館林キリスト教会

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ショート旧約史 創世記1〜19章

「天地創造」 創世記1:1〜19 1997/8/31

神様が天地宇宙を創造された時、それを見ていた人はいない。それを報告する人も、情報を伝える人もいない。それができるのは神様だけである。また、その情報のスタイルを決めるのも、神様の自由だ。同じ理由で、この記事に関する人間の傍証はない。これが、創世記、1章を読む根本的な心構えだ。この章の表現は昔の人にも分かりやすかったろう。また暗記、朗誦に適したスタイルだから、家族礼拝や集団礼拝で、交読をしたかもしれない。これは神を信じる者の、基本的信仰告白だったのだ。それゆえに、まだ文字が一般的でない時代にも、原文は正しく保存されたと思う。これから続いて、創世記を交読して行きましょう。

「人間の創造」 創世記1:20〜31 1997/09/07

ダーウインは進化論で「人間の先祖は猿だ」と言ったという(実際はそんなことは言わない)。しかしここには「人間は神によって、神の形に創造された」とある。人間観の根本に大きな差異がある事が分かる。そして神は人間を祝福された。全ての生き物を管理するように。また人間のために地球をお与えになったが、まだ素材的だった地球を、人間の知恵によってますます開発するように、ご計画になった。また自然の果実を自由に食べることをお許しになった。人間は、人間自身も、神の供給も、祝福も、期待も、全て完全な状態に創造されたのだった。彼らが堕落するまでは。

「エデンの園」 創世記2:1〜17 1997/9/21

(1章から2:4節)までは、地球規模で記された天地創造の記事だ。(2:5節)以降は、局地的に描かれた同じ記事だと思う。神は土の塵、即ち地球上の物質で、人の体を作られた。また神の霊を吹き入れたので、彼は霊的な生き物となったと記されている。ここに彼は物質の世界とかかわりつつ、しかも神様との交わりができる、人間の本質が語られている。またそこは「エデン」だった。ノアの洪水以来、世界の様子も変わったそうだから良く分からないが、四つの川の水源地(たぶん高地)だと紹介されている。そのうち二つ、ユフラテ、ギホン(ナイル川の古い名前)はいまもはっきり地図上に指摘できる川で、これは聖書に出てくる最初の地理と言っても良い。

「アダムとエバ」 創世記2:18〜25 1997/9/28

神はアダムに、すべての生物を見せ、命名させた。「名前を付ける」と言うことは「認識と管理」の始めだ。先のお言葉のように、アダムは地球の管理を任されたのだ。次は、最初の夫婦、アダムとエバが創造された話で、これも神の選ばれた文体によって記されている。ある人は言う。「結婚については『神を待て』と勧める。アダムの眠る間に、神は最良の妻を与えた」と。またこの話は、夫婦生活の基本を示す。肋骨は足の骨ではないから、妻は夫に踏みつけられるはずではない。また頭の骨ではないから、夫に向かって威張るはずではない。愛の器官と言われる心臓に最も近い肋骨は、互いに愛しつつ、また肋骨のように夫を支え、助け、仕えるのが、妻の役目だということを教えるのだ。群馬県の奥さんどうです?。

「禁止事項」 創世記3:1〜13 1997/11/2

運転者の自由に動くのが自動車の魅力だ。便利な代わりには間違えば事故になる。子供が乗る遊園地の自動車は事故がない。そのかわり自由には動かず自動車の仲間ではない。意志がなく、選択もなく、ただただ服従する人の愛情は、その本心を確かめにくい。自由に選択できる人が、選択の結果として愛してくれるのが、お互いに嬉しいのだ。実を自由に食べられる多くの木の中に「食べてはならない」一本の木が置かれたのは、神の御心であり、自由と選択と言うあらゆる場面の人間の価値の原則を示すのだ。我々の生活にもこの木がある。

