ショート新約 使徒行伝
「使徒行伝とは」1:1〜5 2011年6月12日
使徒行伝の著者は、昔から、ルカによる福音書の著者ルカであると言われる。したがって使徒行伝は、ルカによる福音書の続編であり、時には、「第5福音書」などとも呼ばれることがある。ある人は「新約聖書の中で、一番大切な書は使徒行伝である」と言っている。特に、次の4つの点で重要な意義を持っている。第一は、歴史におけるキリスト教会の成立展開について記している唯一の書である。第二は、原始教会の成立、展開に当って、神様が用いた人々が、どのような人々であり、どのようにそれを果たしたかを書き記している書である。第三は、その中でも、最大の伝道者、また最初の神学者といわれるパウロの回心と伝道とが、どのようになされたかを示す書である。第四は、かくして、エルサレムに始まったキリストの教え、その福音が、どのようにして、世界的、普遍的宗教として展開前進したかを示す書である、ということである。(伊藤)
「おなじ有様で、またおいでになる方」1:6〜14 2011年6月19日
場所はオリブ山、西にエルサレム神殿が間近に見える距離です。イエス様は復活後、四十日の間ご自身を現し「聖霊があなたがたにくだる時…地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言い終ると、天に上げられ、お姿が見えなくなりました。白い衣を着たふたりの人は言いました「天に上げられたこのイエスは、…同じ有様で、またおいでになるであろう」。「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。…あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる」(ゼカリヤ書14章4節5節)。(市川)
「主の復活の証人」1:15〜26 2011年6月26日
エルサレム市内の彼らが泊まっていた屋上の間には十一弟子、婦人たち、イエス様の母マリヤ、兄弟たち、そして百二十名ほ、わたしの証人となるであろう」というイエス様のお言葉が心に響いていたでしょう。さて、主の復活の証人として一人を選出することがみ心と判断しました。選出の条件は「主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」(21節、22節)。祈りのうちにくじによって選ばれたのは、マッテヤでした。(市川)
「聖霊降臨日」2:1〜13 2011年7月3日
キリスト教会において、聖霊がくだったことを記念するペンテコステの祝いは、クリスマスのようには祝われることが多くはありません。しかし、この聖霊がくだったことによってキリスト教会が誕生したことを思う時、その重要さは測り知れないものがある。イエス様は、十字架につけられて葬られ、三日目によみがえられて、四十日の後昇天された。その昇天の直前、弟子たちに向かって「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と命じられた。そこで弟子たちは、主が命じられたとおりに、約束の聖霊を待ち望んで祈り会をしていた。またイエス様を裏切った弟子のユダの代わりの使徒を補充して組織を整えた。このように十分に態勢が整った時、昇天したイエス様の代わりに、助け主聖霊がくだられたのである。(伊藤)
「ヨエルの預言の成就」2:14〜21 2011年7月10日
使徒たちが、五旬節の日(ペンテコステ)に、巡礼のためにきていた大勢の人々に対して、生まれ故郷の国語で神様の力あるみわざについて語り出すと、人々は二つの反応を示した。一方は、驚いて耳を傾けて聞き入り、もう一方は、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」とあざ笑ったのである。どちらにしても使徒たちは、人々に福音を語る絶好のチャンスが与えられたので、代表してペテロが説教をした。ペテロは説教を始めるにあたって、まずあざ笑う人々に、自分たちの身に起こった出来事を説明し、「これは旧約時代の預言者ヨエルが預言していたこと」である、とはっきり語った。ヨエルは、メシヤの来臨とイスラエルの信仰復興に関して語っているが、その信仰復興は、聖霊の注ぎによって起こるのだと言っている。(伊藤)
「イエスを、神はよみがえらせた」2:22〜36 2011年7月17日
