館林キリスト教会

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ショート旧約史 エレミヤ記46〜52章

「カルケミシ戦」 エレミヤ書 46章1〜12

ここから「詩文型」の預言が始まる。個々の事件についてその都度示された預言集だ。BC605年、当時強大だったエジプトは遠くユフラテ河近辺カルケミシまで遠征してバビロンと戦った。エジプトにいたユダヤ人はこの勢いを見て、エジプトが仇敵バビロンをやっつけてくれると期待したろう。しかしエレミヤの預言どおり、エジプト遠征軍は大敗を喫しさんざんな姿で退却した。その結果今度は逆にバビロンの攻撃を受け、エジプトはその国内までも踏みにじられることになる。これが[13節]以下の預言だ。我々も世の動きから離れられないが、それでもいつも主の導きの中に生きる事が大切だ。

「敗戦の詩」 エレミヤ書 46章13〜24

聖書には美しい詩が多い。ここに記された「バビロンのエジプト侵略の詩」もすばらしくまた恐ろしい詩だ。ミグドル、メンピス、タバネスなどは音に聞こえたエジプトご自慢の大都市だ。アピス、雄牛などはエジプト人がいつも礼拝した偶像だ。そしてエジプト王パロの名は「偉大な征服王」として世界を震え上がらせたのだ。しかしいまはその名も「騒ぐだけでチャンスを失う敗北者」と呼ばれ、エジプトの雄牛は、背中にたかるはえも追い払えない弱い子牛に例えられる。真の神の怒りと裁きの日が来てエジプトの高ぶりの日は過ぎ去ったのだ。「万軍の主という名の王は生きておられる」からだ。

「ガザの侵略」 エレミヤ書 47章

ガザは今度、イスラエルとPLOの話が合えば、パレスチナ人自治地域になる予定なので、よく新聞に出る。昔は歴代にわたってイスラエルを圧迫したペリシテの有力都市だった。今彼等もバビロンの侵略を免れることはできない。アシケロンもペリシテの都市。ツロ、シドンもフェニキヤと呼ばれる地中海岸の有力都市だ。いずれもバビロン軍の被害を受ける。心身ともに弱くなった父親は、もう子供を助けられず自分が逃げるのがやっとだ。当時の捕虜はみな頭を剃られた。ガザではもうその作業が大量に開始されたと言う。

「寝かされた酒」 エレミヤ書 48章1〜13

ガザ、モアブなどはイスラエル周辺の小国だが、イスラエルが神に裁かれてバビロン軍に蹂躙されたとき、火事場泥棒のようにイスラエルに侵入して略奪した。彼等がそのまま安泰でいられるはずがない。いまエレミヤによってその裁きが宣告される。11節には今までモアブが比較的太平だったことが言われている。彼等は静かに大切に長期間寝かされた上等の葡萄酒のようだと。しかしいま裁きと滅亡の時が来たのだ。日本も案外、平和で太平楽でこの葡萄酒のようであるかも知れない。

「亡国の山河」エレミヤ書 48章34〜44

モアブ滅亡の預言が続いている。ある人が戦争中に「某国の某艦隊が某港で全滅した」というニュースを聞いた。戦争が終わって飛行機でその港の上空を飛ぶと、半ば沈んだその艦隊の残骸が見えた。彼は言う「全滅とはなくなってしまうことではない。役に立たなくなることだ」と。我々も姿や形は生きながら、実はそのクリスチャンの実質は罪のために滅亡している、という悲しい場合もあり得るのだ。モアブは滅びてもその土地は残る。「国破れて山河あり」という有名な詩のように。しかし、我々も「遺跡クリスチャン」や「遺跡教会」などになりたくない。

「アンモンのラバ」 エレミヤ書 49章1〜6

アンモンはイスラエルの東方の国で、今はヨルダン王国領だ。当時の首都ラバは、今ヨルダンの首都アンマンとなっている。彼等はイスラエルの弱体に乗じてガドの住民を追い出し、そこを占領して住んでいた。エレミヤは今彼等の裁きの日が来たことを告げる。「ラバは荒塚となり、村々は火で焼かれる。そのときイスラエルは自分を追い出した者を追い出す」と。昔私がバスでヨルダン河沿いの道を通ったころは、すぐ東に見えるヨルダン領からの砲撃にそなえて、至るところに待避壕の標識があった。その後湾岸戦争の頃になると、イスラエルを恐れるヨルダンの曖昧な態度が、世界の物笑いになった。

