小林前牧師 コラム集(21) 「希望のダイヤル原稿」から
一俵の米 2001年7月1日
明治の頃のある熱心なクリスチャン家族のお話です。この人は九州の出身で政治家になろうとして、勉強しているうちに、体を壊し喀血をくりかえして、とうとう寝たきりの病人になってしまいました。すっかり貧乏になりましたが、それでも家族ともどもお祈りしながら貧しさに耐え頑張っていました。
ある時、親戚の人がお見舞いにお米を一俵くれました。大喜びをしていると、ある夜、このお米を盗まれてしまったのです。家中でお祈りしようというときに、さすがにこの時は神様に対する感謝の言葉が出てきませんでした。しかし奥さんは祈り始めました。
「神様、私たちは貧乏ですが、神様は今日まで長い間、家族を守り養ってくださったのです。感謝します。またこれからも神様が、守ってくださることを信じて、全部神様におまかせします。私はお米一俵の問題で神様を疑ったりしません。」
ご主人は祈りました。「こんな貧乏な家から米を盗んでゆくとは、泥棒もひどいやつです。あるいはよくよく困ったせいかもしれません。しかし私たちはどんなに困ることがあっても、人の物を盗もうと思ったことがありません。神様が私たちの心を守ってくださるからです。本当に感謝します」
子供たちは祈りました。「神様、私たちにこんなに立派な両親を与えてくださったことを感謝します。このお父さんとこのお母さんは私たちのお手本です。私たちはこの両親を誇りに思います。」
最後にお母さんは祈りました。「私たちはクリスチャンになったおかげで、どんなときでも、みんなで神様にお祈りすることができます。本当にありがたいことです。」と、結局みんなで感謝のお祈りができたのです。これでは一家心中も、子供の家出もありませんね。
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」ピリピ人への手紙4章6節
資産の評価 2001年7月8日
ある牧師さんのところに、五十二歳の男の人がきました。そして申しますには、「私は事業に失敗して全部を失ってしまいました。もう一度出なおすには年をとりすぎています。私は希望がありません」
牧師さんは言いました「本当にそうでしょうか。もう一度二人で考えてみましょう」と紙と鉛筆を出して来ました。
二人で神様の助けと導きをお祈りしたあとで、話し合いながらその結果を紙に書いてみたのです。それはこんな風でした。
「あなたはご健康ですか」
「おかげ様で体だけは丈夫です」
「そうですか。それは神様の恵みですから、感謝しましょう。ではあなたの生活はどうでしょう」
「クリスチャンであるおかげで、まじめな生活をしてきましたから、その点では、人の信用を維持していると思います」
「奥さんはいかがですか」
「苦労ばかりかけていますが、よくやっています。信頼できます。とにかく私たち夫婦は愛し合っています」
「お子さんは」
「三人いますが、健康でよい子供たちだと思います」
「友だちはいますか」
「お互いに気持ちのわかる、よい友だちが数名います」
「あなたはクリスチャンでしたね」
「そうです。先生。私はクリスチャンです。私にはよい牧師さんとよい教会があります。祈ることもできるのです。いままでの私の考え方はまちがっていました。神様はいまも私に、たくさんのものを与えて、私を祝福していてくださるのです。神様が今日まで私と家族を守ってくださったのですから、これからもきっと守ってくださいます。私は神様に感謝することを忘れて、信仰を失い、絶望的な気持ちでいました。私は神様におわびします。そして頑張ってゆきます。きっと神様は助けてくださいます。先生もう一度お祈りしてください」
今週の聖書
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」
テサロニケ人への第一の手紙5章16節〜18節
井戸での出会い 2001年8月5日
キリストは三年あまりの伝道生活の間、ほとんど旅行していました。神様のこと救いのことを、一人でも多くの人々に伝えるためで、ご自分も「狐は穴あり、空の鳥はねぐらあり、されど、人の子は枕するところなし」と言われたくらいです。
あるときのこと、サマリヤのスカルという町をお通りになり、その町の真ん中にあるヤコブの井戸でお休みになりました。丁度お昼時だったので、弟子たちはパンを買いに行きました。キリストはひとり、涼しい井戸端でお休みになっておられました。
するとそこへ、一人の中年の女の人が水を汲みに来ました。この話は、ヨハネによる福音書四章に出ています。この人は名前が書かれていないので、いまだに「サマリヤの女」と呼ばれています。サマリヤの女は、井戸端に人がいたのでびっくりしたようでした。一体この地方の女の人が水汲みに集まるのは、朝か夕方に決まっていて、こんな真昼間に来るのは、いわゆる人目を避けたからでした。この女は誰からも相手にされない、淪落の女、身を持ち崩した婦人だったからです。何に身を持ち崩したのでしょうか。聖書には異性関係のことしか書いてありませんが、同棲した男子だけでも五人、今は六人目と一緒に暮らしている。そのくらいですから、交際した男子は数知れず、その生活の乱れは、態度にも服装にも言葉にも表れ、まずだらしない、低級危険な女と見られていたでしょう。ではなぜ、この女はそんなに、いろいろな男子と、暮らしたりしたのか。ずばり言えば、この女なりに、喜びと満足と、幸福に満ちた生活を求めた結果だと思います。
さて彼女は幸福な生活を送れたでしょうか。いいえ、今は疲れ果て、頼みの容色も衰え、淋しいアキラメムードになっていたと思います。しかし、キリストとの出会いは幸福でした。この女はキリストに教えられ、救われて、この日から全く新しい清潔な、しかも、幸福な生活に入りました。
人生の切り替え 2001年8月12日
誰かに出会うことによってわれわれの人生が変わってくる、ということがあります。サマリヤの女は水を汲みに行って、井戸で休んでいるキリストに丁度出会いました。この女はとっかえひっかえ、五人の男と同棲し、今は六人目の男と一緒にいるのですから、その生活は乱れていて、危険な女とされていたのでした。ではなぜこの女が、そんなに男出入り、男あさりをしたか、というと、おそらくこの女なりに、幸福を求めた結果だと思います。女の人は結婚した相手の男次第で、ずいぶん幸福にも不幸にもなるわけですから、この女が幸福な結婚にあこがれ、その美貌に物を言わせて、ボーイハントに熱中する、その気持ちもわからなくはありません。また、結婚してみても、男が幸福を与えてくれなければ、グズグズしていないで、別れて別の男を求めるというのも、一面から見ればずいぶん勇気のある人です。
さて、そんなに勇敢で真剣な彼女が、本当の幸福をつかむことができたでしょうか。そうもいきませんでした。今、同棲している六人目の男にも、どうせ不満でしょうが、もう今では年齢も進み、若さも美しさも過ぎ去り、気力も尽きました。そして汚れきった、すさみきった生活と、淋しいあきらめの気持ちだけが残ったのです。
ですからキリストがこの女に、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう」とおっしゃったとき、その意味はこの女によくわかったと思います。この女の気持ちにピッタリの言葉だったからです。しかし、それと共に、続いてキリストの言われた「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」というみ言葉は、この女の心を打ちました。