館林キリスト教会

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小林前牧師 コラム集(15) 「希望のダイヤル原稿」から

 真夜中の歩哨 2000年6月18日

 キリストがお話してくださった、エルサレムからエリコへの旅行は、人生の旅行の譬えだと言うことを考えてきました。
 そして強盗どもに襲われて、半殺しにされ、放り出された気の毒な旅人は、確かに人生の旅の途中で、疲れ倒れる、人間の姿でもあるのです。我々はたびたび人生の旅で、いろいろな敵や、困難や、危険に襲われます。ある時は戦って勝ち、ある時は何とか切り抜けますが、ある時は力尽きて倒れてしまうのです。
 この人を見殺しにして通り過ぎていった、祭司やレビ人のあとから、一人のサマリヤ人が通りかかりました。彼は普段、人々から嫌われている異国人でしたが、倒れた旅人を見ると、心から気の毒に思いました。そして近寄ると、傷を洗い、持っていた葡萄酒で消毒し、オリーブ油で傷を包んで、包帯し、自分の乗って来た、ろばに乗せました。
 この地方では、水さえ貴重品で、葡萄酒やオリーブ油も、食事の時に必要なものなのですが、このサマリヤ人は、知らない人を介抱するために、惜しげもなく使ってしまいました。ろばも我々の自動車のように必要な、そして高価なものでした。
しかもサマリヤ人は、道を引き返してホテルにつくと自分でホテル代や医療費を負担して、ホテルの主人に、この怪我人を頼んだのでした。
 聖書に「われらの救い主、イエス・キリスト」と何回も書いてあるように、キリストはすべての人の救い主であって、このサマリヤ人の譬え話の中に描き出されているのは、このキリストの姿なのです。
 キリストはベツレヘムの馬小屋に生まれ、私たちに近づくために、貧しい労働者の生活と、貧しく報いられない伝道の生活とを送り、最後には十字架にかかり、我々の罪のゆるしと、救いのために、一切を投げ出してくださったのでした。この旅人のように、私たちもイエス・キリストによって救われることが出来るのです。

 11人の兵隊 2000年7月2、09日

ある戦争の時、11人の兵隊さんがすっかり敵に囲まれて苦戦していました。
敵は、11人の兵隊は間もなく食糧がなくなり、きっと降参するに違いないと思っていました。 その時11人の兵隊が一番困っていたのは水です。みんなのどが渇いてカラカラでした。
ふと一人の兵隊が、庭の木の枝に水筒が一つぶら下がっているのを見つけて取ってきました。ほんとうにヤレヤレです。そこで一口ずつ飲むことにしました。
 最初の兵隊が水筒に口をつけましたが「いや俺はまだ我慢できる。もっとひどくのどが渇いた者にゆずってやろう」と思って、飲んだまねだけして、次の兵隊に渡しました。ところが次の兵隊も同じように考えて、飲んだふりをして次の人に渡しました。
 こうして最後まできましたが、最後の兵隊も皆の親切がわかったので「俺だけこの水が飲めるか」と言って、そこへ置きました。
 間もなく友軍が助けに来て、包囲中の敵と激しい戦闘の末、この11人は救い出されました。
救い出された後で誰かが
 「あの時、木の枝にこんな水筒が下げてあったのはおかしいぞ」と言い出したので、調べてみると、敵の仕かけた毒水だった相です。この11人の兵隊さんは、友情と頑張りで、あの毒水からも救われたわけです。
 家族でも会社でも、一人がへこたれて弱音をふくと、それが伝染してゆきます。これが総崩れのもとです。誰かが自分勝手だと、みんなが競争で自分勝手をするから、お終いにはケンカになって共倒れです。
 悪魔はよく毒水を仕掛けて飲ませようとしますから、お互いによくお祈りして、愛し合い、助け合い、励まし合って、頑張り、悪魔に負けないようにしましょう。
聖書のことば
 「もしあなた方が善に熱心であれば、だれがあなた方に危害を加えようか」
     ペテロの第一の手紙、3章13節

 ころころ 2000年8月6日

 旧約聖書箴言の第4章に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」というみ言葉があります。油断することなく守らなくてはならない大切なものは沢山あります。お金は金庫に入れたり、銀行に預けたりして大切に守ります。家にもカギをかけます。また自分の健康を守るために、私達はいつも注意をし努力をします。それらは私達の生活の土台となる大切なものだからです。
 ところが心はもっと大切です。ここに「命の泉は、これから流れ出るからである」と書いてあるのは、心は生命と生活の源泉、すなわち「源である」ということです。「あの人は良い人だ」と言う場合、器量が良いのとは別でこれは心の問題です。「あれは腹黒い人だ」と言われながら、色白の人だっているでしょう。パスカルは「その人が幸福だと感じない限り、決して人は幸福ではない」と言いましたが、人間の幸福さえ、その人の心から流れ出すと言ってもよいのです。ところが、大切なものを守るのにとても注意深い人間が、一番大切な心を守ることに、うっかりしていることが多い、と言うよりも、実は自分の心を守るのは難しくて、守りあぐねている、というのが実状ではないでしょうか。本当にこの大切な心が、実はなかなか不確かなので、「ころころ」いつも転がっていくので、心と呼ばれていると言われるくらいです。
 そこでクリスチャンは、自分の心を守って頂くために、聖書を学び、お祈りをするのです。神様は人間も、人間の心もお造りになった方ですから、私達の心をきよめ、守り、また助けを与えてくださるのです。さしずめ、お金は銀行に、身体の病気はお医者さんに、そして心の問題は教会に、ということでしょうか。
 「主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが、あなたの前に喜ばれますように」 詩篇19篇14節

 こわいお客様 2000年8月13日

 中国のいなかで伝道していた、ある宣教師の一家がありました。村中、昔からの迷信的な宗教に束縛されているので、なかなかクリスチャンになる人は出ませんでした。
 ところがある年、干ばつで雨が降らないので、この分では作物が取れなくなるという心配が出てきました。あちこちの神社やお寺などに村人が集まって、雨乞いのお祈りなどをしきりにしましたが、一向雨の降る様子がないので、パニックの状態になりました。
 とうとう「あの西洋人の宣教師などがやって来て、外国の神様などを持ち込んで来たので、土地の神様が怒っているのだから、奴らを殺して神様に供えよう。そうすればきっと雨が降る」ということになって、その夜遅く「乱暴な人達が押しかけて来る」という情報が入りました。
 ちょうど、ご主人の宣教師は留守で、三人の子供をかかえた奥さんは困ってしまいました。一生懸命お祈りしましたが
「そうだ。私たちは村の人たちと友達になって、キリストの話を伝えようとして来たのだ。友達が来るのなら友達として迎えよう。結果は一切神様に任せよう」そこで、家中にあかりをつけて、戸も窓もみんな開き、子供たちにはよそゆきの着物を着せて、おいしい紅茶とお菓子を用意しました。
 男達が現れました。奥さんが挨拶して紅茶カップを渡すと、受け取りました。男達は何となく歩きまわっていましたが、一人がオルガンにさわると、奥さんがそのオルガンを弾き始めました。子供たちは賛美歌を歌いました。一人が一番小さい子のそばに寄ると、その子はニコニコして、男に手をのばして握手をしました。
 男達の一人は「何だ、何もないじゃないか」もう一人「俺はここには用はない。帰るぞ」そしてみんな帰ってゆきました。
 奥さんがその夜、感謝のお祈りをしていると、屋根に雨の音がし始めました。そしてとうとう大雨になったのです。