「原福音」 創世記3:13〜24 1997/11/9

この箇所は昔から「原福音」と呼ばれる。禁断の木の実を食べるように誘惑したへび、これに従がって食べたアダム夫婦。神は彼らに宣告を与えたのだ。今後アダムは生活のための苦労、エバは出産の苦痛を知らなければならない。楽園の生活は終わった。しかしこれらの苦労の間に砕かれた彼らは神を求めるだろう。その時のために、神はキリストによる救いを用意して下さる。(15節)いったい彼らは、この背逆によって即死する筈であった。しかし神はそれを猶予して、自製の、不完全ないちじゅくの葉のカヴァーの代わりに、子羊の皮を用意して下さった。彼らは子羊の身代わりの死を初めて見た。これもキリストの救いの象徴だ。

「カインとアベル」 創世記4:1〜16 1997/11/16

アダム夫妻に子供らが生まれた。夫妻は自分たちの苦い経験と、神の愛のご配慮について、子供たちに良く話したろう。この頃にはすでに、多くの子供が生まれ、カインとアベルはそれぞれのグループのリーダーだったろう。そして二人はグループを代表して公式の礼拝を行った。アベルは両親の教えに従い、悔い改めと信仰をもって、犠牲の子羊を捧げたが、これはキリストの十字架を予告するものだ。しかしカインは、畑の産物を捧げた。彼はだんだん「神も人間のように、上等な食物の供え物を欲しがる」そう思い始めたので、よく選んだ農産物を捧げたのだ。これは礼拝と供え物に関する大きな履き違えだ。ゆえに神は、カインの供え物をお受けにならなかった。

「カインの追放」 創世記4:8〜16 1997/11/23

カインはアベルを殺した。羊飼いのアベル一族は多分復讐を考えるだろう。「復讐」「仇討ち」は、警察のない昔には社会秩序を維持する方法だった。しかしまだ人口の希薄なその頃、報復は血が血を呼び、恐ろしい混乱になるだろう。神はそれを避けるため「復讐」を禁じ、カインを東方の荒野に放逐し、この二つのグループを隔離された。同時にこれはカインの悔い改めのための猶予でもあった。この後世界は、カイン系とアベル系に分かれ、それぞれの地域で、次第に繁殖した。またそれぞれの特徴をもった、文化文明を生み出した。アベル系とカイン系の、それぞれの文化の性格は何か?。それは(17節)以下に出ている。

「カインの文化」 創世記4:17〜26 1997/11/30

以下には「カイン系」の子孫に発達した文化が書いてある。彼らは遊牧民として力を拡大して行った。有力者に多妻の習慣が起こった。女性は美しいというだけで尊重された。音楽も始まった。刃物、武器の制作も始まった。レメクの歌は「多妻、暴力、復讐」を誇る歌であることが分かる。事実彼は、女出入りで青年を殺したらしい。しかも「自分の復讐は神の復讐以上だ」と、うそぶいている。一方、アベルの弟セツによって指導されたアベル系の人たちは、「アベル殺人事件」のショックから立ち直り、こぞって主の御名を呼び、公式の礼拝と祈りが復活したのだ。このコントラストは厳粛だ。このようにして、創世記の歴史は進む。このコントラストを含みながら。

「系図」 創世記5:1〜14 1997/12/07

ここに「アダムの系図」とあるが、「系図」はヘブル語で「トーレドース」と言う。系図でもあり、伝記でもあり、年代記、すなわち歴史でもある。実は創世記は10個のトーレドースで成り立っている。すでに2章4節までが「天地創造のトーレドース(由来)である」と記されている。5章以下は「アダムのトーレドース」になる訳だ。思うに先祖たちは、系図とともに出来事をも記して(文字でなく口承の場合もある)子孫に伝えたのであろう。これが保存され、神の導きのうちに、著者モーセによって、創世記の内容になったかと考えられる。言わば「トーレドース集」だが、もちろんこれには難しい問題も含まれているが。