ペテロは説教を続けます。そばには十一人の使徒たちが主の復活の証人として立っています。ナザレで育ったイエス様は、数々の力あるわざ、奇跡をなさいました。神がイエス様をとおしてなさったのです。それによってイエス様が神からつかわされた方であることを示したのです。十字架にかかって死なれましたが、このイエス様を、神はよみがえらせました。ダビデが詩篇で預言していたとおりに。「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」(32節)。「それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである」(33節)。イエス様の逮捕、十字架のとき、逃げ怯えていた弟子たち、主を否んだペテロ、とは思えない姿でした。(市川)
「強く心を刺され」2:37〜47 2011年7月24日
「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」(2章23,24節)。「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(36節)。イエス様は神様がおたてになった主、キリストであると聞き、イエス様の死と復活の証人であるペテロの言葉に人々は強く心を刺され、罪の自覚が生じ問わずにいられませんでした。「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」(37節)。ペテロは悔い改めを勧め洗礼を勧めました。人々はこれに従い続々と洗礼を受け、その日仲間に加わったのは驚くべきことに三千人ほどでした。ひたすら使徒たちの教えを守り、神をさんびし祈りと喜びのうちに過ごし、主は日々救われる人々を加えてくださったのです。(市川)
「美しの門での奇跡」3:1〜10 2011年7月31日
聖霊に満たされて説教したペテロを通して3千人の人々がバプテスマを受けました。そうした熱気の中で、続いて「ソロモンの廊」でペテロが説教をすると、今度は5千人の人々がイエス様を信じたのです(使徒4章4節)。彼がこの説教をするきっかけとなったのは、彼らがいつものように午後3時の時に宮に上ろうとしていた時、「美しの門」のところで、生まれながら足のきかない男性との出会いからです。ペテロもヨハネも、まさかこの男性との出会いが、その後に続く不思議なわざ(彼が踊りあがって歩き出した事)と、あかしの奇跡(癒された男性が、神を賛美しながらペテロたちと宮に入って行った事)、また神殿における説教、そして5千人ほどの男性が信じるという素晴らしい結果をもたらすとは、夢にも思わなかったのではないでしょうか。ハレルヤ!(伊藤)
「いやしの後のペテロの証言」3:11〜16 2011年8月7日
ペテロが生まれながらの足の不自由な男をいやした出来事は、宮に集まっていた人々の間にセンセーションを巻き起こした。その様子が11節に「人々は皆ひどく驚いて、『ソロモンの廊』と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。」と記している。興奮した群衆は、ペテロに熱いまなざしをを向けたが、多くの人々の関心の的は、この男が歩いたという「肉体のいやし」だった。それでペテロは、この人を歩かせたのは、自分の力や信心によるのではなく、栄光を受けられたイエス様であることを語った。ところがユダヤ人は、このイエス様を拒否し、殺してしまったのだが、神様はイエス様を死人の中から、甦らせた。ペテロたちはその証人であり、このイエス様を信じた時、その信仰によって、この人は強められ、完全にいやされたのであると力強く説教したのである。(伊藤)
「悔い改めて本心に立ちかえりなさい」3:17〜26 2011年8月14日
ペテロは駆け集まってきた人々に次のように語りました。「あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり」(17節)と。イエス様を十字架につけたことについてです。ペテロは寛容に語っています。続けて「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」(19節)。昔から預言されているとおり、やがてイエス様が再びこの地上においでになり「万物の更新」のときがくるからです。モーセもサムエルもその後の預言者たちもみな語ってきました。すなわち神が「ひとりの預言者」(22節)を立てておつかわしになった、と。「その預言者の語る言葉にことごとく聞き従いなさい」(22節)。「神がこの方をおつかわしになったのはあなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」(26節)と。イエス様が昔から預言されたキリストであることを示し悔い改めを強く勧めたのです。(市川)
「この人による以外に救はない」4:1〜12 2011年8月21日
