館林キリスト教会

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ショート旧約史 エレミヤ記1〜15章

「涙の預言者」 エレミヤ記1章1〜10

今日からエレミヤ記に入る。エレミヤの奉仕は50年に及ぶが、彼の奉仕がもっとも集中したのは、エルサレムがバビロン軍に滅ぼされ、国民が捕虜として連れ去られる、もっとも悲惨な時期だった。その血を吐くようなメッセージは民に受け入れられず、かえって売国奴と罵られた。その結果神の裁きを受けて母国が滅亡するのを、彼は目撃しなければならなかった。彼が「涙の預言者」と言われるのも故なしとしない。山室軍平氏は戦争中に「民衆の聖書」をエレミヤ記まで書いて亡くなった。この間似たような経験をした山室のエレミヤ記も、おのずから万感がこもっていて、涙なしには読めない。

「若き預言者」 エレミヤ書 1章11〜19

エレミヤはまだ年が若く自信がないのに、預言者として神の召命を受けた。しかもその奉仕が困難を極めることも、すでに言い渡されたのだ。しかしまた「彼等(迫害者)は、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」との約束もいただいた。大鍋の煮え湯は危険なものだが、それが北からイスラエルに向かってぶちまけられる。この幻は、北方の強大国の侵入によって、イスラエルの罪の裁きが執行されるという意味だ。「わざわいが北から起こって、この地に住むすべての者に臨む」と、あなたは語れと、主は命じられる。

「水ため」 エレミヤ書 2章1〜13

クリスチャンになった時の当初の感激は「若いときの純情、花嫁の時の愛」に似ている。しかし人心は移り易く、イスラエル人も次第に神を離れ「生ける水の源である神を捨てて、自分で自由に水ためを掘った」つまり神様以外のものに従い、そこに幸福と希望の源泉を見出そうとしたのだ。しかしこれは壊れた水ためで、人に空しさを与えるだけのものだ。そんなことは昔、十分経験し、よく分かっているはずなのだが。我々も「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ことのないよう注意したい。

「らくだとろば」 エレミヤ書 2章14〜25

青年は「御しがたい若いらくだのように、危険な悪所の道を行き来する」女は「雌ろばのように欲情にあえぎ」その非行を押さえることができない[23,24節]。しかしこの言葉は若者のことでなく、押さえがたく偶像礼拝に走るイスラエルのありさまを嘆いた、エレミヤの言葉だ。その罪の結果、北からは獅子を旗印にしたアッスリヤ人が、南からはメンフィス、タバネスなどのエジプト人が襲ってきて、イスラエルを荒らすだろう[15,16節]。イザヤよりやや遅れて奉仕を始めたエレミヤも、イザヤと同じようなメッセージを繰り返し語らざるを得ない。悲しい事だった。

「絶望状態」 エレミヤ書 2章31〜37

「あなたはいう『わたしには罪がない。彼の怒りは決してわたしに臨むことがない』と。あなたが『わたしは罪を犯さなかった』と言うことによって、わたしはあなたを裁く[35節]」病気が直る見込みがない時に、苦痛を取り去って静かに死を迎えさせる場合がある。これは実は真の絶望状態なのだ。人が罪の自覚で苦しむのは、人を悔い改めと救いに導くための、聖霊の助け、聖霊の賜物だと言われる。ここに書かれているイスラエルの、しらじらしい、そらぞらしい態度は、彼等の救いがたい絶望状態を物語っている。我々はいつも励んで悔い改めねばならないのだ。

「滅亡の教訓」 エレミヤ書 3章6〜20

エレミヤが奉仕した頃は、すでに北方イスラエルは神の裁きを受け、強国アッスリヤの圧力のもとに滅亡してしまった。その事実を目撃しながら、南方のユダも、同じような罪を繰り返してやまないのである。イスラエルの罪の中心は霊的姦淫、即ち偶像礼拝であった。高い丘、聳える大木、それは彼等が偶像を祭るために好んだ場所だった。そこには石の偶像あり、木の偶像もあった。神はこの事態を悲しみ、すでにイスラエルに対しては、離縁状を送り彼を滅亡の手に渡したのだ。ユダはこの教訓を学ばない。日本人も、この教訓から学ばなければならないと思う。

