館林キリスト教会

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ショート旧約史 詩篇40〜79篇

「キリストの祈り」 詩篇 第40篇1〜17

詩篇は賛美歌集であると共に、祈りの模範、祈りの文集、つまり「祈とう書」です。詩篇を自分の祈りとして読むのはすばらしい祝福です。けれどもそうしているうちに「これはキリストの祈りだ。キリストだけが、この祈りを心から献げることができたのだ」と感ずることがしばしばあります。[6〜8節]はその一つですが、この数節はその意味で[ヘブル10:5〜7節]にも引用されています。

「悩みの日の歌」 詩篇 第41篇1〜13

人生には「悩みの日」がある。その中でこの詩人は[1〜3節]の信仰告白を唱え、また、[4節]の祈りを捧げる。日頃から彼の祝福を妬み憎む者は、彼の死と滅亡を期待し「あいつももうだめだ」などと言いふらし、様子を見にきたり、おためごかしを言いつつ親友を裏切る[5〜9節]。しかし詩人は信仰の祈りを止めない。主は必ず彼を助け、敵を見返させてくださると信じている[10〜13節]これもクリスチャン人生の一場面です。

「信仰の自問自答」 詩篇 第42篇1〜11

42篇43篇は本来一つの詩篇だと思う。43篇にタイトルがなく、「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか」という繰り返しが43篇の最後にも見える、などがその理由だ。詩人はここで三回も同じ言葉で自分の魂を激励している。「なぜうなだれるのか。わたしにはなお神の助けがある。思い乱れていないで神を持ち望もう。やがて試練から解放されて神を賛美するようになる」と。信仰の自問自答、自分の魂の激励。本当にすばらしいことだ。

「神の祭壇に行こう」 詩篇 第43篇1〜5

クリスチャンでも時には、神さまから離れたような、神さまから見捨てられたような、不信仰、疑惑、寂しさに襲われることがある。悔い改めない自分の罪に原因があることもある。困難な境遇のためかも知れない。しかし原因不明の時もある。詩人は言う「わが魂よなぜうなだれるのか。思い乱れるのか。わたしにはなお神の助けがある。さあ祈りつつ神を待ち望もう。やがて解放されて神を賛美する時がくる」と。信仰の自問自答、自分の魂の激励。本篇はそのまま前の詩篇の続きだ。

「神の沈黙」 詩篇 第44篇1〜26

ここで詩人は、かつてはイスラエルを祝福し救いたもうた神が、今は沈黙してその苦難と敗北を見殺しにしているのを感じて苦しむ。悔い改めない自分の罪にその原因があることもある。しかし祈ってみても別に思い当らない。それなのに祈りに手応えもなく依然神は沈黙している。ある人はこれを「霊的乾燥」という。祈りつつこういう苦しい場面を切り抜けるのも、信仰の大切な秘訣の一つだ。

「王と王妃」 詩篇 第45篇1〜17

近日イギリスのチャールズ皇太子夫妻が来日されるそうだが、彼らはいま世界で最も人気のあるカップルの一組だろう。この詩篇に歌われているのは昔のイスラエル王とその妃の美と栄光である。とともに、やがて再臨の日に現れる、新郎なるキリスト、新婦なる教会の美と栄光の歌でもある。黙示録に「小羊の婚宴の時がきて花嫁はその用意をした」と書かれている、我々の希望と喜びの時である。

「休息と礼拝」 詩篇 第46篇1〜11

[10節]「静まってわたしこそ神であることを知れ」を「余暇を確保せよ。そして礼拝に出席せよ」と訳した人がいる。過労でも病気にならないという人はいないし、また休まずに治る病気もない。ところが今は日本中が心身の過労に馴らされ、休みかたも知らない季節だ。ただもう一本調子で、人の言葉を聞いて「それもそうだ」と言えないし「あの手この手」の工夫もできないから自殺が流行る。家族とともに聖日の休息と礼拝を確保し、それを習慣づけることで、我々クリスチャンはその中から救われていると思います。

