ショート旧約史 ホセア書
「不幸な家庭」 ホセア書1:1〜11 1996/3/24/
ダニエル書の後半は聖書中有数の難解な預言で交読には適さないからホセア書に進む。ホセアは主の命令によって「淫行の女ゴメル」と結婚した。しかし彼女も最初からの淫婦ではなく、途中からそんな女だと分かったのだろう。その腹から次々と生まれる子も、ホセアの子であるか疑わしいありさまだった。しかし神様は離縁することを許さず、忍耐をもって彼女を愛しつづけることをお命じになった。やがて彼女も悔い改めたと思うが、彼は苦しい家庭生活を強いられたのだ。しかしこの経験から、イスラエルのくり返しの反逆にもかかわらず、いつまでも忍耐し愛しつづける神の悲しみを理解することができたのだ。彼が「涙の預言者」と言われるゆえんである。
「涙の預言者」 ホセア書2:1〜7 1996/4/7/
ホセア書は、悔い改めた奥さんを再び家に迎え入れ、彼の家庭の問題が解決した後に語られた預言集だが、神に背くイスラエルの民に対する警告の言葉の中に、彼自身の苦い経験がちりばめられ、神の御思いと重ね合わせて語られるのを、我々は読み取ることができるのだ。背く民に対する神の悲しみを訴え、悔い改めを迫るその間、彼の思いはいつも切迫し、その目は常に涙にぬれ、人々の感動を呼ばないではおかなかったろう。ましてホセアの寛容と愛によって救われた奥さんが、常に傍らに立って証をしたろうから、彼の集会はすばらしかったと思う。それゆえ昔から彼もエレミヤとともに「涙の預言者」と呼ばれているのだ。
「奥さんの身請け」 ホセア書3:1〜5 1996/4/14
ホセアの妻は勝手奔放な生活の結果、男にもてあそばれた最後は、金で売られた遊女の境涯におちぶれていたらしい。ホセアは彼女のありかを捜し出した。そして神に命ぜられ、助けられ、励まされて、銀15シケルと大麦1ホメル半をもって彼女を請け出し、助け出し、連れ戻したのだ。2章14節に言う。「それゆえ見よ。わたしは彼女をいざなって荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。わたしは彼女にぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。彼女は若かった日のように答えるであろう」と。この章でも彼は言う「あなたは長くわたしの所にとどまって淫行をなさず、また他人のものとなってはならない。わたしもまたあなたにそうしよう」と。いまはさすがの彼女も悔い改めた。ホセアは本当に、神の愛と救いを実行したのだ。
「淫行の民」 ホセア書4:1〜10 1996/4/21
ホセアは淫行の奥さんに対して忍耐と寛容の限りを尽くし「涙の預言者」と言われるが、その悲痛な経験は、神に背くイスラエルに対して語る時、強い激しい非難と警告の言葉になって現れた。神の悲しみと怒りが良く分かるからだ。[4〜6節]においては、この悲しむべき状態の民に対して、ほとんど警告しない祭司、預言者の怠慢を責める。彼らはイスラエルの指導者として、神の代理人として、神に代わって民に警告を発すべき者たちだ。しかるに彼ら自身、神の律法を忘れた。神に関する知識も感情も失った。ほとんど無関心だ。そして自分自身が昼は職務につまずき、夜は私生活につまずいているのだ。結果的には教えもせず警告もしないことによって、しかも祭司の立場と報酬を受けることによって、実は民の罪を食い物にしていると、非難する。
「偶像と淫行」 ホセア書4:11〜19 1996/4/28
ここに指摘されたイスラエルの罪は、偶像礼拝と酒と姦淫である。実はこれらの罪は不思議に結びついている。昔から「お神酒(みき)上がらぬ神はない」などという。また江戸の吉原、京都の祇園など、偶像に結びついた遊郭や遊び場も多い。「彼らは山々の頂きで、かしの木、テレビンの木の下で供え物を捧げる」とは偶像礼拝のこと。「酒は思慮を奪う」のは誰にも良く分かっている。「男たちは宮の遊女とともに犠牲を捧げる」というのは偶像に伴う女遊びのことだ。彼らが真の神を離れ、酒と遊興にふけるありさまを見て、ホセアは悲しみつつ厳しく警告する。「エフライムは偶像に結び連なった。そのなすにまかせよ。彼らは酒宴のとりことなり、淫行にふけっている。彼らはその光栄よりも恥を愛する」と。我々はこの言葉を読むと、今の日本が思い見られて、よそ事とは思えないのだ。
