ショート旧約史 列王紀下
列王紀下 1章1〜16
アハブが死んだのち、そのあとをついで、王子アハジヤが即位したことが、前章の終りに出ている。アハブの感化影響のもとに人となったアハジヤは、父王アハブの悪業を継承した。 自分が病気になると、ペリシテの町エクロンのバアルの神殿に使者をつかわして、病気の回復を祈らせようとした。 エリヤは神の命によってこの使者に会い、詰問したので、使者は王宮に引き返す。王は怒って兵隊を送ってエリヤを殺させようとしたが失敗した。そしてエリヤの宣告通り、その病気は回復せず、足かけ2年で、不名誉なその治世を終った。
「エリヤの別れ」 列王紀下 2章1〜8
エリヤは地上の奉仕を終って、天に召される日が近いことをすでに悟っていたらしい。 エリヤのこの「予感」は、エリヤが親しく霊的な指導と訓練に当っていた、ベテル、エリコなどのいわゆる「預言者学校」の学生たちも、おのずから感ずるところとなり、学生たちは緊張していた。 今エリヤは、決別のつもり各学校を巡回したが、一緒にいたエリシャを通して「決してさわぎ立ててはいけない。またエリヤのあとを慕って、ついて来るようなことがあってはいけない」と、かたくいましめたのである。 しかしエリシャ自身は、エリヤを離れることなど、絶対にできなかった。エリヤの方でもまた、エリシャだけは、必ずしも拒絶しなかったらしい。
「霊の二つの分」 列王紀下 2章9〜22
生きたまま昇天したケースが、旧約に記されているのは、エノクとエリヤの2人だ。 しかしキリストの変貌の時、モーセとエリヤが姿をあらわしたのを見ると、モーセもまた、この2人に準ずる昇天をしたものと思われる。 さてここでエリシャが、最後の最後までエリヤに従い、その不思議な昇天の様を見とどけ、一面エリヤもまたエリシャに対してそれを許したということは、およそ先生について物を学ぼうとする、弟子の模範である。 それでこそ彼は、「エリヤの霊の二つの分」をうけて、その後継者となり得たのだ。
「モアブ遠征」 列王紀下 3章1〜12
アハジヤ王の不名誉な死のあとその弟ヨラムがイスラエルの王となった。彼もさすがに、父王アハブ、兄王アハジヤの最後を見ては、神の裁きを恐れたらしく、バアルの石柱をのぞくなど、父や兄にくらべれば、幾分か善政を布いたと言える。 しかしヤラベアムが設置した、ダンとベテルの金の子牛礼拝の神殿を、取りのぞくまでには至らなかった。 今、死海の東南にあるモアブが長年服従して来たイスラエルにそむいたので、イスラエル、ユダ、それからもっと南方のエドムの、3人の王が連合して、モアブを遠征しようとした。彼らは死海の南を迂回してモアブを攻撃する作戦に出たが、困ったことに飲料水がつきてしまった。
「祈りの予備隊」 列王紀下 3章13〜20
この迂回作戦はそれなりのメリットもあったのだろうが、予定以上に時日をついやし、その結果飲料水が欠乏して補給の方法もなく、この作戦は失敗だった。 しかし従軍していたエリシャは3人の王の懇望に答えて神に祈って、奇跡によって軍隊に水を供給し、戦争を勝利に導いたのである。 どんなに周到に立てた作戦でも人間がやる以上、予期せぬ事態にぶつかれば、いつ失敗、危険におち入るかわからない。 この軍隊の中に、敬虔なヨシャパテ王、預言者エリシャがいたことが、この場合の救いであったように、私たちにとっても、いつも「祈りの態勢」が必要だ。
「破壊作戦」 列王紀下 3章21〜27
イスラエルとその連合軍は、この時徹底的な破壊作戦でモアブの町々を滅ぼした。 命のつなの井戸を全部埋め、砂漠の中にほそぼそと仕立てた耕地や、まばらな林もつぶし、まるでもとの砂漠にしてしまったから、残ったのは地名だけのようなありさまだ。 モアブが立てこもった最後の城を包囲すると、昔のことだから、まわり中から雨あられと石を打ちこんで攻撃する。 くやしがりのモアブ王が700人の決死隊を包囲軍に突入させたが、これも失敗に終わった。 なかば狂気のようになったモアブ王は、いよいよ玉砕のつもりで、その長男を人身御供にささげてその神に祈る。 その恐しい様子が城壁の上に見える。 これではキリがないので、イスラエルの人々のイヤ気がさして戦う気がなくなり、勝手に戦争を放棄して、みな自分の国に帰ってしまった。
「エリシャ先生」 列王紀下 4章1〜10
これから預言者エリシャ先生の奉仕の話がいろいろある。 エリシャは一方では、いわゆる「預言者学校」の校長だし、一方では、その学校を卒業して奉仕に当たっている「預言者のともがら」の指導者、責任者であった。 今、清貧に甘んじながら忠実に奉仕して昇天した、1人の預言者の遺族の訴えに対して、奇跡をもって生活の必要をみたしてあげたのも、彼の責任者としての役目を果たしたことだった。 この話はまた、教会に聖霊がそそがれ、次第にすべての信徒が聖霊にみたされていく、原理と秘訣を示す1つの型として、今も用いられている。
「休憩所の提供」 列王紀下 4章11〜25