「主は統べ治める」 詩篇 第47篇1〜10

わたしが若い時に指導をうけた舟喜先生は、戦争中、教団の委員長として苦労された。ある日のこと、外部の圧迫と教団内部の沈滞萎縮に追詰められて、何の打つ手もなくただ疲れ果てて、外から帰ってくると、書斎のテーブルの下に頭を突っ込んで、ただ悲しんでいた。しばらく祈りのあと、ふと「神はもろもろの国民を統べ治められる」というみことばが心にひらめいた。「その時、一切の困難と疲れ、敗北感は即座に消滅し、立ち上って神を賛美した」と話してくれた。わたしはこの話を今も忘れず、しばしば思い出します。

「神の都」 詩篇 第48篇1〜14

イスラエル人にとってエルサレムは喜びと誇りの都で、その中に立つ神殿は、神の臨在と祝福のシンボルだった。国家と家庭の喜びの時、反対に戦争やききんの試みの時、人々は神殿に集って祈った。それはクリスチャンにとっての教会と似ている。「神よ、われらはあなたの宮のうちで、あなたのいつくしみを思いました」「そのやぐらを数え、その城壁に心を止め、そのもろもろの殿をしらべよ」などは、現在、教会を愛している大勢のクリスチャンの心そのもののように思われる。

「富のちから」 詩篇 第49篇1〜20

マルコス大統領の莫大な財産は、この頃新聞に書きたてられて世界を驚かせた。ここに詩人は言う。「富をもって人は魂をあがなうことはできない」「彼が生涯自分を幸福に感じても、また人から賞賛されても、やがて彼はまっすぐに墓に下る」「彼が死ぬとき、富も栄華も、何も携えてゆくことはない」。しかし救われた者は「神はわたしの魂を受け、よみの力からあがない出される」と。

「真の礼拝」 詩篇 第50篇1〜15

[7節〜13節]に、いかにも豊かで立派だが真の礼拝に関係ないものが記してある。そして言う。「感謝のいけにえを神にささげよ。なやみの時に主を呼べ」これが真の礼拝であると。与えられている恵みのために、常に真実に神に感謝する。当面する困難や問題のために、あわてず絶望せず、信仰をもって神に助けを祈り求める。これこそ生活の中の生きた礼拝、神の求めたもう真の礼拝であると。

「砕けた魂の詩篇」 詩篇 第51篇1〜19

神の祝福に溢れた、勇ましいダビナはりっぱだが、かくも謙遜真実に悔改めている彼の姿もまた美しい。中国の言葉に「君子の失敗は日蝕のごとし。欠けるや万民これを見る。回復するや万民これを仰ぐ」とあるが、アブラハムの場合もダビデの場合も本当にそうだ。有名なインド宣教師ウイリアム・ケァリーは、生前から「自分の葬式には、この1節2節から説教してくれ」と頼んでおいだそうだ。

「裏切り者」 詩篇 第52篇1〜9

「落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる」という歌がある。ダビテは理由なくサウル王に追われ、エルサレムを亡命しなければならなかったとき、神殿に祭司を訪ねて祈りを求め、これからの身の振り方を相談した。ところがちょうどそこに居合わせた異邦人のドエグが、この様子をサウルに密告したので、これがサウル王の祭司の町虐殺事件にまで発展することになった。ここにダビデはこの裏切り者のために神の正義に訴えて、彼らの裁きを祈らざるを得ないのだ。

「真の愚者」 詩篇 第53篇1〜6

ここに「愚かな者は心の内に『神はない』という」とあり、また箴言には「愚か者は戯れごとのように罪を犯す」とある。ルカ伝にも「愚かな者よ。あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるだろう」とあるが、「神はない」とむりに自分を説得しつつ良心をごまかし、必ずやってくる死をも、強いて思わないようにして罪を犯しつづける。その不自然な虚勢の姿こそ真の愚か者なのに、かえって彼らは教会を指して「愚者の楽園」などと言っている。本当に馬鹿につける薬はない。

「密告者」 詩篇 第54篇1〜7

ダビデは亡命時代、手兵をもって国境をパトロールし、無冠無報酬で町や村を保護した。多くの町村はこれに感謝し、喜んでダビデとその一党のために生活必需品を提供した。しかし中には知らんぷりをする者もあり、反対にダビデがいることを密告して、サウルから恩賞を得ようとする憎むべき者もいたのだ。ダビデはここでもまた、その忘恩、裏切りを憎んで神の裁きを期待する。これもまた止むを得ないことと言わねばならないだろう。