「聖徒エノク」 創世記5:15〜32 1997/12/14

この章で驚くのは、先祖たちの長寿である。いろいろな解釈もあるが、多分まだ気候その他の生活条件が良かったのだろう。しかしアダムに与えられた宣告は厳しく「そして彼は死んだ」という記述が重なっている。ここにエノクと言う人物が出てくる。彼は300年の長い間、雨の日も風の日も、神とともに歩んだ。そして最後は死を見ずして天国に行ったと書いてある。ヘブル書には「彼は生涯、神に喜ばれていることを証しされた」。とも書いてある。すばらしい聖徒だ。ある人は言う。「いつものようにエノクは、神様と一緒に散歩に出ました。その散歩があまり楽しかったので、家に帰りませんでした。そのまま天国まで、神様と一緒に行きました」と。羨ましい話だ。

「洪水の前」 創世記6:1〜8 1997/12/28

ここに「神の子」「人の娘たち」とあるが、難解で議論の多い所だ。わたしは「セツ系と、カイン系の間に混交が始まったのだ」と考える。カイン系の娘たちが、よりおしゃれで魅力的だったことは察しがつく。また彼らのなかには「ネピリム」のような、巨人、圧制者が多かった。そのために、この二つの種族は混交してしまった。クリスチャンの世に対する関係も似ている。もしこのような混交があれば「悪貨は良貨を駆逐する」道理で、クリスチャンの信仰の方が害われる。もちろん我々は「世から出る」わけではない。しかし大切な部分は、この世と一線を引く覚悟が肝要なのだ。

「洪水の予告」 創世記6:9〜22 1998/1/4

ここに「ノアの系図(トーレドース)」とあって、ここからノア一族の物語。同時に「ノアの洪水」の物語が始まる。セム系の人々とカイン系の人々が一緒に生活するようになって、世界はこんとんとした堕落におちいり、もはや収拾のつかない状態となった。いまや神は洪水をもって世界を滅ぼすことを決められた。ここに「神は人を創ったのを悔いた」とあるが、これは人間の「悔い」とは違う。神に対する人間の態度が変化した結果、神は悲しい思いで「人間に対する対応を換えたもう」ということだ。この場合、すでに人間の方が変わったのに、神の側の変更がなければ、かえって「神自身の変更」と理解されてしまう。

「ノアの箱舟」 創世記7:1〜16 1998/1/11

(6章15節)で、箱舟の寸法や設計が命じられた。これは帆柱も舵もなく海上の倉庫のようだ。排水量は4万トンぐらいだろうと言われる。1604年に、オランダ人のピーター・ジャンセンという金持ちの信者が、試みに同じ船を造ってみた。積載量は同じトン数の船に比べて、2/3多く、用途によっては便利なので、同じ型の船を作る人が出て「ノアの箱舟」と呼ばれ、一時期流行したそうだ。さて神の命令に従がって箱舟ができる。海も見えない陸上だから、嘲笑するものが多い。しかしノアは黙々と神の指示に従がった。いや実は黙々ではない。人々に箱舟に入り、救いを受けるように熱心に勧めた。だから聖書のある所に、彼は「義の宣伝者」と記されている。

「40日の洪水」 創世記7:11〜24 1998/1/18

予定されたものがすべて箱舟に入ると、「主はうしろの戸を閉じられた」とある。不信、不道徳の人々は、ここで「神によって」救いから締め出されたのだ。洪水は全世界に及び、谷や平野だけでなく、すべての高山も水に覆われた。貧困、犯罪などの底辺の谷から、富豪、貴族、王などの高位者。また人間的に尊敬された人格者などの高山も、神の裁きの水に沈んだ。しかし箱舟は浮かんだ。箱舟に入ったものは、裁きの水を越えて浮かんだ。人の罪がどんなに深くても、神の裁きがどんなに厳粛でも、そのすべてを越えて、安全に平安に、神の救いの箱舟は浮いたのである。これは何とすばらしい、キリストの救いの模型ではないか。キリストは箱舟でなく、今同じように「信仰による救い」に人を招いている。