エリシャがシュネムに往復する途中に、この裕福な家族の家があったのだろう。 ある日エリシャが通るのを見かけ、食事にでも招き入れたのがキッカケとなって、彼が通るたびに何かと接待するうち、いよいよエリシャに対する信頼、尊敬の念が深くなり、とうとう自由に宿泊もできるような一室を作って、エリシャに提供することになったのだろう。 そのむくいとして、子供がいなくて淋しかったこの家庭に、神の祝福によって、子供が与えられることになったのである。 「わが弟子たる故に一杯の水を惜しまない者には必ずむくいる」とおっしゃった、キリストのみ言葉も思い合わされる。
「日射病」 列王紀下 4章25〜37
神様の祝福によって与えられたこの子供が、日射病か何かで突然死んでしまったので、急いでエリシャに知らせた。 エリシャはすぐにやって来ると祈りによってこの子供を生かし、再び母親の手に渡したのである。 これは一つの奇蹟であるが、それにしてもこの場合エリシャの祈りの、熱心と愛と、ねばりの姿には、本当に頭が下がる。 話は違うが、我々の伝道によって人が救われるのも一つの奇跡である事を思えば、祈りにおいて愛のおいて、努力において忍耐において、我々もエリシャのようでありたいと、切に願うのである。
「昔の聖書学院」 列王紀下 4章38〜44
どんなに良い生徒でも、学生というものは先生に世話を焼かせるものだ。 そのころの「預言者のともがら」すなわち聖書学院で、ある時ひとりのおっちょこちょいの食事当番の学生にために、危く全生徒が食中毒で死ぬところだった。 一人の生徒が悲鳴をあげたので、エリシャが祈って、何かの粉をまぜたら、食べられるようになった。これも奇跡かもしれないし、あるいはエリシャが何か、解毒剤、あるいは中和剤をまぜたのかも知れない。 次に後援者の一人がごちそうを寄付してくれたが、せっかくのごちそうも全員が食べるにはどうにも足りないので、かえって気がもめる有様だった。 しかしエリシャの言葉どおりに皆で食べたら、全員満足してなお余りが出た。これも奇跡かも知れない。あるいはそういう食べ方もあるかも知れない。 今の聖書学院にも、これと似たような話があるかどうか。
「ライ病の将軍」 列王紀下 5章1〜14
ライ病は昔から、罪の型として取りあつかわれている。 潜伏期がある、だんだん体がくさってゆく、伝染する、不治の病だ、などと言われていたのが、罪と共通点があるからだろう。 今、スリヤの将軍ナアマンが、この恐しい病気から奇跡的にいやされた、そのプロセスの中に、我々は罪からの救いのプロセスを学ぶことができるのである。 ここに捕虜としてナアマンの家に仕える、不遇にして可憐な一少女の、感化力をともなった証、進言がある。 ナアマンはこれに期待して出発した、つまり彼の心と行為による応答がある。 彼が通らなければならない意外な経験。そして学ばせられた、謙遜と神の言葉に対する従順など。 我々も同じようにしてキリストの十字架の血潮をうける時、恐しい罪と滅びからの救いを、経験することができる。
「慾ばりゲハジ」 列王紀下 5章15〜27
エリシャは主の伯として、もともと清貧に甘んじていた。 その弟子ゲハジとて同様であったろう。 しかしナアマンが莫大な謝礼を提供しようとした時、エリシャの眼はくらまなかったが、ゲハジの眼はくらんだ。 誰にも「ちょっとした口のきき様で大金が入る」というようなチャンスはあるもので、ゲハジは良心にそむいて、このチャンスを利用したのだ。 しかしこの大金は、実は罪と抱き合わせだった。大金をつかんだ結果、ゲハジにはライ病が生じたのだった。 人の心のスキをうかがう、悪魔の誘惑は恐しい。 「金銭を愛することは、すべての悪の根である。すべての悪の根源である。ある人々は慾ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出た」テモテ第一、6章10節
「学院増築」 列王紀下 6章1〜7
聖書学院がせまくて不便になって来たから、増築をすることになった。皆で山に行って材木を取って来て、手造りでやろうということで、しかも材木を切り出すおのやその他の道具も、学院に好意を持つ人から借りて来るなど、昔の学院の質朴な様子がしのばれる。 しかし、素人仕事というものは、さわぎの割にはうまくゆかないもので、誰かがおのの頭のはまり工合もたしかめないで、力まかせに木を切り倒そうとすると、木は切れないで、かえっておのの頭が飛んで、しかも水の中に沈んでしまった。そこで例の如く「エリシャ先生何とかして下さい」ということになる。 エリシャがこの時取った方法は奇跡なのか、それともそういうやりかたがあるのか、よくわからない。 それにしてもエリシャはやさしく、面倒のよい先生だと、つくづく思う。 牧師もそうありたい。そうでなければ人は育たない。と共に、いつも我々の失敗を深くとがめず、かえって愛と恵をもって取りあつかって下さる、我々の「信仰の導き手である、また完成者である。イエス」のことが思われる。
「火の馬火の戦車」 列王紀下 6章8〜19