「祈りの詩」 詩篇 第55篇1〜23

ここのところマスキールで歌われた、ダビデの放浪時代、苦難の時代の詩が多い。詩篇は全編、美しい「賛美歌集」で、また「祈りのお手本集」でもある。喜びと、感謝の溢れるとき、詩篇は本人自身よりも、もっと強く深く、感謝と祈りの言葉を教えてくれる。しかし実は詩篇には苦しく悲しい時の、うめくような祈りのお手本が多いのだ。人間の厚誼よりも裏切り、愛よりも迫害。そういうテーマが多い。詩篇は、歯の浮くようなロマンチズムでなく、人生の現実に対してリアルだ。

「知りたもう神」 詩篇 第56篇1〜13

人間がどんなに苦しんでいても、困っていても、「神は沈黙していたもう。あのヨブの時のように」という人があり、神を信じ期待することは、現在の社会と人心の実状に合わない。つまり「神は死んだ」と極言する神学者さえいる。しかしここには、「神はダビデの放浪の日数を数え、その流した涙を皮袋にたくわえ、その祈りをすべてノートに記していてくださる」と神さまについて書いてある。実にこれこそ、ダビデとともに今も、全部のクリスチャンの人心に合う真理の教えなのだ。

「祈りの勝利感」 詩篇 第57篇1〜11

信仰に入って間もない少年のころ弟が重い病気になり夢中で祈っていた。ところがある日突然、重苦しい祈りから急に解放されて心が非常に軽く明るくなった。「きっと祈りが答えられたのだ」と思ったわたしは喜びのあまり、病気はもっとも困難ば状態なのに「病気は今日が峠でこれから良くなるよ」と断言したが、不思議にその通りになった。こういう経験はその後もくりかえされてきた。「わたしの心は定まりました。わたしは歌いかつほめたたえます」とは、きっとそんな体験だ。

「悪魔らの勝利」 詩篇 第58篇1〜11

悪魔は人を誘惑しまた迫害する。まるで噛みつく蛇のようであり、また狼のようだ。時には洪水のように激しく、時には生えはびこる雑草のように始末が悪い。ここに詩人が「彼らの歯やきばを折ってください。その洪水を消滅させ、神の力で肉欲の雑草を踏みつけ、枯れさせてください。不潔で気味悪く粘りつく、蛭やかたつむりのような悪魔の業を、どろどろに溶かしてわたしを自由にしてください[6〜9節]」と祈っている気持ちも分る。

「高きやぐら」 詩篇 第59篇1〜17

この詩篇には「タベごとに帰ってきて、えさを求めてうろつきまわる野良犬」のことが二度繰り返しでてくる。また「神は高きやぐら」とも書いてある。鶏が犬に追われたとき地面を逃げ回っている間は危険だが、高い場所に飛び上がってしまえばもう安心だ。クリスチャンが悪魔に狙われたときも同じだ。霊的に高いところ、そここそが安全地帯なのだ。

「最後の勝利」 詩篇 第60篇1〜12

イギリス人は「戦争は最後に勝てばいい」というそうだ。どんな戦争だって、途中では負けそうになることがある。そのとき「あなたは弓の前から逃れたものを再び集めようと、一つの旗を立てられました(4節)」そこで皆がもう一度勇気を奮い起こしたので、聖書史上有名なエドムの勝利となったのだ。伝遺の戦いにも、教会の働きにも、同じような事は多い。そういう時にこそ旗を立てて、戦いを勝利に導く人物こそ貴重だ。

「英国の国歌」 詩篇 第61篇1〜8

6.7節は「God save the King」という英国国歌の出典のような気がする。このように国民は王や政府に対して、文句をいうだけでなく、また祈らなければならないのだ。同じく教会は牧師のため、家族は父親のために祈ることが大切だ。「理想的なお父さんでない」と、注文や文句ばかり言わないで、彼の困難な重い責任のために祈ろう。これは家族の幸福の秘訣の一つです。なにしろ今日は「父の日」ですからね。