二章にあるようにこのときは、イスラエルの三大祭りである、七週の祭りである五旬節で、旧約聖書の教えの通り礼拝がなされ聖会が開かれるということでエルサレムの都は各地からの人々で溢れかえっていました。エルサレムの都は神様によってなされたペテロたちの奇跡と証言とみ言葉の宣教によって、人々は駆け集まり、信じる人々が起こされ、このときも男の人だけでも五千人に及びました。二章以降の一連の出来事は大勢の人々に衝撃とも言えるものだったでしょう。捕らえられたペテロが翌日、大祭司アンナスをはじめとする人々の前で語った言葉です。この人がいやされたのは「あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。…この人による以外に救はない。」(10節、12節)と。(市川)
「大胆な証言」4:13〜22 2011年8月28日
ペテロとヨハネは、ラビの学校で専門的な教育を受けたことがない「無学な、ただの人」だった。この二人が大祭司をはじめ、役人、長老、律法学者たちという、そうそうたる顔ぶれが集まるユダヤ義会において、臆する様子もなく自分たちの身に起こったことを堂々と主張し、弁明をした。それ故、彼らは度肝を抜かれただけでなく、いやされた人が二人と一緒に立っているのを見て、返す言葉もなかった。そこでユダヤ議会の議員たちは、二人を議会から退場させてから互いに協議し、使徒たちの主張や弁明に対する反論ではなく、今後、この名によって語ってはならないと彼らを厳しく戒めるという苦肉の策を講じるしかなかった。もちろん、彼らがこのような脅しに屈するはずはない。彼らは大胆に「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と証言したのである。
(伊藤)
「ペテロたちの報告と教会の祈り」4:23〜31 2011年9月4日
釈放されたペテロとヨハネは、自分たちのために祈り、とりなしてくれた仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが言ったことを残らず報告した。報告を聞いた人々は、神様が祈りに答えて、二人を釈放してくださったことを感謝すると共に、これから先も迫害に屈することなく、大胆に神の言葉を語るために、聖霊による力と勇気が神様から与えられるように祈ることの必要性を痛感した。彼らは、神様を主と呼び、主は天地万物を造られた創造主であるという信仰の告白をしている。また主は人間の歴史を支配しておられる統治者だとも述べている。その具体的な例として、主はその当時から数えて約千年前に聖霊によってダビデの口を通して語られた詩篇第二篇二節の言葉を成就された。その後、彼らが祈ると、その祈りは直ちにに答えられ、大胆に神の言葉を語り出した。(伊藤)
「聖霊の恵みを受けて」4:32〜37 2011年9月11日
聖霊に満たされた一同は、大胆に神の言葉を語りました。使徒たちは主イエス様の復活について非常に力強くあかししました。大きな恵みが注がれ、信じた人々はいっさいを共有にし乏しい人はひとりもいなかったとあります。人々は地所や家屋を売りその代金を使徒のもとに届けました。ささげものは人々の必要に応じて誰にでも分け与えられました。ささげた人々の中にクプロ生まれのレビ人でバルナバという人がいました。彼も所有地の畑を売り代金をささげたのです。福祉制度が整っていなかった時代にこのような共有、互助が行われ、この様子を見聞きした周りの人々は驚き不思議に思いつつも興味関心をいだいたことでしょう。聖霊の恵みを受け感謝と喜びのうちにささげた人々の様子は力強い証として用いられたでしょう。(市川)
「聖霊を欺く罪」5:1〜11 2011年9月18日
光が明るいほど影もはっきりします。バルナバは信仰によって喜びのうちに地所の代金ををささげました。アナニヤとサッピラ夫妻は資産を売ったのち共謀して代金をごまかし一部だけをささげました。8節、9節で、これが偽りのささげ物だったとわかります。ペテロの「あの地所はこれこれの値段で売ったのか。そのとおりか」という質問にサッピラは「そうです。その値段です」と答えました。人々の賞賛を得ようとしたのでしょう。ペテロは「売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。…あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」(4節)と、ささげることは強制ではないこと、偽りのささげものは神を欺くことだと指摘しました。聖霊のみわざが顕著なこの時代に聖霊を欺く罪に対する裁きも鮮明でした。罪の誘惑は常にあります。主に寄り頼み祈りつつ歩ませていただきましょう。(市川)
「使徒たちの癒し」5:12〜16 2011年9月25日