「神に対する淫行」 ホセア書5:1〜12 1996/5/5
ホセアの妻がそうであったように「エフライムよ、あなたは今淫行をなし、イスラエルは汚された」「彼らは主にむかって貞操を守らず、ほかの者の子を産んだ」。ホセアはかつての、妻に対する自分の怒りや悲しみを思い、今宗教的淫行、すなわち偶像礼拝の罪にふけるイスラエルに対する神の怒りと悲しみを推察し、神に代わって切実に呼びかけるのだ。しかしイスラエルは悔い改めようとはせず、警告するホセアを「しみのように」「腐れのように」忌み嫌っている。かつてのホセアの妻のように。聖書の中にくり返し最も多く出てくる罪は「偶像礼拝」だ。これはいかにこの罪が多いか。また神がいかにこの「霊的姦淫」の罪を悲しみ憎み給うかを語っている。
「裁きと救い」 ホセア書5:15〜6:3 1996/5/12
ホセアはその妻が勝手な行動をする間、祈りつつじっと待っていた。彼女が「罪を認めて、わが顔(ホセアの)をたずね求めるまで」待ったのだ。やがて彼女は「悩みによって、わたし(もとの主人)を尋ね求めて言う『さあわたしは主に帰ろう』と」。不倫の喜びは長く続かない。やがて悩みと苦しみが襲ってくる。その時、主人ホセアの愛と真実と忍耐は彼女の悔い改めをうながしたのだ。そして彼は彼女を許し受け入れた。いまここにホセアはイスラエルの民に言う「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。彼女と同じようにいま悔い改めて主に立ち帰れば、神はホセアと同じように許し、彼らをいたわり介抱し、また祝福して下さるのだと。
「かえさない菓子」 ホセア書7:1〜10 1996/5/19
不信仰、偶像礼拝、不道徳、政治的野心、陰謀など、この時代に渦巻く罪のありさまが描写されている。パン屋さんは毎日パンを焼く。それがストップするのは、パン生地の準備中か、火の起こるのを待つ間ぐらいだ。そのように実は間断なく罪が行われている。王はそのため健康を害し、信望を失い、家来たちは陰謀をめぐらす。機会があれば陰謀が燃え上がり、お互いに滅ぼし合う。彼らは遠慮なく偶像教徒と入り交じって交際する。彼らは悔い改めないので、裏返すのを忘れた火の上の菓子のように黒焦げだ。癩病の初期の白髪が生え始まったのも気に止めない。ただ裁きを待つだけの末期症状だ。これがイスラエルの現状だった。ホセアはそれを指摘して止まない。
「政治と宗教と産業」 ホセア書8:1〜10 1996/5/26
[4節]には当時のイスラエルの政治のようすが見える。国民が王侯を立て、あるいは自分で王侯になる。しかし彼らは祈りもせず神のみ心を求めもしない。神はこの王侯の政治には関知せず、祝福も与えない。それはまるで金銀で飾りたてた偶像と同じだ。[5節]サマリヤ人は金の子牛を主と称して礼拝した。彼らはこれを「主」と呼んでいるのだから偶像ではないと強弁する。しかしこれを神は憎み給うた。[7,8節]祝福を失ったイスラエルの産業は荒廃して、風を蒔いて風を刈り取るように収穫はない。ダビデ時代に諸国民に尊敬され、恐れられたこの国も、今は侮辱され孤立している。[9,10節]彼らはアッスリヤを当てにして同盟を結ぶが、かえって彼らの攻撃を受ける。これらも神の裁きの結果だ。
「宗教と性の混乱」 ホセア書9:7〜14 1996/5/26