「注ぎ出す祈り」 詩篇 第62篇1〜12

[7節]に「民よみ前にその心をそそぎいだせ」とあるが、水の少ないこの地方では、動物の革袋に水をいれた水売りが毎日やって来る。奮発して水を全部買おうということになると、水売リが、その革袋の後足を持って逆さに引立てる。その時の水の出方を「注ぎだす」というのだ。われわれが祈るときもそのように、謙遜、正直に、また信仰をもって、心の全部を注ぎだして祈ることを、主は求めていたもうのである。

「闇討ち」 詩篇 第64篇1〜11

先週「職業」のお話をしたが、社会や職場の人間関係は難しい。陰口や中傷の「闇討ち」「だましうち」も時々はあるようだ。ここにも「剣のように研ぎ澄まされた舌」の闇討ちや、言葉の「わな」がでてくる。あまりえげつないことのできないクリスチャンは、まるで無防備のような感じがするが、しかし経験者ダビデの詩篇の言葉は、私達を慰め励ます。主はそういう場面でも一切を知り、われわれを守りたもうのだ。

「自然界の奇跡」 詩篇 第65篇1〜13

[8節]「人々も、あなたのもろもろのしるしを見て恐れる」しるしとは「奇跡」の意味で使われる言葉だが、ここでいうのは自然界の、日々の、雄大な奇跡だ。これこそ、時々の、いわゆる「奇跡」以上のしるしなのだ。もともと詩篇は全巻、美しい詩だが、太陽、慈雨、田園、牧場などを歌った6節以下の自然描写は、特別素晴らしいと思う。

「エジプトからの開放」 詩篇 第66篇1〜20

[10,12節]には先祖のエジプトでの苦難。[5,6節]にはその解放と、紅海の奇跡が歌われている。この解放は、イスラエルの建国に繋がり、彼らの末代まで忘れえぬ記念であった。彼らはどんな苦難の時にも、この記念を語り合い、神の救いを信じて励ましあった。長い苛酷な運命にもかかわらず、イスラエル民族が滅亡しなかったのは世界史の奇跡だ。われわれも、いつも神の恵みを繰返し思い、また語り合うことが大切だ。

「祝福の光」 詩篇 第67篇1〜7

あのエリヤの時のカルメル山のように今も教会に神の火と雨が注がれ、これを見て、まだ神を知らない人々が神を信じ神を崇めるにいたるように、われわれは先週の礼拝でお祈りした。今朝のこの詩篇の1〜4節に歌われているのも同じ祈りである。かくて神を知らなかった人が救われて別人のようになり、神を崇め、賛美するのを見るほどの喜びはない。今朝もその一人の証を聞くことができるのは感謝だ。

「嗣業の回復」 詩篇 第68篇1〜10

ここにもイスラエルのエジプトからの解放と、彼らがカナンの地に領土、すなわち嗣業を得たことが歌われている。絶滅に瀕したエジプトの奴隷たちが解放されただけでなく、その子孫までの生活のために「乳と蜜の流れるカナン」を与えられたとは、何たる感謝だったろう。今も神は霊の恵みとともに、生活の恵みでもわれらを祝福したもうのだ。

「百合の花の曲」 詩篇 第69篇1〜10

詩篇も賛美歌として、いつも歌われていたので、タイトルには音楽用語がよくでてくる。この詩篇の「百合の花のしらべ」や、別の詩篇の「あけぼのの鹿のしらべ」などもそれで、当時一般に歌われていた曲を使ったのだろう。ちょうど今集会で聖歌を歌うとき、司会者が「これは『オ一ルド・ブラック・ジョー』の曲です」また「これは『ましろき富士の嶺』の節で歌います」などというのと同じだと思う。

「老年者の保護」 詩篇 第71篇1〜9

老年に及べば誰しも、淋しい病気、孤独などを覚悟しなければならない。今日本で多くの人の関心のテーマだ。個人も国も老後の備えは大切だ。しかしダビデがここに祈っているように「幼い日から神に従い、老年のために主の保護を祈る」信仰の生涯はもっと大切だ。人それぞれ、その時その時の必要に応じて、神はいつも行き届いた助けを与えて下さることは確実だからだ。