「からすとはと」 創世記8:1〜12 1998/1/25

箱舟には帆も舵もないから、ただただ大水の上を漂流した。集団的な「行方定めぬ波枕」だった。しかし神様は「ノアと、箱舟にいたすべての生き物に心を止められた」のである。みこころのままに洪水が起こったが、いまみこころのままに風が吹いた。そして水は引き始め、箱舟はアララテ山頂に留まった。ようすを見るため、最初に放ったからすは、屍肉を食べるからか、出たきり帰らなかった。はとは足を留める所がないので、すぐ帰ってきた。しばらくしてもう一回はとを放つと、今度はオリーブの若葉、色もあざやかな緑の若葉をくわえて来た。陸地が乾いた証拠だ。オリーブは平和と希望の象徴だ。いまこそノア一族は、たしかに救われたことを実感した。何と言う霊的暗示に富んだ、美しい話だろう。

「箱舟から解放」 創世記8:13〜22 1998/2/1

ノアが箱舟に入ったのは、彼が600才の2月10日だった。いま601才の2月27日洪水は終わり、彼らは箱舟から解放された。ノアの話を、歴史的な事実として読むことに抵抗を感ずる人もいる。しかし案外、箱舟の寸法や日時の記述は丹念である。表現や文体は時代や所によって変わるが、数字は比較的に変わらない。我々はこの話を事実と信じるのだ。さて、ここで神は「再び洪水で人を亡ぼすことをしない」と語られた。人々がキリストを信じて救われるように、忍耐をもって救いの機会を与えるためだ。ただしその摂理そのものが妨げられるほどの悪事がある場合には、その蔓延を防ぐため、個々に裁かれ排除される。

「契約の虹」 創世記9:1〜17 1998/2/8

以下は「ノアの契約」とよばれるものである。天地創造のときの、アダム、エバに与えた祝福のことばに似ている。神はここで改めて、忍耐と猶予をもって人を救いにお導きになる、新しい方針を約束されたのだ。ただし加えて、血を流す罪の禁止がきびしく宣言された。他人の血を流すものは必ず、自分の血をもって償わなければならない。これは人類に罪が蔓延し、その結果弱肉強食の世になって、せっかくの神の猶予の方針にもかかわらず、人間自身がみずから絶滅を招く事態にならぬよう、社会秩序を維持しなさいということだ。この原則は、昔は「仇討ち」と言う形で、今は公的機関によって行われる。やがて虹が現れ、洪水の恐怖から守られ、これがキリストによる真の救いを示す、しるしとされたのである。

「乱行のもと」 創世記9:18〜28 1998/2/15

新約に「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」としるされている。酒は人を別人にしてしまう。つまり軽い低能、一時的な狂人にするのだ。ノアほどの人物でも、長い生涯には油断もあって、泥酔して醜態をさらした。3人の子供はこの出来事に対して3様に対応した。その結果、セム(黄色人種)は賞賛され、ヤペテ(白人)は祝福され、ハム(黒人)は呪われた。事実、キリストはユダヤ人と言うセムティック人種から生まれたし、歴史的に有名な宗教家は多くセムティックから出た。白人もまた有力なのは歴史に明らかな所だ。しかし神のみこころは、あらゆる人種が、差別なく「弱いものをこそ愛し助け、また彼らを文明進歩に指導する」ことにあるのだ。

「最初の地誌」 創世記10:1〜14 1998/2/22/

ノアの3人の子供たちから発生した新しい人間たちは、それぞれ生活の根拠を求めて散らばっていった。この章は古い記録で「最初の地誌、人類表」と言われる。(9節)に「最初の権力者ニムロデ」が出てくる。「主の前に力ある狩猟者」とあるが、これは「主に対立して」と言う意味だ。森林と猛獣の棲む土地を開墾して生活を築くには、強力な指導者を必要とし、一致してその指図に従うのが賢明だったろう。しかし彼は次第に神を恐れず、権力を増し加えた。その出身地、支配地であったバベルから盛んに進出を続け、各地の人間集団を支配し、宮殿城郭を建て、多くの地域で都市建設者、支配者(王)となったのだ。彼の事業の成功と挫折は、11章に見える。