「やもめと孤児」 エレミヤ書 49章7〜13

ここにはエドムが同じようにバビロン軍の侵略によって滅亡する予言が記されている。エドムの先祖はエサウで、弟のヤコブと家督権を争った人物だ。神のみ心が明白になったので、やむを得ず彼は弟に家督を譲って南方に移動しエドム地方に国を成した。それゆえ彼等は先祖以来、イスラエル人に対して一種の恨みとライバル意識を抱き、常に抵抗、略奪、攻撃をしかけてイスラエルを悩ませていた。いま彼等の上にも裁きが臨む。しかし[11節]には、神の憐れみのみ心が示され、彼等が悔い改めて主に寄り頼むならば、生き残ったやもめや孤児などは、遺残者としてこの国に残されると語られている。

「旧悪の報い」 エレミヤ書 49章23〜33

こう毎週神の裁き民族滅亡の予言が続いては、さすがのわたしも疲れる。しかし今は人が自分の責任を取らない時代だ。被害者意識だけが強く、自分の欲深さや不注意を指摘されることを好まない。若者も成り行きまかせの気風がはやっている。もう少し「神は侮られるお方ではない、人は自分の蒔いたものを必ず刈り取ることになる」という原則を考える方がいい。神とその裁きを侮った、ダマスコを首都とするシリア、ケダル、ハゾルなど北方の諸民族が、理不尽にイスラエルを苦しめた旧悪は今こそ報われる時となった。

「解放の予言」 エレミヤ書 50章8〜20

今まで、強国バビロンに攻め滅ぼされる、イスラエル以下の中小諸国に関するエレミヤの予言を紹介した。バビロンはこの時、神の裁きを執行する機関として立てられたのだ。さてその乱暴極まるバビロンはいつまでも安泰繁栄を続けられるのか。そうではない。今度はもっと北方からペルシヤが起こってバビロンは滅亡するだろう。しかもペルシヤのクロス王は、捕囚のユダヤ人に解放帰国を許すことになる。[17〜20節]はその予言だ。そして我々はこの予言が、エズラ記、ネヘミヤ記にその通り成就したのを知っている。

「悲しい成就」 エレミヤ書 51章54〜64

いまバビロンの遺跡は発掘されて白日のもとに雄大な廃墟をさらしている。全くエレミヤの予言の通りだ。セラヤはイスラエル王が捕虜としてバビロンに移されるとき、旅行の宿営、食料などの責任を持った、王からもバビロンからも信頼された将軍だったろう。彼はエレミヤの弟子で、信仰によるその穏健さが買われたものと見える。エレミヤは彼にバビロン滅亡の予言の巻物と、それをユフラテ川に沈めるという象徴的行為を託した。エレミヤの予言集はここで一応終わっているようだ。次の最後の章は、彼の予言の悲しい成就の記事だ。これに続く哀歌」は国の滅亡を目撃した彼の男泣きの章だ。

「焼野が原」 エレミヤ書 52章1〜16

戦争中に東京は空襲で焼野が原になった。戦後のある日、私は本所に住む知人を尋ねてあの辺を歩くと、一面の草原で白昼虫が鳴いていた。さすがの私も悲しくて涙ぐんだ。先日亡くなった市川惣蔵先生は、復員して前橋に帰ってきた時子供の頃から住んでいた前橋が一面の焼野になっているのを見て、彼も簡単に泣くような男ではないのだが、やっぱり泣いたと話していた。今イスラエルはバビロン軍の攻撃によって焼き払われ、王は逮捕され、略奪と虐殺が欲しいままに行われ、神殿も荒らされ略奪された。真に哀れな話だ。

「エホヤキン王」 エレミヤ書 52章17〜34

ここに逮捕されながら不思議に解放され、バビロンで安楽な余生を許されたエホヤキン王のことが記されている。実は彼はゼデキヤ王の兄で、前の王だったのだ。彼はエレミヤたちの勧めをいれてバビロンに降伏し、逮捕連行された。そのあとバビロンはかいらい王として弟ゼデキヤを立てたのだが、彼は愚かにもまたもやバビロンに叛き、決定的な亡国を招いたのだ。エホヤキンの運命は暗示的だ。彼はエレミヤの勧めによって神の裁きを受け入れ、バビロンに降伏した。その従順が彼を最悪の運命から救ったとも言えるのだ。