「悪しき者の繁栄」 詩篇 第73驚1〜13

「悪い者ほど良く眠る」「善人は若死にする」などと皮肉な言葉がはやるくらい、世の中には矛盾が多い。クリスチャンでもそれが気になることがある。その結果、急に自分のまじめな信仰生活を空しく淋しく感ずるが、これは一つの試みだ。この詩篇は、アサフがどうしてこの試みから立ち上がり、淋しい心境から回復したか、その貴重な体験が記してある。なんだか人聞味があって、わたしは大好きな詩篇です。

「最後を悟る」 詩篇 第73篇13〜28

悪者の栄えるのを見て、まじめな信仰生活が淋しくなった。そのときそれを人に話すこと、自分で考えることなどで結論は出ない。それはただ人をつまずかせ、ただ自分を疲れさせるだけに終わる。ここに詩人はいう。「神の聖所にいってその最後を見た」と。そのとき彼の心はこの矛盾の悩みから解放され、再び信仰の勝利を得たのだった。

「神殿の破壊」 詩篇 第74篇1〜11

昔からエルサレムの神殿ほど、攻撃の目標とされ繰返し破壊された宗教施設も珍しい。イスラエル人がシナイ山で律法を受け幕屋を建て、民族国家であるより「公会」すなわち宗教団体として発足して以来、神殿はこの国の祝幅の中心だったのに。何故神は懐手をしてこの事態を見ておられるのか。それはイスラエルが神に背いて罪を犯したからだ。「何故」神殿の破壊を、神は放置されるか。その「何故」こそ、彼らが自分に向けて問うべき問題だった。

「われらと神」 詩篇 第75篇1〜10

詩篇の読み方の一つは、発言者に注意することだ。特に発言者が途中で変わる場合に注意が必要だ。この詩篇では、[1節]および、[6〜10節]は詩篇の作者が神に向かって申し上げている、祈りでもあり信仰告白でもある。中間の[2〜5節]は、彼の祈りに対し信仰に対して、これを受け入れ、是認し、支持してくださる神の応答の声だ。かくて信仰を励まされた詩人は、感謝と確信をもって賛美している。これが詩篇の、また我々の祈りの一つのパターンだ。

「立ち上がる主」 詩篇 第76篇1〜12

エルサレムはイスラエルにとって、神の臨在と祝福のシンボルだった。人々が神に従っていた間、神は常にこの町を守りたもうた。エルサレム包囲攻撃中のアッシリアの軍隊を、主の使いが攻撃し、一夜に18万5千人を殺して退却に追い込んだ話もある。我々にとっては、教会が主の臨在と祝福の中心だ。いつも教会のために、神の保護と祝福を祈ろう。むかしのエルサレムと同じく、しばしば教会も悪魔の攻撃にさらされるのだから。

「自問自答」 詩篇 第77篇1〜15

淋しい一日が終わった詩人は「夜、わが心と親しく語る」。いわゆる自問自答だ。「主は永久にわれらを捨てられたか」というような質問をくりかえしているらしい。うなだれた魂からはなかなか積極的な答えは出てこない。しかしそのうちに彼は聖霊に導かれて「過去の奇跡的な神のみ業」を考え始めた。かくて、次第に自分の心からも、信仰の励ましの声が聞こえ始めるのだ。

「子孫に教えよ」 詩篇 第78篇1〜18

礼拝中の母子室は一種の壮観だ。今館林教会は赤ちゃんを連れた母親クリスチャンがとても多いからだが、これもすばらしい恵みだ。私達は主の教えを、子供から子孫までよく教えなければならない。ユダヤ人は「子供に職業を教えないのは泥棒を教えるのと同じだ」といった。子供の心をしっかり主の教えで武装しておかないで、不用意のまま悪しき世に送りだせば、悪魔の餌食に曝す結果となるから、とても成り行き委せではいられないのだ。

「エルサレムの回復」 詩篇 第79篇1〜13

失敗と罪に対する裁きの結果には違いないが、イスラエルの栄光のシンボルであるエルサレムの度々の滅亡は、その歴史を読む者にさえショックを与える。しかし神は裁きまた許す神である。荒廃のエルサレムから、真実な悔い改めをもって神の憐れみとエルサレムの回復を祈るのは神のみ心だった。我々にとって教会はエルサレムだ。同じように、教会のなかから、神の栄光と教会の祝福のために、耐えず謙遜真実な祈りがささげられなければならない。