この部分は、使徒行伝4章35節に続くように見られ、3章の足の不自由な男の癒しとも繋がっているように見られている。使徒たちは大勢の人々が集まるソロモンの廊に進出して、毎日集会を持った。キリスト者以外の者は、信徒たちの交わりの性格がはっきりわかってくると、誰ひとりその交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬し、一種の畏敬の念を持って見ていた。こうして主を信じて仲間に加わる者、信仰を告白して教会のメンバーに加えられる者は、その後男女を問わず、増加していった。使徒たちは、一般の信徒の方から大きな信頼を受けていた。病に悩む者、汚れた霊に苦しめられている人たちが、彼らによって、階級を問わず、全部のものが癒された。人々が使徒ペテロに近づいていったのは、ペテロ自身の癒しの力を得ようとしたのではなく、彼の背後にいます十字架と復活による主の癒しの力を、ペテロの影を通して受けたかったということであろう。(伊藤)
「人に従うよりは、神に従うべきである」5:17〜32 2011年11月6日
ユダヤ議会の議員たちは、使徒たちにイエスの名によって教えてはならないときびしく命じておいたにもかかわらず、彼らはエルサレム中にその教えを広めてしまった。そこで、大祭司とサドカイ派の者はみな嫉妬の念に満たされて、使徒たちを捕え、牢獄に入れてしまった。ところがその夜のうちに、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、人々に「命の言葉」を語るように命じたのである。一方、ユダヤ議会は議員たちを招集し、使徒たちを牢から引き出して、尋問しようとしたのである。ところが牢獄は、もぬけの殻で使徒たちはいなかった。彼らは宮で人々に命の言葉を大胆に語っていたのである。大祭司たちは、ペテロたちを連れてきて、議会の真ん中に立たせて尋問をした。これに答えて、ペテロと使徒たちは、「人間に従うよりは、神に従うべきである」と答えたのである。(伊藤)
「あの人たちから手を引いて」5:33〜42 2011年11月13日
激しい怒りのあまり使徒たちを殺そうとした人々を思いとどまらせたのはパリサイ人で律法学者のガマリエルでした。ガマリエルは使徒たちを一時議会の外に出し、人々に二つの事例を示しました。二つとも勢いづいて盛んになったが自滅したというものでした。ガマリエルは「あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら…諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」(38、39節)。彼はすべてをみ手に治める神を畏れこう言ったのです。使徒たちは聖霊に導かれキリストを伝え迫害に会うことを主の苦しみに与る光栄だと、喜びに満たされました。(市川)
「七人の人を立てて」6:1〜7 2011年11月20日
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて」(1節)様々な対応が必要となりました。外国に離散していたユダヤ人すなわちヘレニストがユダヤに帰国し主を信じ教会に加えられました。彼らはギリシャ語を話すので母国語のヘブル語に対応しきれず支障をきたしていました。やもめとは伴侶をなくした婦人です。心細い立場の人々に日々の配給が滞ったのでした。これを発端に、実際的な対応と助けのために使徒たちは七人の人を立て働きを委ねました。「兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ」(3節)、使徒たちは「もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」(4節)とあります。「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」(7節)。主は使徒たちの対応を用い主の働きは進展しました。(市川)
「信徒伝道」6:8〜15 2011年11月27日
使徒行伝6章の前半には、教会の中に、「ギリシャ語を使うユダヤ人」からの苦情が起こってきた時、7人の新しい役員が選ばれた。そのために使徒たちが「祈りと御言の奉仕」に専念し、教会は本来の目的を遂行していく事ができ、いかに進展していったかを記している。後半には、選ばれた7人の役員のうち最初に記されているステパノがどのような伝道、証をしていったかについて記している。8章には、もう一人の役員ピリポの伝道についても記している。つまり著者のルカは使徒でない信徒の方々が、いかに聖霊に満たされて伝道していったか、ということを伝えているのである。私たちはこの使徒行伝6章8節から8章までを通して、クリスチャン一人一人が熱心に伝道していたことを教えられ、伝道することは全てのクリスチャンの責任なのだということに気づかされる。(伊藤)