「セム系の系図」 創世記10:15〜32 1998/3/1/

(21節)以下は祝福されたセムの子孫の系図だ。セムの子にアルパクサデがいるが、彼から信仰の父、選民イスラエルの先祖、アブラハムが出たのだ。その詳しい系図は、11章後半に出ている。家族、子孫に、神の祝福が受け継がれて行くのはすばらしい。また日本では、住んでいた地名から名字がついたが、この時代は逆に、居住した種族の名前から、地名もついたらしい。大昔の地図や、国名、民族名を調べ、この記事から、今の世界構造までたどれれば、面白いがかなり綿密な勉強になる。それをやっている人もいる。われわれにはちょっと手が出ないが。

「バベルの塔」 創世記11:1〜9 1998/3/8/

権力者は権威、成功、繁栄の象徴として、不思議に民衆を酷使して塔を建てる。ピラミッドも城もビルもそうだ。東京都庁なども壮大だが、いま見ると「バブルのタケノコ」のようだ。多分ニムロデも同じように塔の建設を始めたのだろう。建築技術の研究も命じた。その理想は、自分を神にまで高めようと言う野心「天に届く塔」だ。しかし神はこれをお喜びにならなかった。摂理の内に、人心は一致を失い、言葉も通じなくなり、協力不可能のため分散し、バベルの塔建設も失敗に終わったのだ。しかしニムロデは性懲りもなく権力増大のため各地に進出し、各地に都市とジッグラト(バベルの小型版)を残した。それがイラク、イランあたりの各地に今も残っている。

「出離(しゅつり)」 創世記11:10〜32 1998/3/15/

ここにはアブラハムの先祖の系図が出ている。また彼の家族構成も紹介してある。彼ら一族はカルデヤ(バビロン)の古代の大都市と言われるウルに住んでいたが、遊牧民だから都市生活には関係が薄く、郊外の住民だったろう。やがてテラの時代に一家は移住を開始した。いい牧草地のニュースが入れば遊牧民は簡単に移動する。住む地域が好ましくなくなれば移動する。では一族の移動の理由は何だったろう。それは12章以下のアブラハムの伝記を読めば明らかだ。人類は神に背き、罪を犯し、長い間には正しい神の概念も失った。その神の代用に、各民族それぞれに、都合のいい性格を持たせた神を考え、宗教を生み出し、世界はこの風潮に覆われた。その「世からの脱出」が彼ら一族の目的だったろう。

「召命」 創世記12:1〜9 1998/3/22/

一族は最初から「カナン=いまのイスラエル地方」を目指して出発したが、テラは老齢のため、途中のハランで亡くなった。75才で当主になったアブラハムに、神は明白な「召命=使命への召し」を与えた。「彼はまず世俗の関系や依存から『別れ』、そして『神の示す地=カナン』に向かって出発せよ。その結果、彼も彼の子孫も祝福を受けて偉大な国民となり、また世界の祝福のもとになる」と。しかし、多くの約束にもかかわらず、カナンは未知の国で、そこでの生活や安全は不確かだった。ここに「アブラハムは主が言われたようにいで立った」とあり、ヘブル書には「神に従い、行く先を知らないで出ていった」とある。これこそ我々後世のクリスチャンにとっても、信仰と従順と決断の模範なのだ。

「虚偽」 創世記12:10〜20 1998/3/29

カナンは飢饉の多い所で、アブラハムも出鼻をくじかれ、ショックだったかも知れない。彼は普通の遊牧民のように飢饉を、いつも食料豊富なエジプトに避けた。さてサラは魅力的だったので、好色のエジプト王の危険を避けるため「サラは妹です」と言うことを打ち合わせた。これは半分が嘘でサラは彼の従姉妹だ。もし妻だと知れば王はサラを奪い、アブラハムを殺すだろう。妹ならば奪われても、アブラハムは殺されはすまい、という見込だ。これはアブラハムの失敗だった。しかし「二人倒れるよりは一人が生き残る」という、遊牧民の必死の知恵を、今の我々に激しく非難はできない。果たしてサラは後宮に入れられたが、神が干渉して彼女は解放された。アブラハムも、飢饉のショックのため、この時は普通の遊牧民のセンスで行動したのか。

