館林キリスト教会

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ショート旧約史 アモス書

「アマチュア預言」 アモス書1:1〜12 1996/8/18

7章14,15節に「アモスは答えた、『わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である』。ところが主は群れに従っている所からわたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と、主はわたしに言われた」。とあるのは彼の履歴であって、彼はいわゆる専門の預言者ではなかった。また3章8節に「ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。などとあるのは、彼の預言の本質を示すものと言えよう。この章で彼は、常にイスラエルに敵対した、スリヤ、ペリシテ、フェニキアなどの周辺諸国の、恐るべき終末の裁きを警告し、かつ預言する。

「残虐行為」 アモス書2:1〜16 1996/8/25

1章から2章の始めにかけて、イスラエル攻撃に際して行った諸国の残虐行為が記してある。戦争には理由があろう。しかし戦争には理由のない残虐行為がつきものだ。神は乱軍の中で行われた、隠れた残虐行為をすべてみそなわし、確実に罰するのだ。しかしイスラエルはなぜかくも残虐な攻撃にさらされたのか。その理由が4節以下に書いてある。彼らは神を離れ神の道を離れた。その結果、有力者、金持ち、宗教家はほしいままに貧しく弱い者を圧迫した。(7節のように、弱い女性は、強い男性の欲望のままに恥辱を受ける)それゆえトラックが人を轢き潰すような外国の侵入も、実は神ご自身による裁きなのだ。

「真の原因」 アモス書3:1〜8 1996/9/1

何事にも原因、理由がある。誰にも分かる明らかな原因も、隠れて見えない原因もある。[3〜8節]は「原因と結果」の原則をくり返し教える。そしてイスラエルを襲う戦争その他の災害は「神の裁き」という、隠れた真の原因があることを示す。しかも神は「予告なしの不意打ち」はなさらない。必ず預言者を立てて警告する。アモスはその預言者の一人なのだ。原因が分かれば対策も分かるのが原則だ。イスラエルは神の警告を聞いたらすぐに悔い改めればいいのだ。預言者は神に示されてそれを警告し、また勧告するのだ。この原則は今の我々にとっても事実だ。預言者の言葉に注意せよ。

「軍隊の略奪」 アモス書3:9〜15 1996/9/15

アッスリヤは北方の、エジプトは南方の大国であって、彼らはイスラエルのサマリヤに軍隊を送って占領し「大騒ぎと暴虐」を行い、宝物を略奪した。しかし今、彼らの王国と宮殿は荒らされ滅亡するとアモスは言う。(いま我々はツアーでその廃墟を見学できるのだ)。この時サマリヤ人は神の哀れみによって全滅を免れ、地震から逃げる者のように、壊れた家具のはしきれを持って逃げ出した。しかし実はサマリヤにも多くの罪があった。神はやがてこれをも罰し清める。そこにあるまじき偶像の祭壇も、またそんな状態のなかでもいつの間にか建てられた、贅沢な「象牙の家、大きな家」も破壊される。サマリヤの、また外国の裁きは、栄光の神の国出現の準備なのだ。

「神に会う備え」 アモス書4:6〜12 1996/9/22

神は人を愛し祝福し給う。それがみ心である。その神がいま、干ばつ、作物の病害、イナゴ、飢饉、疫病、外敵の来襲と、次々にイスラエルに災害を送り給うのは、彼らを戒めて悔い改めに導き、神に立ち返らせるための警告なのだ。しかし彼らは強情だった。「それでもあなたがたはわたしに帰らなかった」と、神の嘆きが七回も記されるありさまだった。そして最後に「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」と神は言い給う。地上で神の警告、裁きを受けることがあっても、悔い改めれば許される。しかし、最後に、われわれの死においてか、キリストの再臨においてか、神に会うならば、もう悔い改めは許されない。神の怒りによって滅亡する以外にないのだ。

「主を求めよ」 アモス書5:1〜13 1996/9/29

この章には「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ」という勧めが2回、また「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる」というメッセージが反復して語られている。実にこれこそが命の光なのだ。反対に5節のように、あちこちの偶像や迷信に助けを求めてもそれは空しい。また[10〜13節]のように、貧民を搾取し、賄賂を取り、耕地を占拠し、立派な家を建てるなど、現世的な成功も空しい。彼らの横行のために正しい者の訴えや言論が封じられて、自由に勝手なことができるようでも、天で神様が見ている限り、一切は空しくなるのだ。真に生きる道は「罪を悔い改め、神を求める」ことにある。これがアモスのメッセージだ。