家庭でも教会でも国家でも、真剣に祈る人がいる場合、神様は彼の祈りに答えて、家庭を守り、教会を守り、国を守り、つねに助けと祝福を与えて下さるのである。 エリシャの祈りの奉仕は、尊いものと言わなければならない。 今、エリシャの召使いは、彼らの家を包囲した、スリヤの大軍を恐れた。 しかしエリシャが祈って彼の眼を用いた時彼は、彼らを守るために野山にみちた神の軍隊、火の馬と火の戦車の大軍をあきらかにみることができた。 いつの場合でもクリスチャンにとって「われわれと共にいる者は、彼らと共にいる者よりも多い」のである。
「サマリヤ攻囲軍」 列王紀下 6章24〜33
王様、政府、軍隊などは、もともと社会秩序の維持、外敵からの保護、国民生活の安定などのために立てられているものだが、これらの大切な責任は、神の助けなしには果たしてゆくことができない。それ故にすべての責任者たる者、平素からへり下って神に祈るべきであるのに、ともすれば、それに気がつかないで、いばることやぜいたくばかりでいそがしい。 今ここにスリヤ軍の包囲攻撃下のサマリヤ王は、ふだんの不心得がたたって、全く神の保護も助けも得られず、国民が餓えようが、悪事を行おうが、何の手も打てない、言わば破産的状態をさらけ出している。
「四人のこじき」 列王紀下 7章1〜8
長期にわたるシリヤ軍の包囲攻撃のため、サマリヤ城内は飢餓状態で、王様はじめ市民全体が混乱と絶望におち入っている中で、四人のライ病のこじきが、まことに落ちついた態度で、自分たちの生きのびる可能性を検討した。 このままここに止まること、町の中で食物を求めること、逆にスリヤ人の陣営に逃げてゆくこと。いまなし得る三つの事の中で、二つは即、そのまま死につながるが、最後の奇想天外な道は、二分の一の生きる可能性を含んでいる。なぜなら、スリヤ兵もライ病のこじきなどは殺さないかも知れないからだ。 彼らはそれをやってみた。 そして凄い幸運にぶつかり、その結果ひいてはサマリヤも救われることになったのだ。 われわれも絶望したり嘆いたり、いわゆる精神のカラまわりをしていないで、あくまでも神を信じて最後までやって見ることだ。
「救いのニュース」 列王紀下 7章9〜20
こじきたちが幸運にも、食物と富にありついた頃、サマリヤはまだ飢えと滅びに直面していた。 彼らは「われわれのしていることは良くない。黙って自分だけ幸運にありついて、サマリヤを見殺しにすれば、罰をこうむるであろう」と言って「スリヤ軍はすでに逃走してしまった」というニュースをサマリヤに知らせるために立ち上ったのである。 これはさきにキリストの救いを経験した、クリスチャンの責任と似ている。 それにしても、サマリヤが救われたのが、王や将軍の力でなく、「軽んじられて無きにひとしい」ライ病のこじきによったのは、ゆかいでもあり、また暗示的なできごとでもある。
「女の訴訟」 列王紀下 8章1〜6
飢饉を避けて七年間、外国住まいをしていた婦人が、帰郷してみると、留守の間に家も畑も、人に取られてしまっていた。 これを取りもどすためには王に訴え、今日で言えば裁判をしなければならない。 しかしもともと裁判は面倒なものだ。まして昔のことだから、なかなか取り上げてもらえず、女の場合などは、結局泣き寝入りに終ることも多かったろう。 しかしこの場合は、丁度王様がゲハジに、エリシャの奉仕についていろいろ聞いているところに、女の訴訟が届いた。しかもこの女がよくエリシャに奉仕したこと、エリシャもまたこの女のために、一度死んだ子供をよみがえらせた話などを、ちょうどしていた所だったので、すぐこの女の訴訟はよい結果をみた。 これは神の摂理であり、またこの女の預言者に対する奉仕の報いと言うほかない。
「刑罰の器」 列王紀下 8章7〜19
アハブ、イゼベルらの影響を、きれいにぬぐい去ることはむずかしく、イスラエルは次第に、宗教的、道徳的に低下をつづけ、政治的軍事的にも混乱し、終末、亡国の運命に近ずいて行く。 今、病気療養中のスリヤ王は、側近の有力者ハザエルに、多くの贈物を持たせ、自分にかわってエリシャを訪問させた。丁度エリシャはダマスコに来ていたのである。王は自分の病気のなりゆきをエリシャに問わせたのだった。 エリシャはハザエルの野心を見抜いて「あなたは王となるだろう」と預言した。そしてその顔を見つめて泣いた。 ハザエルは結局スリヤ王を暗殺して王となるが、やがて彼は、神の祝福を失ったイスラエルに侵入して、イスラエルに対する神の裁きを執行する器となる。即ち多くの残虐行為を行うのである。 エリシャはそれをも予知した故に泣いたのだ。
「悪影響」 列王紀下 8章20〜29
南国王ユダの王ヨラムは、敬虔だったヨシャパテ王の王子であったが、イゼベルの娘を妻としていたので、イゼベルの影響は次第にユダにまで及んで来たのである。 ここでも宗教と道徳の混乱が、政治軍事の混乱を招いていた。そして混乱している国は外国にあなどられるのである。 従来はユダの属国だったエドムやリブナが、今ユダに反抗して独立してゆくのもそのためである。ヨラム王はこの勢いを食い止めようと、エドムに攻めこんだが、かえって包囲され、命からがら逃げ帰るありさまだった。 結局彼は失意のうちに死んだ。