「涙の説教」 エレミヤ書 4章19〜28

「ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ。わたしは苦しみにもだえる。ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである[19節]」人々は神の勧めに耳を傾けず、裁きの戦火は近づく。彼等の滅亡の様を思って、エレミヤは悲しみ泣く。彼が「涙の預言者」といわれるゆえんだ。キリストも同じように、深夜エルサレムを眺めて泣いたと福音書に記してある。キリストもまた涙の救い主だったのだ。ライス博士も説教しながら涙を流した。あまり感情的だという人に対して「人々の滅びを思えば涙なしには話せない」と彼は答えた。

「薪と火と」 エレミヤ書 5章10〜17

人々は預言者を嘲った。「(彼がいくら語っても)主は何事もなされない。災はわれわれに来ない。預言者らは、(内容のない)風となり、彼等のうちに(信ずべき)言葉はない」[12、13節]と。彼等は預言者の警告を無視し罪に耽った。ペテロも「終わりの時に嘲る者が自分の欲情のままに生活し『主の来臨の約束はどうなったのか。すべてのものは天地創造の初めからそのままであって変っていない』と言うであろう」(第2ペテロ、3章3,4節)しかし主は、確実にその裁きを行い「彼等の嘲りの言葉を火とし、彼等を薪として、彼等を焼き尽くす」と言われるのだ。

「太陽とマッチ」 エレミヤ書 5章20〜29

新約に「常に喜べ絶えず祈れ、すべての事感謝せよ」とあるが、神に感謝するかしないかが、案外信者と不信者の分かれ目でもある。ここに「彼等は『我々に雨を与え、我々のために刈り入れの時を定められた、我々の神、主を恐れよう』とは言わない」[24節]とある。これが不信者の心なのだ。ある人が暗闇の道で下駄の鼻緒を切った。親切なクリスチャンのご婦人が、この人が鼻緒をすげかえるまで、そばでマッチを何本も擦って、手元を照らしてくれた。それをあまり丁寧に感謝されたのでご婦人は考えた。「この人は毎日世界を照らして下さる神様には、こんなに感謝しないのではないか」と。

「にせ医者」 エレミヤ書 6章6〜15

ある人が、救いを求めて教会に来ました。しかしもともと酒好きな彼は、禁酒の決心がつきませんでした。ためしに別の教会に行ってみました。するとこの教会では酒を飲んでいてもかまわないということでした。そのうちに彼が病気になって手術を受けると、彼のお腹は、酒のため手の付けられない状態になっていました。間もなく彼は死にました。彼は酒からの救いを受けられなかったのです。「彼等は手軽に民の傷を癒し、平安がないのに『平安、平安』という」とここにあるが、罪と妥協して人をはっきり救いに導けない、ある種の教会の責任は、重いと思う。

「大統領再選」 エレミヤ書 6章16〜26

「あなたがたは別れ道に立って、よく見、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」[16節]。我々は生活の中でいつも別れ道、岐路に立つ。どの道を選ぶかという選択によって、生活も運命も決まる。クリーブランド大統領は不良少年だったが、友達と遊びにゆくつもりで教会の前を通った。そこに「罪の払う値は死なり」と書いてあった。事実彼の母親は、彼の行状を嘆いて自殺した。ふと彼は教会に入ろうと思った。大喧嘩の末、彼は友達と別れて教会に入って救われた。彼の大統領再選のニュースを、あの友達は死刑囚として聞いた、ということだ。

「無神経な礼拝」 エレミヤ書 7章1〜15

当時のイスラエル人は不道徳な行いを反省せず、一方では御利益を当てにし、また交際のためなどと言って偶像礼拝をしていた。それでいながら、彼等はりっぱなエルサレムの神殿を誇りにし、神殿の礼拝を好んだ。その偽善と、無神経を神はたびたび警告されたのだ。「私の名をもってとなえられるこの家が、あなたがたの目には、盗賊の巣と見えるのか」これは神の嘆きだ。新約の時代にも、キリストは同じような神殿の様子を見て、このみことばを引用して嘆かれ、人々を警告なさったのだ。我々の教会は決してこうではないが、しかし常に反省は必要だと思う。

「ほふりの谷」 エレミヤ書 7章27〜34

イスラエル人は神に背いて、さまざまな罪を犯した。ここに我々にとって、最も理解しがたい、偶像礼拝中の最悪事、人身御供のことがでてくる。彼等は、エルサレムの東に横たわる深い谷に、トペテという偶像礼拝所を設け、子供たちを火に焼いてその神に捧げたらしい。神に対する献身、熱心、犠牲の気持ちを現わすためなのだろうが、宗教も一端間違った方向にはずれると、ほとんど狂気に近くなるらしい。やがてこの谷は「ほふり(殺し)の谷」と呼ばれるだろう、とエレミヤは言う。裁きの日に、殺されたエルサレム市民の死体がこの谷に投げ込まれるからだ。