「転機と選択」 創世記13:1〜18 1998/4/12/

ロトはアブラハムの甥で、一緒にウルを出発した。しかしその「ロトもともに行った」という記述から、彼がアブラハムの感化のもとに、依存的に行動したことが察せられる。彼らはやがて繁栄して、たくさんの家畜を持ち、大勢の牧夫を雇うようになったが、牧草地が接近しすぎるところから、しばしば両方の牧夫の争いが見られた。そこでアブラハムの提案で、二人は別行動をとろうということになった。つまり「転機」がきたのだ。好むと好まざるにかかわらず転機はやってくる。そこで人間は、留まることは許されず、自分で選択して新しい方向に進まなければならないのだ。そしてその選択が生涯の価値を決することが多い。われわれもこの二人の選択から、学ぶことが多いはずだ。

「パレスチナ戦争」 創世記14:1〜12 1998/4/19/

「パレスチナ戦争」と言えば、イスラエル共和国建国に際して、侵入したアラブ諸国と6回にわたって戦った、今世紀の戦争を思うが、これはその旧約版だ。(1節)はバビロン、シリヤ等の連合軍。(2節)はその支配から自由になろうとした、パレスチナ連合軍だ。(これらの諸王を調べるのも興味があるが、ここでは無理だ)。バビロン軍は、周囲の小国の王たちを各個撃破して、最後に首謀者のソドム王と戦い、これを打ち破った。そして多くの捕虜、戦利品を奪って、意気揚揚と引き揚げた。今はソドムの住民になっていたロトも、その巻き添えを食って被害を受けた。しかし近隣のこれだけの戦争も、アブラハムには関係がなかった。それは、ロトとは反対の「世を離れて神とともに住む」選択が、結局正しかったからだと言うことができる。

「ロトの救い」 創世記14:13〜24 1998/4/26/

ロトが戦争の巻き添えを食って、財産は略奪され、ロトと家族が捕虜として連行された知らせを聞いたアブラハムは、すぐに救助におもむいた。武装した青年318人を指揮して戦ったと言えば、彼が相当な有力者だったことが分かる。これだけの武士を養うのは、昔なら4,5万石の大名に匹敵するのだ。さて彼は全部の捕虜たちを救い、略奪品を取り返した。ソドムの王はその謝礼として、それを贈呈しようとしたが、アブラハムは断った。彼らと軍事同盟のようなものを結びたくなかったからだ。一方、出迎えた、真の神に仕えるサレム(後のエルサレム)の祭司王メルキゼデクには、感謝の10分の1の献金をした。メルキゼデクとは、信仰の交わりを続けたかったからだ。しかしこれは、この地の他の王たちとの関係を難しくする覚悟が必要だった。

「盾と報い」 創世記15:1〜6 1998/5/3/

アブラハムは、ソドムの略奪品も取り返したのだから、それを受け取るのは自然な権利だ。しかし彼は受け取らなかった。この事件で、アブラハムが軍事的にも有力者であること、しかも独立の方針であることがはっきりして、周囲の諸王は警戒心を強くした。彼は損で危険な決定をしたのだ。これに対して神は「わたしこそあなたの報酬だ。またあなたを守る盾だ」とお語りになり、また後継者についても、空の星を示して、力強い約束をお与えになった。彼は子供がいなかったから「エリエゼルを養子に」と言う考えも出ていたらしい。アブラハムは神の言葉を信じた。「信仰を義と認められる」。これはいつの時代でも何のテーマでも、神を信じて生きる者の原則だ。