「クーデター」 列王紀下 9章1〜16
アハブ王の子、現イスラエル王ヨラムは、スリアとの戦争で負傷して、エズレルの別荘で傷を養うことになり、ラモテ・ギレアデに出征中の現地軍の指揮は、将軍エヒウにまかされた。 エリシャの命令によってつかわされた一人の弟子は、丁度作戦会議中の将軍エヒウに会うと、油そそいで彼をイスラエル王とし、アハブ王家一族ことにイゼベルを罰するように命じた。 イゼベルのような人は、生きている限り暗躍を止めない。しかもアハブ王家はすでに人望を失い、国中に革命、革命の機運がみなぎり、将軍エヒウはもともとそのリーダーだったのだ。 軍人たちはすぐエヒウを立てて王とし、このクーデターを成功させるために、すぐにアハブ王家一族を殺そうと、すぐにエズレルに向って進軍する。
「イゼベルの死」 列王紀下 9章17〜37
将軍エヒウの行動は、迅速果敢だ。エズレルで静養中だったイスラエル王ヨラムは、変だとは思いながらエヒウを出むかえたが、丁度ナボテのぶどう畑だった場所で疾風のように馬車を飛ばして来るエヒウを見ると、反乱に気がついて逃げようとするところを射殺された。 状況を悟ったイゼベルは、くそ落ちつきに落ちついて、ゆっくりお化粧を仕上げ、城の窓から首を出すと、エヒウに向ってイヤ味な毒舌を吐いたが、そこから投げおとされて墜落死をとげ、次にエヒウの馬車にひかれ、エヒウが食事をする間放置された彼女の体は、最後に犬に食われた。
「激烈なクーデター」 列王紀下 10章1〜17
将軍エヒウは(今はもうイスラエル王)預言者エリヤの感化を強く受けて、その預言のとおりに、アハブ王家一族を滅ぼし、イスラエルからバアル礼拝の悪風を根絶しようとした。 しかしエヒウは、宗教家であるよりも革命家で、預言者ではなく軍人である。そのやり方は敏速で徹底的だ。 サマリヤ市民を脅迫してアハブの七十人の子を殺させ、かごにつめて届けて来たその首を、城門の前にふたつの山に積み上げる。 更に自分もエズレル・サマリヤなどを捜索し、関係者は一人も逃さない決意だ。
「だまし打ち」 列王紀下 10章18〜31
一方エルサレムでは、エヒウはバアル礼拝の祭司、預言者、信者などを、礼拝のためだといつわって神殿に集めてみな殺しにする。言わばだまし打ちである。 これは、いかにバアル礼拝がアハブ王家の保護のもとに根強く維持されていたかを物語っていて、エヒウの取った思い切った手段も止むを得なかったと思わせる。 それとともに、サマリヤ、エズレルの虐殺がすでに行なわれているにもかかわらず、彼らが何も知らずに集まって来たのを見れば、エヒウのやり方がいかに機敏であったかを察する足りるのである。 エヒウのクーデターは残酷だ。 しかしかってアハブ王とイゼベルは、国民にバアル礼拝を強制し、これに従わぬ者を、国王の力を動員し、組織的に年数をかけて、徹底的に殺した。 今度殺されたバアル礼拝の関係者は、その悪政に便乗して時を得た人たちであって見れば、彼らがエヒウによってこういう裁きに会ったのも、止むを得なかったと思われる。
「イゼベルの娘」 列王紀下 11章1〜12
ユダの王アハジヤは、このイスラエルのクーデターさわぎのまっ最中に、イスラエルの首都サマリヤを訪問中であったが、クーデターのまきぞえを食って死んだ。 アハジヤ王の母アタリヤは、実はアハブ王とイゼベルの間に生まれた王女で、アハジヤ王の父、つまり先王ヨラム(エヒウに殺されたイスラエル王ヨラムとは別人)がアハブ王との友好の気分で結婚した婦人だった。 彼女はいま、イスラエルで、エヒウによってアハブ王家、つまり彼女の実家の一族がみな殺しにされたのを知った。同時に自分のむすこ、アハジヤ王もそこで死んでしまったのを知ったのである。 あせった彼女は、せめてユダ王国を完全に掌握して、ここに、アハブ王家の理想、すなわちバアル礼拝を維持し鼓吹しようと計画した。そのために、アハジヤ王の死をチャンスとし、これまた一種のクーデターを起こして、王一族をみな殺しにし、自分がユダの王権を掌握した。 さすがイゼベルの娘だ。
「エホヤダの宗教改革」 列王紀下 11章13〜21
アタリヤ女王の数年にわたる悪政の間、祭司エホヤダは、アハジヤ王の遺児を神殿にかくまって守りとおした。この遺児は、あのクーデターの時、叔母エホシバと乳母との手によって、かろうじて救い出されたのだった。 今、この王子が七才になったので、エホヤダは祭司たちや近衛兵など、アタリヤの悪政に反対の人々と打ち合わせて、今度はクーデターを起して成功し、アタリヤは殺された。 エホヤダの場合は、イスラエルのエヒウとは違って、もともと敬虔な人物だったから、ただちにユダに宗教改革が行なわれ、ようやくユダ王国は、アハブ王家と、バアル礼拝の悪影響をまぬがれることができたのだった。
「神殿の会計」 列王紀下 12章1〜18
