ショート旧約史 マラキ書
「堕落祭司」 マラキ書1:6〜10 1997/7/12/
今度交読する予定だった「ゼカリヤ書」は、旧約の「黙示録」と言われ、象徴的な記述に溢れ、難解で交読しても意味が分からない。それで「マラキ書」に進みます。いま国民のために尽くすべき、厚生省、大蔵省、その他の役人が、義務を怠り、地位を利用して賄賂を取るので国民は困っている。しかし当時のイスラエルでは、国民を代表して神に仕える祭司たちが堕落して、形式だけの礼拝に陥っていた。もちろん、律法にかなわぬ食物や、傷物の動物を献げたというのは、象徴的表現だろう。しかし誠意のない、形式だけの礼拝や献げものは、神の厭い給うものだった。神は「せめて誰か、神殿の戸を閉じてくれないか」とおっしゃる始末だった。
「教会の警戒」 マラキ書2:1〜9 1997/7/20/
いま堕落している祭司たちも、かつて祭司制度の初期には[4〜9節]のように、その神聖な職務に忠実だった。彼らは「平安と公儀をもって主と共に歩んだ」また「多くの人を不義から立ち返らせた」。しかし彼らはこの「万軍の主の使者」の奉仕から脱線したのだ。教会はいま1ヶ月に2回「教会史」を勉強しているが、中世紀の教会と聖職者の堕落は想像を絶する。これが宗教改革を呼び起こしたのだ。けれども人のことばかりは言えない。牧師も、役員、SS教師も、長い奉仕に慣れて、いつの間にか純真と熱意を失い、神にも人にも当てにされず、かえって忌み嫌われるような姿に落ちぶれない保障はない。教会は、いつも清新な力と希望に満ちて進みたいものだ。
「裏切り」 マラキ書2:13〜17 1997/7/27/
「偶像礼拝」は「霊的姦淫」だと言われる。しかし、当時の祭司たちは、神の前に誓って結婚した妻に対する裏切り行為があったようだ。なぜそんなことが起こったのか。その理由は[17節]「それはあなたがたが『すべて悪を行う者は主の目に良く見え、かつ彼に喜ばれる』と言い、また『さばきを行う神はどこにあるか』と言うからである」。これはすべての罪を犯す者の内心にある、神を侮辱しその裁きを無視する、ひとつの覚悟、逆信仰告白とも言うべきものだ。詩篇に「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」。と言ってあるとおりだ。お互いに心しよう。
「キリストの来臨」 マラキ書3:1〜7 1997/8/3/
ここには、キリストの来臨の預言がある。旧約時代の預言者は、遠い山脈を見るように未来を見た。近づいてみると、一緒に見えていた手前の山と、その向こうの山との間に、かなりの谷があるのが分かる。キリストの来臨も同じで、最初は人の罪を贖うために、謙虚な姿にお生まれになった。しかしキリストは再び来たり給う。つまり再臨だ。その時、神とキリストに逆らう、あらゆる者に対する審判が行われるのだ。また現在イスラエルは、亡国、離散など、厳しく裁かれている。しかし永遠の目で見れば彼らは、究極的に見捨てられることはない。彼らは悔い改め、主に用いられるのだ。
「神のものを盗む」 マラキ書3:8〜12 1997/8/10
預言者はイスラエルの罪の一つに「神のものを盗んだ罪」を挙げる。しかし彼らは(3章8〜10節)「『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う」。神はなお言い給う。「あなたがたは十分の一と、ささげ物をもって(盗んだ)のである。わたしの宮に食物(必要なもの)のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい」と。献金を怠ることは、当然神に帰すべきものを私するのだから、神の厳しい目で見れば、神のものを盗むに等しいのだ。人間が正しい献げものをもって神に仕えれば、神もまた報い給うと、主はくり返し言い給う。
「二種類の人」 マラキ書3:13〜17 1997/8/17/
ここには二種類の人が挙げてある。最初は「 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、主の前に歩いたからといって、なんの益があるか。
今われわれは高ぶる者を祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく罰せられない』」。と言う不信仰者。次は信仰者。教会の祝福の一つが、クリスチャン同志の交わりにあることは、みな経験している。そして会話も楽しい。しかし主はこの会話に耳を傾けてくださる。つまりクリスチャンの会話は、会話の形の祈りなのだ。神はメモをとり、この会話の祈りにも答えてくださる。すばらしいことだ。
「義の太陽」 マラキ書4:1〜6 1997/8/24/
最後の審判の日には、罪人を裁くために大きな炉が築かれる。有力者、富者はその中でわらのように、枝のように燃え、痕跡も残さないだろう。一方、神に従う民には勝利と解放がおとづれ、その喜びの様は、牛舎から出された子牛が跳ね踊るようだと。[4章5節]「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」とは、救い主に先立って遣わされる、バプテスマのヨハネの預言である。[4章6節]「彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」。つまり、キリストの紹介のために、また救われる人のために、準備する役目を帯びて、神から派遣されるのだ。