「ステパノの説教、族長時代」7:1〜16 2011年12月4日
ステパノは、弁明する機会を大祭司から与えられると、説教学の教科書ともなるような名説教をした。ステパノは弁明を三つにわけて、それに対する論証をしている。それは神に逆らっているということと、モーセとその律法に逆らっているということと、聖所(神殿)を打ち壊すということである。そこでステパノはこの三点について論証している。まず、神がどういうお方であるかということについて、次に、モーセとその律法について、そして最後には、聖所(神殿)についてである。2節から16節は、この三つの区分の中の第一の区分であって、イスラエルの歴史においては、族長たちについてのところである。ステパノは、まず「神」はどういうお方であり、私たちはこのお方に対して、どのように従わなければならないかという論証である。それをアブラハムから始まる彼らの民族の歴史を述べて弁明したのである。(伊藤)
「ほとばしり出た聖書の教え」7:17〜29 2011年12月11日
ステパノはめざましい奇跡としるしを行っていました。ステパノが知恵と御霊とで語っていたので、彼と議論した人々は対抗できず人々をそそのかして「モーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」(11節)と言わせ告発しました。議会に立たされたステパノの長い弁明が続きます。ステパノは「信仰と聖霊とに満ちた人」(6章5節)でした。糾弾のなかステパノの口からほとばしり出たのは聖書の教えでした。アブラハム以来のイスラエルの歴史を、聖書の記述どおり語り続けました。ステパノが信仰と聖霊に満たされていた理由のひとつは彼の心も思いも聖書のみ言葉に満たされていたからでしょう。彼は神様を畏れ敬うことを知っていました。信仰が豊かに培われ、み言葉に従い聖霊に満たされ、彼によって主の御名が崇められたのです。(市川)
「生ける神の言葉と民の偶像礼拝」7:30〜43 2011年12月18日
神の召しに信仰によって応答したアブラハムからユダヤ人の歴史が始まることは、どの立場のユダヤ人にも共通した考えで、ステパノはアブラハムから始めてイスラエルの歴史を語りました。その歴史は、神が導いておられ神の約束の実現であることを明示しました。神はモーセを召しエジプトからイスラエルを救い出すためにお用いになりました。イスラエルが神の民として確立されるために、神はシナイ山において「生ける神の言葉」(38節)をお与えになりました。しかし、彼らはエジプトの生活を慕いモーセがシナイ山にいる間、麓では「これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」(出エジプト記32章4節)と言って金の子牛を拝む驚くべき偶像礼拝を行い、さらに天体礼拝に走りました。イスラエルの国が滅びる原因、偶像礼拝は荒野の時代にまで遡るのです。神の最も恐ろしい裁きは、彼らのなすがままに放置なさることです。(市川)
「神殿への誤った理解と律法を守らない民」7:44〜53 2012年1月8日
神はイスラエルの民を神の民として確立するため、モーセをとおして神の言葉、十戒を与え、さらに幕屋の建設を命じました。幕屋は折りたたみ式のテントでした。幕屋について「その所でわたしはあなたに会い、…イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。」(出エジプト記25章22節)とあります。神がイスラエルに語ってくださる、民は神のみ声に聴き従う、これが神の民です。カナンに定住し、のちにダビデに神殿建設の志が与えられましたが充分な建材を用意し息子ソロモンが竣工しました。しかし次第に神殿があれば神の守りがあるという誤った平安に陥りました。神は天地万物をお造りになった偉大な方ですから神殿にお住まいにはなりません。神殿への誤った理解とともに、神が遣わした預言者を殺し「正しい方」キリストを殺すに至ったのは神の言葉である律法を守らなかった結果だと、ステパノは指摘しました。(市川)
「ステパノの殉教」7:54〜60 2012年1月15日