ここは旧約聖書にはめずらしい神殿の会計に関する記事である。 みんながきちんと献金をしているのに、なかなか神殿の修復工事が実行されない。 よくしらべてみると、これらの献金が、祭司たちの生活費として使われてしまうらしいことがわかった。 そこで、献金を祭司たちに直接わたすことを中止して、別に会計係を選び会計事務を確立した。そして祭司には生活費として至当な部分をわたし、大部分を神殿修理費の支払いに当てることにしたので、神殿修理の工事は進展した。 そればかりではない。注意深い会計の結果生じた余剰金を貯金しておいたのが、後に賠償金の一部として役立って、その時仕掛けられた戦争を回避することができたと言う。
「短い治世」 列王紀下13章1〜9
北王国イスラエル、南王国ユダとも、順々にいろいろな王が立ちそして死んでゆく。 ここに革命によってイスラエルの王となったエヒウの子、エホアハズ王の、17年の短い治世が記してある。 エヒウの改革も、宗教的に見ればそれ程純粋ではなかったが、それさえ、エホアハズの代になると生ぬるくなっている。 折からスリアの圧迫でイスラエルは次第に貧しく、きゅうくつになっていった。 それでもエホアハズは一応神を恐れていたので、その祈りをいれて、神はスリアからイスラエルを助けて下さった。またエホアハズは父王エヒウに似て、一応勇武な人物でもあったようだ。 しかしここに記された、彼の貧弱な軍隊の規模を見れば、国威衰退の気運は覆うべくもない。
「何事も徹底」 列王紀下13章10〜19
エリシャは長い奉仕を終って、今や世を去らんとしている。 その病床をおとずれた若いヨアシ王に、弓矢を持たせて与えた教訓は、要するに「何事も中途半端でなく、何事にも徹底せよ」ということだった。 イスラエルにおいても、時に立ち上って宗教改革に努力する王もあったが、怨むらくはいつも不徹底だったのである。 その間、国はずるずるべったりに亡国に向ってゆく。 この時、ヨアシ王に与えられた老エリシャの訓戒は「神に向っては窓を開いて徹底的に祈れ。自分に対しては矢を地に向けて徹底的に悔改めよ。 敵に向っては、あるいは奉仕においては、徹底的な勝利まで頑張れ」ということだった。
「王様殺し」 列王紀下14章1〜14
12章19〜21を見れば、ユダのヨアシ王は、国内の不満分子の徒党に殺されたと見える。 しかし王家を支持する勢力もあって、彼らがヨアシ王の遺児アマジヤをもり立てて王位につけたものと思われる。 彼は王位が安定したころ、父王を殺した首謀者たちを殺して報復した。のみならず南方エドムを攻略して国土をふやした。なかなか勇ましい王様だ。 彼は今度は北方イスラエルにも戦争をしかけ、この方面にも領土の拡張をはかったが、しかしこの戦争は散々な敗北で失敗に終った。 その結果は、家臣の不満を招くことになって、父王と同じく、家臣の手にかかって殺されるハメとなった。
「宗教的斜陽化」 列王紀下14章17〜29
アマジヤ王は、不平党が徒党を結んで険悪な空気になって来たのを察知して、エルサレムを離れてラキシに逃亡したのだったが、恐らくエルサレムからまわされた刺客に殺された。 しかしユダ王国の場合は、北方イスラエル王国の場合と違って、こういう時でも、王の遺体はエルサレムに運んで来て葬るし、その王子アザリヤ、16才を立てて、一応王とするのだ。 しかし今や、イスラエルにおいてもユダにおいても、宗教的、道徳的、政治的斜陽化の姿は明白になって来ている。 なおしばらく神のあわれみによって、外敵の決定的な攻撃から守られているものの、この状態では神の裁きによる亡国の運命は、もう時間の問題と言うべきだ。
「ライ病の王」 列王紀下15章1〜12
それでもアザリア王は、若年16才で即位し、52年王位にいたと言えば、一応満足すべきかも知れない。 しかし晩年はライ病となって隔離された。そして王子ヨタムの摂政に頼らざるを得なくなったのは気の毒な次第であった。 一方、イスラエルの王ゼカリヤは、在位わずか六ヶ月、イブレアムに臨幸した時、シャルムにひきいられた徒党の手によって暗殺された。 病気といい死といい、いわゆる無情の風は、金城鉄壁と言えども防ぎがたく、王の身分をもってしても拒否できない。 我々はただ神のみが「わが城、わが盾」であることを学ぼうではないか。
「残虐行為」 列王紀下15章13〜22
ゼカリヤ王を殺して王位についたシャルムの運命はもっとはかなく、一ヶ月ののち、メナヘムのクーデターに倒れた。メナヘムが自分のクーデターを支持協力しない者に対して取ったやり方は、苛酷残虐なもので、彼をうけ入れなかったタッブア市民虐殺の例がそこに記されている。 「およそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう」キリストが言われるように、こんな状態のイスラエルは、そのころ北方にようやく強大となって来たアツスリヤにとっては良い餌食で、今その最初の攻撃を受けることになる。 この際は莫大な賠償金を取られて一応済んだが、結局、最後にイスラエルを滅ぼすものは、アッスリヤだった。
「アッスリア捕囚」 列王紀下15章23〜31