「不正と偽り」 エレミヤ書 8章4〜13

「彼等が小さい者から大きい者にいたるまで、みな不正の利をむさぼり、預言者から祭司にいたるまで(教育者から宗教家まで)偽りを行っているからである。」どうもこの言葉はよそごとには聞かれない。それなのに彼等は反省せず手軽に民の傷をいやし、平安がないのに『平安』『平安』と言っている」つまり「なに心配は要らない。俺たちは大丈夫だ」と言っている。しかし神様の裁きの日が来ると彼等は外国の乱暴な軍隊に踏みにじられるのだ。「それゆえわたしは彼等の妻を他人に与え、その畑を征服者に与える」葡萄の木にもいちじくの木にももう実はならず、その葉もしぼんでしまうのだ。

「涙の泉」 エレミヤ書 9章1〜11

関根先生のお嬢さんに、障害のある子供が生まれた。そのことを知った母親が泣いたのを、先生は「人間にこんなに涙があるのか、と思うほど娘が泣いた」と話しておられた。いまエレミヤは「頭が水槽で、眼が涙の泉であったら」と嘆いている。ソ連解体後、ソ連南部で、ユーゴで内戦が続き、人々が殺されている。我々はそれをよそごとに聞いているが、エレミヤには、傲慢なイスラエルを裁くため、乱暴な外国の軍隊が押し寄せてくるのが、目に見えていた。それを思って常に「涙が涸れるほど」エレミヤは泣いたのだ。我々もまた日本が裁かれぬよう祈ろう。

「お葬式」 エレミヤ書 9章17〜24

イスラエルは神の選民であり、エルサレムはその誇りであったが、BC587年、バビロン軍の総攻撃を受けて壊滅した。そんなことにならないように、多くの預言者が主から遣わされて、警告したが、彼等は頑として悔い改めなかった。エレミヤは、長く真剣なその奉仕にもかかわらず、悲惨なエルサレム滅亡を、目撃しなければならなかった。この時バビロン軍は、歴史的な残虐行為でエルサレムを荒らしたのだ。彼はそれを思って常に泣いた。今彼は依然ケロリとしている人々に勧める。「あなたがたはお葬式の時のように、大勢の泣き女を集めなさい。間もなくエルサレムのお葬式が始まるのだ」と。

「未開国日本」 エレミヤ書 10章1〜16

「偶像は林から切り出した木で、木工が造る。金銀でりっぱに飾るが、倒れないように、釘とかなずちで台に打ち付けなければならない。勿論自分で歩くことはできないから、誰かに運んでもらわなければならない。物を言うこともできない。かかしと同じだ。それがどうして、人の祈りに答えられようか。人を助けることができようか。あるいは、人に災難を与えるカがあろうか」これは偶像に対する預言者の挑戦だ。世界に優秀な頭脳を誇る先進国日本にも、未だに偶像は多い。本当に不思議な話だ。そこ一種の宗教的、道徳的未開状態があるのが問題なのだ。

「約束違反」 エレミヤ書 11章1〜13

昔、強国に捕らえられた奴隷として絶滅寸前だったエジプトから、イスラエル人は救い出された。彼等が感激して「以後は主に従って生きる」と約束したのは、極めて自然なことであった。またいかに人間が弱いと言っても、この気持ちも約束もまさか変わるまいと期待するのも当然だ。ところが彼等の気持ちも変わった。約束は破られた。これがいつもエレミヤが指摘してやまない神の悲しみなのだ。神様がその反逆の罪を裁く時はもう」祈っても泣いても、呼ばわっても間に合わない。つまり「今日神の声を聞いたならば、心をかたくなにしないで、従わなければならない」のだ。(ヘブル、4章7節)

「アナトテの民」 エレミヤ書 11章18〜23

アナトテはもと祭司職レビ人の町だった。この地の人々はエレミヤの勧めに従わないだけでなく、かえってエレミヤを殺し、二度と説教ができないようにしようと企んだ。あるいは祭司には特にエレミヤの警告が耳に痛かったのかも知れない。しかしやがて神の裁きの器、バビロン軍がイスラエルを攻撃する時が来ると、この町はたまたまその大軍の通路に当ったので、彼等はまともに敵軍の血祭りにされ、恐るべき残虐行為の犠牲になったのだ。エレミヤはその全てを目撃することになる。

