小林前牧師 コラム集(14) 「希望のダイヤル原稿」から
真夜中の歩哨 2000年4月9日
大西洋を航海している大きな船の中で、クリスチャンたちの礼拝が行われていました。
一人のアメリカ人の紳士が、となりのアメリカ人に聞いています。
「今、『我が魂の愛するイエスよ』という賛美歌を歌った時の、あなたの声や歌いぶりは、どこかで聞いたような気がしますよ」
「そうですか。はて、どこでしょう」
「今思い出そうとしているのですが、あなたは南北戦争に出ませんでしたか」
「はい、出ました」
「では、寒い暗い夜に、一人で歩哨に立ったことはありませんでしたか」
「そんなこともありました」
「その時、この賛美歌を歌いませんでしたか」
「ああ、思い出しました。あの時はあんまり心細いので、神様にお祈りしたのです。そしたら『きっと神様が守って下さる』と確信して、心が安らかになったので、それでこの賛美歌を歌ったのでした」
「そうでしょう。その時私は、あなたの敵軍の兵隊だったのですよ。あなたに気がついて、撃ち殺そうと銃を構え、引き金に指をかけたのです。すると、あなたの歌う賛美歌の声が聞こえました。私はその賛美歌を終わりまで聞いていました。そしてあなたを撃つのを止めて、帰って来たのですよ」
「ああ、そうでしたか。少しも知りませんでした。ではあの時、神様は祈りに答えて、私たちを守って下さったのですね。本当に不思議ですね」
二人は改めて握手しました。そして一緒に、もう一度あの賛美歌を歌いました。
聖書の言葉
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」
キリスト
人生の旅人 2000年5月7日
キリストのお話の中に、有名な「親切なサマリヤ人」というお話があります。
「ある人がエルサレムからエリコに向かって旅に出た」というのがお話の始まりです。
一体人間の一生を旅行のようだと感ずるのは、日本でも外国でも同じで、芭蕉の「奥の細道」の「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」という書き出しも有名ですね。
キリストのこのお話でも、旅行を人生に見立てて教えておられるのです。
一体エルサレムという町は非常に高いところにあって、日本で言えば軽井沢ぐらいです。ところがエリコは地中海の海面よりも250メートルも低いところにある。日本にはそんな低い土地はありませんが、エリコは世界でも一番低地の町なのです。そして、その間はわずか20キロ、館林、足利間ぐらいですから、エルサレムからエリコの道といえば、赤城山から下りてくる程下り坂です。
おまけにエルサレムは、神殿あり、王宮あり、大学ありで、ユダヤ人の自慢の町、エリコは国境に近く、砂漠を海にたとえれば、砂漠の海に向かって開かれた港町のようで、金儲けは盛んだが一種の宿場町で、国境警備隊もいる、あまり空気の良くない町です。その意味でもこの旅行は下り坂です。
結局キリストの見方では、人生は下り坂だということなのです。人間は子供から大人に成長してゆく。力もつく、勉強もできてくる。責任も重くなる。生活も豊かになる。それはそうですが、その心も生活も、大人になるほど、まじめさ、純粋さが失われ、罪深く汚れてくるのも事実です。
幸福ということを考えよう。多くの大人は、子供の頃は幸福だったと考えます。人生の旅は進むほど、道徳的にも、価値においても、幸福においても下り坂なのです。そして最後には老年が、そして死が待ちかまえているのです。
キリストのこのお話の中で、何人かの旅人が出てきますが、要するに全部、救われなければならないのです。
強盗の一団 2000年5月14日
キリストのお話の中に、一人の旅人が強盗にやられた、気の毒な話があります。
一団の強盗が急に出てきて、この旅人を捕らえ、金を奪い、着物をはぎ取り、半殺しにして逃げてゆきました。ひどい連中です。こういう連中にとっては、街道も人生も要するに悪事を行う舞台です。通行人はエサとしか目に写りません。しかし実は誰でも最初から強盗ではないので、何かのわけで、だんだん悪の道に引き込まれてゆくのです。
一体強盗はたいてい金を狙うが、盗んだ金で親孝行をしようとか、大学へ行こうなどというのは少ないので多くの場合は遊興費を稼ぐのです。要するに遊ぶことが好きで、遊ぶには金がかかる。逆に遊んでいたのでは金は入らない。そこで人の物に目をつけるようになる。こんなケースが多い。善い人よりも、悪いことをする人の方が不思議に友達や仲間をほしがるものです。さて、悪事の仲間に入ってしまうと、今度は抜け出すことが難しくなります。
今は日本だけでなく世界中に犯罪が多い。困った問題です。しかし犯罪人も普通の人と紙一重です。子供を過保護にして何でもどんどん買ってやる、そのため、ほしいけれども今は我慢しよう、それを得るためには努力しよう、という気力を持たせないと、いわゆる意志の弱い人になって、すでにそこに犯罪に対する危うさ危険性があるものと考えますが、どんなものでしょうか。私はこういう問題について、親も子供も先生も神様の導きと助けを求め、謙遜に祈ることが大切だと思います。
さて、半殺しの目にあった気の毒な旅人ですが、いわゆる取る方は泥棒で、取られる方はベラボウ、というように、こちらの方にも不注意とか、抵抗力がないとか、という問題がないこともない。
冷淡な紳士 2000年6月4日
一人の人がエルサレムからエリコへの道を旅行していると、強盗どもに襲われ、金は取られ、着物は剥がされ、おまけに半殺しの目に会わされました。
犯罪というものはしばしば、強くて利口な犯罪者と、不注意で弱い被害者とのセットで成り立っていることがあります。場合によると不注意な人が犯罪を引き出す場合がある。金のしまい場所をうっかり人に見せるとか、女の人の夜の一人歩きとか、態度や服装のルーズとか。
私たちは自分が加害者にならないように注意すると共に、被害者にもならないように注意することが、ことに今のような時代には必要だと思います。
さて、強盗に襲われて、半殺しの目に会い、息も絶え絶えで苦しんでいるこの旅人のそばを、いろいろな人が通ります。
祭司が通りかかりました。この怪我人に気がついたようでしたが、知らん顔をして、そこを避けて通り過ぎて行きました。次にレビ人が通りました。この人も同じように行き過ぎました。祭司やレビ人は、神殿にいて、神様を礼拝しようとして集まって来る参詣者を指導し、助ける大切な人たちでした。いわば宗教家です。しかも当時は、宗教家は教育の責任も、政治の責任もみな持っていましたから、国民に尊敬され、信頼されている人たちだったのです。
勿論彼らは強盗のような加害者になるほど悪人ではありませんでした。またあの旅人のように、強盗のエサになるほど、愚かでも不注意でもありません。自分の生活はちゃんとやっていける人です。また、宗教家、教育者、政治家として、見かけの上では立派な生活をしていたでしょう。しかし、彼らの正体はエゴイストでした。自分一人の時、誰も見ていない時には、どんなに困っている人を見ても少しの手間も、少しの費用も惜しんで、同胞を見殺しにしました。
私は神様がご覧になると、あの強盗も、この紳士も、本質的にはそんなに変わらないのではないか、と思いますがいかがでしょうか。そしてこのキリストのお話を鏡として、自分を写してみるとどうでしょうか。