アッスリヤへの莫大な賠償金は結局国民の負担、それも強制的な負担に転化されたので、国民の不満が沸騰する。 この間にメナヒム王は亡くなって、王子ペカヒヤが即位したものの、2年後、信頼していた副官ペカの反乱に会い、サマリヤ城に立てこもって戦ったが、とうとう天守閣で殺された。 このペカ王の時代に、再びアッスリヤ王テグラテピレセルの侵入があり、イスラエル各地は占領されて、最初の捕囚(国民が捕虜として大量に外国に連れていかれる)という事態となった。 時にBC734年のことと言われる。
「同胞間の戦争」 列王紀下16章5〜16
この騒ぎの後、衰えつつある国の力を立て直そうとする悪あがきか、イスラエル王ペカは、スリヤ王レヂンのお先棒となり、南方ユダ王国の攻撃をする。 二つの国と言っても、イスラエルとユダはもともと同胞である。それなのに、外国の軍隊と協力して同胞の国を攻めるとは、論外のやり方である。 ところが一方ユダのアハズ王も苦し紛れに、はるか北方の強大国で、スリヤ・イスラエルの宿敵アッスリヤに助けを乞うことになった。 アッスリヤ王テグラテピレセルはすぐスリヤに攻め込んで、スリヤの首都ダマスコを落とし、スリヤ王レヂンを殺した。 おかげで一応ユダは助かったのだが、そのお礼にアハズ王は、ダマスコに駐屯中のアッスリヤ王を訪問し、取り集めたエルサレム神殿神庫の金銀を献上した。 それだけでなく、そこからアッスリヤの偶像礼拝を仕入れてきたとは、これまた論外の話であった。
「イスラエルの滅亡」 列王紀下17章1〜14
今や北方にはアッスリヤがますます強大となり、また南方には昔からの大国エジプトが控えていて、アッスリヤの勢力が南方に伸長してくるのを防止しようとする。この二つの大国に挟まれた小国の、イスラエル、ユダは、どっちにつくか、なかなか舵取りが難しい。 今度のイスラエル王ホセアは、アッスリヤに征服された結果、やむを得ずアッスリヤに隷属して来たのだが、今エジプトに寝返ってアッスリヤに背いた。 この小細工が命取りで、アッスリヤの徹底攻撃を受け、イスラエルの完全占領、国民の根こそぎ捕囚となり、つまりイスラエル王国は今や完全に滅亡した。 しかし滅亡の本当の原因は、度々の神の警告にもかかわらず、不信仰、不従順によって神に背き続け、神の保護祝福を失ったことにあると、ここに丁寧に教えてあるのである。
「植民地」 列王紀下17章24〜34
アッスリヤ王は、イスラエルの人々を捕らえてアッスリヤに移し、おそらく強制労働につかせたが、そのかわり、アッスリヤの人口の多い地方の人々をイスラエルに移住させた。いわゆる植民地である。 この間、自然の荒廃の影響で、増殖し狂暴化した野獣たち、ことにライオンなどの被害が出た。 人々は土地の神の怒りであると考えて、アッスリヤの王に求めたので、捕囚の人々の中から祭司をイスラエルに送って、植民地の人たちに、真の神、主を礼拝することを教えさせた。 しかしこれは、ここの人々の気持ちでは、いわゆる土地の神以上の意味は持たず、併せて自分自分の神を礼拝したから、結論的には、この地方は、人種の混血、多種類の宗教の混在という、植民地特有の様相を呈すようになっていった。 いわゆるサマリヤ人の発生である。
「敬虔王ヒゼキヤ」 列王紀下18章1〜16
イスラエルが堕落と滅亡に進んでいるときに、ユダに敬虔王ヒゼキヤが出たのは、イスラエルの滅亡が、非常な反省と緊張をユダにもたらした、その一つの現れともいえよう。 イスラエルの滅亡は、彼の治世の4年のことであったと言うが、その10年後、アッスリヤ王シヤルマネセルが、宿題でも片づけるように、生き残った南王国ユダを攻撃し、ここもイスラエルと同じように占領し、エジプトに対する安全な防波堤にしようとしたのは自然の成り行きである。 さてこれから、微力なユダ王国が、神を恐れるヒゼキヤ王と、預言者イザヤの祈りによって、洪水のようなアッスリヤ軍を撃退するという、有名な話が始まる。
「アッスリヤ軍の脅迫」 列王紀下18章17〜30
ユダの町々を荒らしたアッスリヤ王は、大群を送ってエルサレムに迫らせ、軍使をもって脅迫し、エルサレムを開城させようとする。 談判はキデロンの谷の一地点で行われたが、彼らは人々が信頼服従しているヒゼキヤ王をののしり、ヒゼキヤ王がいくらかあてにしているエジプトをののしり、ひいてはヒゼキヤとユダの人々の信ずる神、主をもののしった。 しかもユダ側の代表者が懇願するのも無視して、城壁の上に並んで心配そうに成り行きを見守っている、一般軍人、一般市民にも、彼らにわかる言葉で呼びかけ、今日の言葉で言えば、宣伝戦、神経戦を開始した。
「預言者イザヤの激励」 列王紀下18章36〜19章7
アッスリヤの脅迫、挑発に乗らず、ヒゼキヤ王の命令を守って、城壁の上の市民が沈黙していたから、アッスリヤの軍使も拍子抜けしたかもしれない。 これはエルサレムの市民の、神と王と預言者に対する信頼、また一致の現れであった。 一方、この知らせは直ちに、ヒゼキヤ王のもとに、それから預言者イザヤのもとに飛んだ。 主はヒゼキヤ王の祈り、国民の一致した祈り、預言者イザヤの熱心な祈りに答え、またアッスリヤの人々の傲慢、不敬虔な言葉を憎み、イザヤを通して「アッスリヤ軍は必ずエルサレム攻撃を断念して、本国に退却するであろう」と約束をお与えになったのである。