「単眼と複眼」 エレミヤ書 12章1〜6

「悪人の道が栄え、不真実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか」これは本当に昔からの古い疑問だ。中国に「天道是か非か」(いったい神のなさりかたは、正義なのか、そうではないのか)などという言葉がある。しかし問題は、単眼でなく両眼で、ものごとの両側面をよく見なければならない。また、近視眼でなく、長い目ですべてのことを見つつ、最後の結論、最後の裁きを思わなければならない。「神のひきうすはゆっくり回るが、すべての物を碾(ひ)き砕くのだ」などと言われるわけだ。エレミヤも、それを学ばされている。

「貴重な帯」 エレミヤ書 13章1〜11

エレミヤの預言の一つの特徴は、象徴的な行為をもって語ることだ。帯は、服装が単調だった昔の人にとって価値のある衣類だった。いまその高価で貴重な帯をユフラテの砂漠に放置した。少したって行って取り出して見ると、強い日光と、乾燥した空気にさらされて、もう使い物にならない。主は言われる。「帯をもって身を飾るように、主はイスラエルをもって、その栄光としようとした。しかし、彼等は、主の恵みを拒絶して日を経たので、もうぼろぼろで使い物にならなくなった。捨ててしまう以外に処置はない」と。彼はこの帯を示しつつ、説教したのだ。

「満杯の徳利」 エレミヤ書 13章12〜19

ここではエレミヤが、酒の一杯入った徳利を幾つも出して、説教している。イスラエルの人たちが罪と偶像礼拝の酒に酔っているのを、警告するためだ。酒の満ちた徳利をぶちあてて、徳利はこわれる、酒は流れる、その様子を実演して見せたのだろう。そのようにやがて来る神の裁きの日には、彼等は外敵に攻撃されるだけではない。深刻な仲間割れ、国内対立が、国民の悲惨に拍車を掛けるのだ。それゆえ早く国民こぞって悔い改めるように、預言者たちは必死に、呼びかけるのだ。

「自業自得」 エレミヤ書 14章1〜9

恐ろしい干魃で飲料水も出ない。収穫もない。家畜も牧草がないため死滅する。この飢餓状態は神の裁きによってもたらされるのだ。しかしエレミヤはその中にもなお神のあわれみを期待して祈る。「この悲しいありさまを、神様は一時的な通行人のように冷然と見ておられるのですか。また勇士と呼ばれ期待されながら、うろたえるだけで、この時、人を救うことのできない者のように、彼等を見殺しになさるのですか。これも彼等の自業自得ですが、でもどうぞ彼等をあわれんで下さい」と。

「心は地に」 エレミヤ書 14章10〜18

「罪を許したまえ。しかしだめだ。罪の結果手にいれたものを手放さずにいて、その罪が許されようか。言葉は天を目指すが、心は地に留まる」ハムレット中クローデイアスの祈り。エレミヤ書にも、罪をそのままにしておく者の祈りも断食も、礼拝も捧げ物も、神は受け入れない。また罪の問題に触れない預言者が、いくら祝福の預言を語っても、その言は成就しないと、警告しておられるのだ。われわれはここでも神の求めたもう供え物は、砕けた魂」であることを改めて知るべきだ。

「神からの退却」 エレミヤ書 15章1〜9

やがてイスラエルに襲いかかる、疫病、剣、飢餓、捕虜の運命。エレミヤの悲痛な預言の言葉は続く。その理由は、「主は言われる。あなたはわたしを捨てた。そしてますます(わたしから)退いて行く。それゆえ、わたしは手を伸べてあなたを滅ぼした」と主自ら言われるとおりである。イスラエルのように、神の選民として、特別に神の教えを受け、祝福に預かったものは、それだけ重い責任を問われるのだ。我々クリスチャンの祝福も、決して彼らに劣らない。責任も重いのだ。どうか「次第に、ますます神から退き、ついには神を捨てる」ようなことにならぬよう、お互いに戒めたいものてす。

「聖書の喜び」 エレミヤ書 15章15〜21

さすがのエレミヤも、報いられない奉仕に疲れた。しかし彼はここで言っている。「わたしはみ言葉を与えられてそれを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」これは聖書を読むものに、いつも経験される祝福である。また主はエレミヤに「わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁とする。彼等があなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け救うからである」と言われた。み言葉に立つものは強い。