「アブラハムの契約」 創世記15:7〜21 1998/5/10/

昔から契約には血がつき物だ。「血盟」と言って血をすすり合う事もあり、これは「義兄弟」の意味だ。動物の血を流す事もある。これは違約の場合の罰を示すのだ。アブラハムは神に示されて、当時の習慣に従い、5種類の動物の体を裂いて、その体を引きずって相互に向かい合わせ、血だらけの通路を作って神の臨在を待った。日が暮れた頃、神の臨在のしるしである「セキナー」がその通路を通過した。一般の契約では、契約者同志が一緒に、誓いの言葉を宣言しながら通路を通るはずだった。しかし神は、ただ一人で通路を歩み、ご自分に対して一方的な誓約をされたのだ。この誓約は、神の責任においてアブラハムの上に成就する祝福の誓約だった。これはキリストの十字架による救いの契約につながる。

「家庭問題」 創世記16:1〜6 1998/5/17/

あれから10年たっても、アブラハム家に男子の生まれる気配はなかった。夫婦も気持ちが疲れてきて、別の女性に子供を生ませる方法を考えたらしい。妻のサラが推薦するハガルと言う少女は、よほどサラのお気に入りで、信頼されていたのだろう。かくてアブラハムはハガルによって、男子を得る事ができた。しかし状況次第で人間の気持ちは変わる。アブラハム家の後継者の母となったハガルはその地位を自覚して高慢となり、サラに対して無礼になった。サラは怒って主人に訴える。アブラハムは「ハガルはサラの侍女だ」という、家庭の秩序を変える気はない。サラの態度が変わる。ハガルはあてが外れ、裏切られたと思う。とうとう家出という事態になった。これはアブラハム夫婦の失敗だった。

「ハガルの悔い改め」 創世記16:7〜16 1998/5/24/

妊娠の身で家出したハガルも、実は行き場はないのだ。そしてある日シュルの泉で考え込んだ。そして祈った。主の呼びかけの声は「サラの侍女ハガルよ」というものだった。ハガルはここでもアブラハム夫婦の不当を訴えた。しかしハガルが自分の身分を忘れ、夫婦の恵みに甘え、また付け上がって、過大な処遇を期待したところに間違いの元があったのだ。彼女は傲慢を反省し、長い間の厚遇を感謝し、へりくだって女主人のもとに戻るべきだったのだ。一方夫婦も、祈りのうちにその自分勝手を反省し、ハガルを憐れむ気持ちがよみがえった。そこに悔い改めたハガルが戻ってきて夫婦にあやまった。夫婦も喜んで優しく彼女を迎え入れた。祈りと反省、理解と愛、これはいつでも、人間同士の傷口を修復する妙薬なのだ。しかし問題はまだ後を引く。

「割礼」 創世記17:1〜14 1998/6/31/

ハガル事件のあと、悔い改めて立ち直ったアブラハムは、13年後99才になって、ふたたび神の祝福の約束を頂く事になった。これはハランの地を出発した時頂いたお約束の、再確認と共に、更に新たに具体的な祝福の約束に満ちたものだった。さて今度はその契約のしるしとして、彼の子孫の男子は、全部割礼を行うように命令された。割礼は男子の前の皮を切除する儀式だが、幾分民族的な意味も含まれていた。新約時代からは、全人類の教会のために、洗礼の儀式に換えられたのだ。パウロはロマ書4章でわざわざこれに言及し「アブラハムが割礼を受けたのは、彼が信仰によって義とされたその後であって、決して行いによって、また割礼によって義とされたのではない」と強調している。これをもって見ても、割礼が洗礼に似ているのは事実だ。

