館林キリスト教会

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ショート旧約史 ヨエル書

「イナゴの災害」 ヨエル書1:1〜12 1996/7/7

la@wy{(ヨエル)」は「主は神である」という意味で、イスラエルにはごく普通の名前らしく、旧約聖書にも同名の人物が十数名もいる。またこの預言者がどこでいつ預言したのかよく分からない。なにしろこの書には王様の名前も出てこないのだ。しかし多分イスラエルがバビロンに滅ぼされる直前の預言者と思われる。イスラエルは当時、各種のイナゴの災害に悩んでいた。この地方のイナゴは雲霞の如く押し寄せてあらゆるものを食べ尽くしてしまう。現在でもレールに群がるイナゴを轢き潰すため、その油で電車が脱線するくらいだ。しかしこのイナゴも、やがて神の裁きの実行のため、襲って来るバビロン軍の前兆なのだ。悔い改めを促す神の警告なのだ。

「祭司よ泣け」ヨエル書1:13〜20 1996/7/14

イナゴの災害、近づくバビロン軍の攻撃と、国は非常事態だ。このときヨエルは祭司たちに向かって言う。「泣け」「泣きつつ夜を過ごせ」と。祭司は神と民の間に立って、民の悔い改めを神に取り次ぎ、民に代わって神の祝福を祈り求める、すなわちとりなしの祈りの努めを期待されているのだ。さればこそ、今は彼らが「泣きながら祈る」時なのだと。わたしは「涙の祈り」の少ない牧師であることを恥じる。しかし祭司だけでなく、すべての人が「悲しむものと共に泣き悲しみつつ」試練、苦難に遭う人のために祈らなければならないのだ。それゆえヨエルは「聖会を招集し、長老たちを集め、断食を布告し、主に向かって叫ぶ」ように勧めている。われわれも、心を込めてお互いのために祈り合う集会を大切にしよう。

「暗い日」 ヨエル書2:1〜11 1996/7/21

預言書も大体「詩」の形式で書かれている。また比喩的形容の限りを尽くした名文が多い。ここにはイナゴの被害が書かれている。(もちろんその背後にはバビロン軍侵入の暗示が重ねてある)。イナゴの来襲は「薄暗く、やがて真っ暗になる」のが前兆だ。彼らの来襲は「山野、村落を選ばず焼き尽くす山火事」のようだ。彼らの侵入はまるで「規律正しく訓練された、整然たる軍隊」のようだ。彼らは山野、耕地だけでなく「町に入り、城壁の上を走り、家々によじ登り窓から屋内に侵入する」警察も軍隊も手がつかない。実はこれは神の裁きなのだ。恐るべきことに「その軍勢の前で号令をかけるのは神様なのだ」。言葉のはしはしに暗示される、イナゴ以上の浸入者、バビロン軍こそ、さらに恐ろしい災害をもたらそうとしている。これがヨエルの警告なのだ。

「聖会の招集」 ヨエル書2:12〜22 1996/7/28

昔の聖会では、牧師たちの準備の祈り会や最初の集会でよくこの聖書が読まれた。また、28節以下の「聖霊のそそぎ」のお言葉も読まれた。使徒行伝2章のペンテコステの祈り会でも同じお言葉が読まれたようだ。ある意味でヨエル書は「聖会の書」とも言えるのだ。祭司と民とを問わず、老人と青年とを問わず、また新郎新婦も招集を受けた。そしてそこでは自分の罪を悲しみ、国と民の現状を悲しみ、失われた神の祝福を求めて、心をこめて泣きつつ祈ることが期待された。痛みも苦痛も感じないのは病人の末期症状の一つだなどとよく言われる。われわれも自己満足に耽り、いつか神の前に泣く心を失ってはいないだろうか。

「聖霊の注ぎ」 ヨエル書2:23〜32 1996/8/4

ここからは、人々の悔い改めを受け入れ祈りに答え給う、神の祝福の回復が語られている。イナゴの害、敵軍侵入の災禍も回復する。(28.29節)には聖霊の注ぎの約束がある。これはクリスチャンの魂と生活と証の回復なのだ。その結果「老人たちは夢を見、若者たちは幻を見る」と言われる。夢とは現状維持、尻込みの反対で、理想を描き、力一杯前進することである。そして「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」という有名な約束が続く。館林キリスト教会の老人青年にも、この約束が与えられている。足踏み状態でなく、夢を見幻を見ながら進もう。主はさらに多くの「主の名を呼び求める者」を起こして下さるのだ。

「イスラエルの回復」 ヨエル書3:1〜16 1996/8/11

今まで読んできた預言書には、「イスラエルの罪に対する神の裁き」のメッセージが多かった。読みながら疲れを感ずるほどだった。しかしヨエル書にイスラエルの許しと回復の預言が多いのは、慰めである。彼らを攻撃し侵略し、苦しめ辱めた諸外国が、いま反対に神によって裁かれるのだ。昔に比べれば、現在はイスラエルが回復している時代だ。でもなお、彼らの罪と苦悩は継続している。しかし最後の日、キリスト再臨の日に、世界の諸悪が裁かれる時、イスラエル人の救いと回復が成就するのだ。この日の救いはイスラエルだけではない。いま世にあっては孤立し、肩身の狭い思いで生活するすべてのクリスチャン、教会にとっても、救いと祝福の日であるのだ。これがわれわれの最終の、また最大の希望なのだ。