[7〜9節]には宗教の混乱が描かれている。預言者すなわち宗教家は、本来「神の霊に感じて」人を導くものだ。ところが実は彼らの正体は「愚かな者」「狂った者だ」。彼らは人々を正しい信仰と正しい道に導くべき「見張り人」なのだが、実はその道には罠と落し穴がある。しかしその原因は彼らのみにあるのではない。人心が乱れて低級なものを求めるようになった、そこをつけこまれるのだ。[10〜14節]には性道徳、性秩序の混乱が見える。妊娠、出産は祝福でも喜びでもなくなって、まるで災難のようだ。健康正常な出産も、育児も家庭教育も期待できない。無責任な親や家庭から生まれた子供等は、空しさ、誘惑、罪悪の餌食にさらされている。あわれな話だ。
「新田を耕せ」 ホセア書10:11〜15 1996/6/9
[12節]は一種の挿入句だが、伝道の奨励としてよく用いられる。「新田を耕せ」は、全く新しい人に福音を語る場合、開拓伝道の場合などに当てはまる。山林や岩地は「福音の種」を受け付けない。まず開墾が大事だが、人間の心の開墾は何によってできるだろうか。それは理屈や説教でなく、クリスチャンの行為の感化によらなければならない。次に「正義の種」すなわち「福音の言葉」を蒔くことだ。結果は二の次にして、とにかくみ言葉を人の心に注入することが大切だ。み言葉は思いがけない時に記憶からよみがえり、人を救いの経験に導くのだ。そうすれば「いつくしみの実を刈り取る」。すなわち救いの感謝を刈り取ることができる。神様は収穫のために「雨のように」この働きを助けて下さるのだ。
「燃え起こる憐れみ」 ホセア書11:1〜9 1996/6/16
生活は貧しく前途も不安で、助けと導きを必要とする青年の頃に教会に来て、救いと神の助けを得た人が、やがて成功して安定繁栄に及び、神を離れるケースは多い。神はイスラエルをエジプトのくびきから救い出して、多くの祝福をもって彼らをカバーした。そのイスラエルの神に対する抵抗反逆は、憎むべき忘恩行為だったのである。神はこれをとがめる。また叱る。しかし同時にそのうちに「憐れみ」の心が燃え上がるのだ。そしてただただ彼らの救いを願い期待するのだ。怒りと裁きは決して神の望みではない。このみ言葉を読むと、かつて不貞の妻を許した思い出が神の愛と入り混じって、涙の訴えになるホセアの心境が察せられる。実にいつの時代にも「神の寛容」こそが「我らの救い」なのだ。
「先祖ヤコブ」 ホセア書12:1〜9 1996/6/23
[3〜6節]にイスラエルの先祖ヤコブのことが出ている。「ヤコブ」は「押しのける者」の意味で、よく彼の性格を示す名だ。彼は双子だったが、先に生まれようとして、兄の踵を掴んで母の腹から出てきたと言われた。そして弟なのにお人好しの兄を欺いて、父の財産を独り占めにしようと画策した。彼が生まれ変わったのは、ベテルで神のみ使いと争うという奇異な経験の結果だった。そこで、人を押しのけ自己を主張し、自己の利益のみを貪るのは、実は神に対して争うことだと気がついた。彼はベテルで悔い改めたのである。そして「イスラエル=神のプリンス」という名前をいただいた。ホセアは言う。彼の子孫は、悔い改める前のヤコブ同然だ。先祖に習い、悔い改めて「真のイスラエル」になりなさいと。
「言葉のささげもの」 ホセア書14:1〜9 1996/6/30
先日の礼拝でも「悔い改め」がいかに大切かということをお話した。ここに「イスラエルよ、あなたの主、神に帰れ」と言い、「言葉を携えて主に帰って言え」とあるのはそれである。今まで背いていた心を神に向け、罪の悔い改めを自分の言葉で申し上げるのは、最初にしてかつ最高の「神に対する供え物」なのである。詩篇51篇にも「神の受けられるいけにえは砕けた魂です」とあるとおりだ。[2,3節]にその悔い改めの言葉がある。そこに「くちびるの実をささげる」とあるのは、「口先だけでなく、実行をもって」ということだろう。たとえば酒を悔い改めた人が酒の道具を捨てるようなものだ。神はこの祈りを喜び、直ちに受け入れて下さる。[4節]に「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである」とあるとおりだ。何という尊いことか。