「ヒゼキヤ王の祈り」 列王紀下19章8〜20
「エルサレムの人心は堅固である」という知らせが、リブナの本営にいるアッスリヤ王に届いたときはちょうど「エチオピア軍が、ユダ遠征中のアッスリヤ軍を攻撃しようとしている」というニュースが入ったため、こっちの方が動揺している最中だった。 ぐずぐずできなくなってきたアッスリヤ王は、再び軍使をエルサレムに送って、いよいよ短兵急な脅迫をかける。 ヒゼキヤ王は、アッスリヤ王の脅迫状を持って一人神殿に入り、心を傾け、いっさいありのままを申し上げて、神に祈ったのであった。
「アッスリヤ軍総退却」 列王紀下19章27〜37
主は祈りに答えてくださって、イザヤからのメッセージが来た。「アッスリヤの高慢が主の耳に入ったから、主は彼に鼻輪をかけくつわをつけて、もと来た道に引き戻す。エルサレムは安全だ。危険を避けて逃げた者もみな戻って来るだろう」 この主のみ言葉のように、たぶん悪性の伝染病のために一夜のうちにアッスリヤの将兵が大量に死んだので、戦意も戦力も失った彼らは、早々に本国に逃げ帰った。 この戦果のない無駄な遠征と、たくさんの将兵の死は、アッスリヤ国内に広く不満・不安を呼び起したので、ついにクーデターが起り、アッスリヤ王は神殿において、クーデターの手先となった二人の王子に殺された。
「ヒゼキヤ王の病気」 列王紀下 20章1〜11
このヒゼキヤ王の病気の話は、6節によると、例のアッスリヤ軍の侵入、エルサレム圧迫の頃、つまりアッスリヤ軍総退却の前のできごとだったことがわかる。 おそらく国家の危機にのぞんで、あまりにも重い責任と緊張と過労が、ヒゼキヤ王の病気を引き出したのだろう。 「今自分が死ねば、とてもユダとエルサレムは、アッスリヤの攻撃に対して持ちこたえられないだろう」と、ヒゼキヤ王が泣いた気持ちもわかる。 それ故主は、あわれみと奇跡をもってその生命をのばしてくださったのだ。「人間は使命があるうちは死なない」 これはアフリカ伝道の最中、ライオンに噛まれた時の、リビングストンの言葉だ。
「ヒゼキヤの軽率」 列王紀下 20章12〜21
北方の脅威だったアッスリヤはやがてバビロンに滅ぼされた。 新王国バビロンは、アッスリヤとは政策の転換をして、ヒゼキヤ王に対しても友好的だったので、ユダも平和となり、ヒゼキヤ王も次第に国力を回復することができた。 さて今、バビロンの王から友好使節が来たとき、気をよくしていたヒゼキヤ王は、バビロンに対する感謝の気持ちからか、幾分の誇りからか、宝物倉から武器倉まで全部開いて、バビロンの使者に見せた。 これらの内容はだいたい、この平和の間に国力を回復した結果でありかつその象徴でもあった。 しかし彼のやり方は軽率だったから、イザヤから叱責を受けた。 太平、繁栄は人の真剣緊張を損う。ヒゼキヤほどの人も、この人心の原則を免れ得なかったのか。
「悪王マナセ」 列王紀下 21章1〜9
敬虔なヒゼキヤ王の子供にマナセ王、孫にアモン王と、二人続いて無類の悪王が出たのは、歴史の謎だ。 マナセ王は12歳で即位したと言えば、敬虔だったヒゼキヤ王の時代にはおとなしくしていた、反対の態度の人々が、若い王の時代になって、勢力を盛り返して来たのかもしれない。 しかしマナセ王は壮年になって来ると、むしろ自分の方が積極的に、偶像礼拝と不道徳を鼓吹したのだ。 預言者たちの抵抗もむなしく、あの有名なイザヤもマナセ王によって「のこぎり引き」にされて殉教したと伝えられている。 本当にこの世は、神と悪魔、善と悪の戦場だ。
「悪事の測量」 列王紀下 21章10〜26
13節にある「測りなわ」「下げ振り」は、昔の測量の道具だ。 神様はかつて、北イスラエル王国の首都サマリヤの、信仰と道徳の状態を測量して、その罪にふさわしい罰として、この国を滅亡させてしまわれた。 今や同じようにエルサレムが測られるだろう。 また人が皿に盛ったごちそうを見て、それが腐敗していれば、中身を棄て、皿を洗って伏せる。 神は以前、サマリヤに対してそのようになさった。いまエルサレムはどうか。 預言者はそう警告した。アモン王はクーデターに倒れたが、国民はこのクーデターを承認せず、クーデターは失敗に終わり、アモン王の子ヨシヤが即位することになった。
「律法の書の発見」 列王紀下 22章1〜13
ろうそくは消える前にちょっと明るくなると言うが、ヨシア王はユダの王家で、最後にして最高の敬虔王であった。 おそらくこの王のもとに、ユダ王国の敬虔派も勢力を得たのであろう。前王の時代から偶像にみたされていたエルサレムの神殿で、主の礼拝を復興しようと、偶像の粛正清掃の作業中、人々によって旧約聖書、おそらく動物の皮に記されたモーセの五書、が発見された。 王がこの聖書を朗読させて見ると、みことばの光の前に、今さらのようにこの国の宗教的堕落の現実が明らかになって、恐ろしいくらいだったのである。
