館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(19) 「希望のダイヤル原稿」から

 天国への道 2001年2月18日

 キリストは私たち人間の罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださいましたが、その前の晩、お別れの意味もあって、弟子たちとお集まりになりました。何しろあしたは殺されるということは確実でしたから、誰の気持ちも、とても大変でした。
その時キリストは「わたしは殺されても、死を越えて神様、天の父のところへゆくのだ。あなた方も、私の弟子として3年も教えをうけたのだから、私の行こうとする天国のことがわかっているでしょう。そしてやがてあなたがたもそこに来るのですが、その道もわかっているはずです。だからどんなことがあっても、動揺してはいけません」とおっしゃいました。
 その時、とても正直なトマスという弟子が「先生、本当のことをいうと、その大切なことが、わかっているようでわかりません。ですから私たちの心は、今つぶれ相に恐ろしいのです。」と言いました。
 その時、キリストのおっしゃったお言葉は有名です。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」
 エスカレーターは一つの道です。ただ階段と違うところは、しっかりそれに乗っていれば、歩かなくても、二階に行けます。私たちは罪深い人間ですから、天国に行く資格がありません。しかし、私たちのために十字架にかかり、全ての罪を許してくださる救い主キリストにたよるならば、だれでも天国に行けるのです。
 お母さんと一緒に旅行する時、中学生の兄さんは目的地に行ける、赤ちゃんは歩けないし、何にもわからないから、目的地にゆけないということがあるでしょうか。そんなことはありません。この場合、お母さんが「生きた道」なのですから。だからキリストを信じる者は、明日死ぬとしても動揺しません。

 アドバルーン 2001年3月4日

 パウロという人は初代教会の大立者で、新約聖書の3分の2は彼の筆によって成ったと言われるし、とにかくキリスト教にとってはなくてはならぬ人です。
 そのパウロがクリスチャンになる前の言葉として、聖書の中で「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」と言っています。時々人間は自分をみじめだと思うことがありますね。背が低くてみじめだ。運動神経が悪いので、スポーツがやれなくてみじめだ。こんなみじめな洋服は着ていけない。家がみじめで友達を呼べない。3年も浪人なんてみじめだ。いろいろあります。しかし、パウロの場合はこうなのです。「わたしの体の中には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。善をしようとする意志はあるが、それをする力がない。つまり、わたしの望んでいる善はしないで、望んでもいない悪はやってしまう。わたしは何とみじめな人間なのだろう」この深刻な告白は、新約聖書ローマ人への手紙7章にあります。そしてこれもまた一つの人間のみじめさです。
 テレビ、新聞で、毎日犯罪の話が洪水のようです。でも心底からの悪人というのは少ないので、実は何となく自身がなく人生に希望を失ってヤケになったか、悪い、いけないと思いながら、意志が弱くつい誘惑を断れなくて、ずるずると悪の道に引き込まれて、気がついてみたらとんでもないことになっていた。というケースが多いのではないでしょうか。本当にみじめな話です。
 しかしパウロの告白はそれで終わっているわけではありません。キリストを信じて救われてからは「キリストにあるいのちの法則は、罪と死の法則から我々を解放した」と言っています。
 アドバルーンに満たされたガスの上昇の力が、地球の引力の法則に勝って、アドバルーンを上昇させるように、キリストを信ずる者は新しい力に満たされて、罪に勝つことができるのです。

 キリストとユダ 2001年3月11日

 有名なレオナルド・ダビンチの描いた、最後の晩餐という画は、これも有名で、世界の宝です。キリストが十字架の前夜、十二名の弟子たちと一緒に、最後の晩餐をおとりになった、その場面を描いたものですが、今は大分古くなっていたんでいますが、今もイタリー、ミラノの修道院の壁画として、そこの食堂を飾っています。(長い間の修復が終わって、昨年からきれいな壁画になった相です)
レオナルドは、この画の中の、キリスト像のモデルをさがして大分苦労をしました。そして、ある教会の聖歌隊の青年が気にいってモデルに使いました。この青年は立派な顔をしているだけでなく、まじめで、健康で、声もよくて、本当に魅力的な青年だったのです。レオナルドは、彼の顔をたくさんスケッチして、それから、キリストの顔を描き上げました。
しかしこの絵はなかなか完成しませんでした。最後にユダの顔、あのキリストを裏切り、お金を受け取って先生を敵の手に売り渡した、憎まれ者のユダの顔を描くまでに、十年以上の月日が流れました。レオナルドは今度は、ユダのモデルを見つけるのに骨を折りました。なかなか見つからないのです。
あるとき町角で、一人の乞食に金をやりました。乞食が金を受け取る時の、いやしい、不潔な、よくばりな顔が、ユダのイメージにピッタリだったので、この乞食をつれて来て、モデルに使いました。
驚いたことに、この乞食は描きかけの最後の晩餐の画を見ると言いました。「先生、まだこの画は完成しないのですか。私は昔、このキリストのモデルになった男です。あれから、少しずつ誘惑に負けて、悪いこと
をおぼえてダラクしてしまったのです。ああ同じ俺が、今度はユダのモデルになるなんて」と言って悔しそうに泣き出しました。
これは一つの物語です。我々も小さな誘惑、小さな罪から、だんだん自分をダメにしてしまうようなことがないように、よくお祈りをして、神様に守って頂きましょう。

 手術台の祈り 2001年6月3日

 一人のこどもが病気になり、入院しました。検査の結果、手術をすることになりました。手術の日が来ました。手術室に入って、用意ができると先生は言いました。
 「さあ、このパイプを口にくわえなさい。そうすると君は眠くなって寝てしまうのだよ。君が眠っている間にちゃんと手術をすませて、病気を治してあげますからね」
 こどもは言いました。
 「そう。では僕はこれから眠るのですね。それならいつものように眠る前にお祈りをします。ぼくはいつも寝る前に、神様にお祈りするんです。先生ちょっと待ってて下さいね」お医者さんは待っています。
 こどもはお祈りをはじめました。
 「神様、僕はこれから眠ります。いつもはおうちのベッドで寝ますが今日は病院のベッドてす。でも僕が眠っている間、いつものように僕を守ってください。そして目がさめたら元気に起こして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」と祈りました。お医者さんも看護婦さんも、こどものお祈りを聞いていましたが、最後には、つりこまれて、みんなで一緒にアーメンと言いました。
 子供は静かに眠りました。手術はうまくゆきました。お医者さんも看護婦さんも「何となく神様が守ってくださる」と感じました。手術は早く終わりました。こどもが眠りからさめると、看護婦さんが言いました。手術はとてもよくできました。病気はすぐよくなりますよ。君が眠る前にお祈りしたから、神様が守って下さったのね」 と言いますと、こどもはにっこり笑って「そうですね。ありがとう」と言いました。
 みんな「お祈りをするって、なんて良いことなんだろう」と思ったのでした。

 旧約聖書 詩篇4篇のみことば
 「私は安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせて下さるのは、ただあなただけです」