「信仰の義」 創世記17:15〜27 1998/6/7/

アブラムが神によってアブラハムと改名したことはこの章の始めに出ている。ここで改めてアブラハムに祝福の約束をお与えになった神は、その約束の適用を受ける、真の後継者の約束を、彼の妻サラにお与えになった。すでに百才に近いアブラハムはこれをすぐには信じられなかったようだ。しかし神は繰り返しお約束になった。かくて信仰を強められたアブラハムは、この約束を信じて受け入れた。ロマ書4章に言う。「彼は老いた自分の体も、同じく老いたサラの不妊の胎をも認めながら、しかもみ言葉によって、望み得ない状態の中で神を信じた。そして『その信仰を』義と認められた。かくて彼は『多くの国民の父』また『信仰の父』となったのである」と。

「主の臨幸」 創世記18:1〜15 1998/6/14/

主なる神自ら二人の天使をともない、アブラハムのテントに姿をお示しになった。3人とも天使と書いてあるが、しかし不思議なことだがアブラハムとの応対を見れば、一人は真の神ご自身の臨在としか思えない。アブラハムはそれを知らずして、いつものように謙遜、真実、丁寧に「旅人をもてなした」のだ。主はこれを受け入れ、妻サラを通して、来年は必ず約束の子を与えると、重ねてお約束を与えた。これを疑って笑ったサラの不謹慎も、神は深く咎めず、ただ反省をうながし、やがてお約束通りに子供が産まれたのである。しかしこの言わば神様自身の巡回は、もう一つの目的があった。それは罪悪と醜聞が天まで届いている、ソドム、ゴモラの裁きと滅亡の前に、その実状を確かめるためだった。今も常に、神は全地を見そなわしたもう。ある人には祝福のため、またある者には裁きのために。

「執り成し」 創世記18:22〜33 1998/6/21/

主が先に、ソドムの罪と裁きをアブラハムにお告げになったので、アブラハムはソドムのために執り成しの祈りをする機会を得た。ここの「裁き」「滅亡」は、永遠の裁きではなく、地上、現世で行われる裁きである。神様は、キリストによる救いを備え、忍耐と寛容をもって、悔い改めて信ずるものを常に待っておられる。それゆえ原則的に、人間の罪を地上で即座に裁く事はしない。しかしある時ある地域で、罪を強制し信仰を迫害する強い力が、人の救いを妨害すれば、例外的にその力を、裁き除き亡ぼされる。それゆえその地域に、伝道する、救われた信者がいるかいないかが、判定の分かれ目になる。ソドムにはその証の役目をになう信者がいなかった。それゆえ地域の裁きと滅亡が定められたのだ。

「ソドムのロト」 創世記19:1〜14 1998/6/28/

ソドムにはロトがいた。彼はいまや町の有力者であるらしく、町の門、すなわち市議会や裁判が開かれ、同時に広場でもあり市場でもある門に、座していた。そして天使たちを(それとは知らずに)歓迎しもてなした。アブラハムと同じ態度だ。だから彼も信者であることは間違いない。しかし、天使からソドム滅亡のことを聞いて、あわてて家族や隣人にそのことを伝え、ともに脱出するように勧めると、人々はそれを冗談だと思ったという。いかに彼がふだんの証を怠っていたかが察せられる。アブラハムの執り成しもあり、神様の憐れみもあって、彼と家族はかろうじて、ソドムと一緒に亡ぼされるのをまぬかれた。しかし彼は証と伝道を怠り、地域を滅亡から救うことができなかった。やっと自分だけ救われるとは、なんと情けない最低の信者だろうか。

「みれん」 創世記19:15〜28 1998/7/5/

われわれはここに3人の人物を比較して考えないわけにはいかない。アブラハムは模範的な人物だ。彼はソドムのような罪の街から超然として、神と共に暮らした。信仰の孤高」という言葉がよく当てはまる。ロトは信者には違いないが、滅亡と救いの境目で躊躇していた。天使はむりやりに彼を救い出したのだ。彼はひとり焼け出されのように救われた。ロトの妻はソドムから救い出されながら、滅び行く世の魅力に未練があった。そしてうしろを振り返ったため、ソドムを亡ぼした噴出物に自分も覆われて「塩の柱」になったのだ。われわれはこの3人のうち誰に当たるだろうか。考えなければならない、厳粛な教訓だ。