「孤忠」 列王紀下 22章14〜20
全部の柱が腐ってしまって、家が倒れようとする時には、一本だけ腐らない柱があったとて、家が倒れるのをくい止めることはできない。 しかしそれでも、最後まで腐らなかった柱はりっぱだ。 中国ではこういう態度の人を、「孤忠」と言うが、言わばヨシア王は「孤忠」の人だ。 預言者ホルダは言う。「聖書によって、ユダの宗教的道徳的ガンが、すでに末期症状であることがはっきりわかったのだ。この上はヨシア王が、エルサレムの滅亡を見ぬように、その前に天国に行くのが、せめてもの神のあわれみだ」と。
「改革」 列王紀下 23章1〜14
親が病気になって、もうなおらないことがはっきりしても、親孝行な子供は最後まで看病に手を尽す。 それが人間の至情だ。 ヨシア王は預言者ホルダの宣告を聞いてもくじけなかった。 非常に熱心で、ユダの宗教改革に着手した。 国中から偶像をのぞき、迷信的記念物を破壊し、逆に預言者の墓などは修復した。それを徹底させるためには、王みずから陣頭に立って、国を巡回し、作業を督励した。かくて即位18年後には、律法のとおりの「すぎこし祭り」を執行した。これらは15節以下に書いてある。
「パロ・ネコ」 列王紀下 23章26〜37
エジプト王パロ・ネコが、大軍をひきいて北上し、アッスリヤの軍勢と戦ったのが、BC605年史上有名な「カルケミシの戦い」である。 結局エジプト軍は負けて退却したが、この間においてアッスリヤが衰退し、バビロンが強力となる気運が醸成されたのだった。 この時、北上のためイスラエル領内を通過しようとしたエジプト軍に、無鉄砲な抵抗を試み、その通過を阻止しようとして、ヨシア王は戦死した。 そのあと、その子エホアハズが即位したが、いきさつの後だったから、エジプト王は彼の即位を承認せず、父王ヨシアの責任を追及して彼をハマテに留置し、その弟エリアキムを王とし、莫大な賠償金を命じた。
「かいらい王」 列王紀下 24章1〜9
エホヤキム王はエジプトの王によって立てられた、言わばエジプトのかいらい王だった。 ところがその後も、世界の情勢は動いて、ようやく北方に強大となって来たバビロンに圧迫されて、エジプトは本国に閉じこもり、当然バビロンがユダにも進出して来ることになった。 仕方なくユダはバビロンの属国のようになったが、三年目に、バビロン王がエジプト本国を攻め、これに失敗して、しばらく退いたそのチャンスを見て、ユダはバビロンにそむいた。 しかしこれは強国バビロンを怒らせ、またエジプトとの対抗上の必要もあって、バビロンは大軍を送ってユダを攻撃したが、エジプト軍は沈黙して国境を出ず、バビロン軍はほしいままにユダを掠奪した。 それだけではない。近隣の小国もドサクサまぎれに、ユダを犯したから、ユダは惨胆たる有様となったが、これも積年の罪の罰と言わなければならない。
「第一回捕囚」 列王紀下 24章10〜20
このころユダの国内は、親エジプト派、親バビロン派に分れて、互いに反目競合していた。 バビロンにとっては、エジプトに対する防衛上、ユダの政情不安はひどく気になるところだ。 そういうわけで、バビロンは再びユダを攻撃し、その結果、今度は大量のユダの人々、すなわちユダヤ人が、捕虜としてバビロンに連れて行かれることになった。 これが第一回捕囚と言われ、BC598年のことである。ダニエルたちがバビロンに引致されたのも、恐らくこの時のことと思われる。バビロンの王は今度は、エジプトのかいらい王エホヤキンのかわりに、バビロンのかいらい王ゼデキヤを立てた。
「亡国」 列王紀下 25章1〜12
ゼデキヤ王は即位数年にして、再びバビロンにそむいた。 BC588年。バビロンのネブカデネザル王は、大軍をもって攻めて来た。何しろこの頃は、バビロンは国威隆々の最盛期になっていた。しかしユダも今度は徹底的に抗戦した。エルサレムの包囲攻撃は三年に及んだが、遂に陥落し、史上まれな、徹底的しらみつぶしの、虐殺掠奪が行なわれた。ここに多くの預言者が警告した通りのことが現出して、その惨状は目も当てられず、エレミヤはその様子を「哀歌」の中で、涙と共に歌っている。我々はここで本当に「神の慈愛と峻厳」とを見るのである。
「亡国の上ぬり」 列王紀下 25章22〜30
バビロンの王ネブカデネザルは、ユダ王国の王族や、政治的軍事的指導者を殺し、神殿その他、国中のあらゆる財物を略奪し、国民を捕虜としてバビロンに連れていった。かくしてユダ王国は滅亡した。国に残留したのはほんの少数の細民たちであったが、バビロンはなおこの地を支配するために総督ゲダリヤを立てたのである。 ところが、バビロンの追求をのがれて、辛うじて身をかくしていた執念深い反バビロン派の志士たちが、この総督を殺した。敗戦後の日本で、マッカーサー元帥が暗殺されたようなものだ。 この無益な反抗の結果、彼らは残された人々と共に、エジプトに逃れざるを得なくなり、結局は「亡国の上塗り」をしたようなことになった。