、第一書房」などとある。
 わたしも本と自分の60年を考えた。