ステパノはイスラエルの歴史に主なる神様が深くかかわっておられること、幕屋、のちの神殿も、律法も神のみ旨のうちに与えられたこと、しかし、神のみ言葉に逆らって歩んできたイスラエルの人々の姿を語り、しかも「正しい人」キリストを死に至らせたと指摘しました。彼らはこれらの指摘に耐えられず、ステパノさえも死に至らせました。「心のそこから激しく怒り…歯ぎしりをした」(54節)とあるように人々は怒りをつのらせ、いっせいに殺到しステパノを市外に引き出し石で打ちました。ステパノは聖霊に満たされ、彼らの激しい憤りを受けながら、神の栄光のうちに立っておられる主のみ姿を仰ぎ見ていました。キリストの十字架上のとりなしの祈りと同様の祈りが彼の最後の言葉でした。人々とステパノの姿は闇と光のように対照的です。サウロという若者の足元に人々が上着を置いた(58節)、この若者はのちに救われる使徒パウロでした。(市川)
「初代教会に対する最初の大迫害」8:1〜13 2012年1月22日
キリスト教会最初の殉教者ステパノの死を契機として、初代教会に対する大迫害が起こって行きました。ステパノの神殿批判等は、ユダヤ教の伝統に対する破壊的な挑戦と受け取られていきました。ですから、サウロ(のちのパウロ)はステパノを殺す場に立会い、彼を殺すことに賛成したのです。しかしサウロは、ステパノが語った説教や最後の祈りを聞いて、胸を刺される思いがしていたのです。にもかかわらず、サウロは強情にも狂った者のように、クリスチャンたちを迫害していきました。なぜなら、ユダヤ教によれば木にかけられた、すなわち十字架に付けられ殺されたイエス様は神様に呪われるべき者であるはずだったのです。そのイエス様を、神様が主とし、墓から甦らせたと宣べ伝えるクリスチャンたちを赦しがたい連中だとサウロは考えていたのです。こうして初代教会への最初の大迫害が始まったのです。(伊藤)
「賜物は金で買えない」8:14〜25 2012年1月29日
政治家の贈収賄事件、保険金殺人事件、サラ金問題など金銭にかかわる問題は昔からあとをたたない。ここでは、魔術師シモンが「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と使徒たちのところへ金をもってきて頼んだことが記されている。当然のことながらペテロは魔術師シモンを厳しく叱責し、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか」と言い、「悪事」を悔い改めて主に祈るように勧めたのである。ペテロはこの「悪事」をしでかしたのは、単純な間違いからではなく、「おまえの心が神の前に正しくないからである」と言っているのだ。エルサレム教会にもたらされた凄まじい迫害によって、サマリヤ地方では、散らされた人々の宣教によって、大きな喜びがもたらされた。けれどもその中に、このような形でサタンも忍び込んできたのである。(伊藤)
「手びきをしてくれなければ」8:26〜40 2012年2月5日
主のみ使はピリポをエルサレムから南西方面、ガザに至る道へ向かうように導かれました。エチオピヤの女王カンダケの高官のエチオピヤ人が礼拝のためにエルサレムにやって来た帰り道でした。彼は馬車に乗りながらイザヤ書を読んでいたのです。御霊に促されてピリポは馬車に駆け寄りました。「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」。高官は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」とピリポを馬車に招きました。読んでいたのは、イエス様の十字架の預言の箇所でした。羊が屠殺場に引き出されるように、イエス様は黙して十字架にかかって死なれました。ピリポは救い主イエス様と十字架の死の意味を語りました。目の前の水場で洗礼を授けました。ピリポのような導き手がだれにでも必要です。ピリポは御霊によって導かれ従い、高官は救われました。(市川)
「なぜわたしを迫害するのか」9:1〜9 2012年2月12日
サウロはユダヤ名、のちのパウロはローマ市民としての名です。迫害下、主を信じる人々はエルサレムをあとに逃げ延びて行きました。サウロは、脅迫と殺害の息をはずませながら大祭司のもとへ行きダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めました。彼らをエルサレムに引いて来る権限を受けるためでした。ダマスコはエルサレムから250キロ以上北、シリヤの中心都市です。途中突然、天から光がさしてサウロをめぐり照らし彼は倒れ「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」という声を聞きました。主を信じる人々を迫害していましたが主を迫害するに等しいことだったのです。「とげのあるむちをければ、傷を負うだけである」(使徒行伝26:14)という主の言葉もサウロの心に響いていました。主を迫害すればするほどサウロの傷が深くなるのです。彼は視力を失い何も口にせず、三日間主のことばを思い巡らし続けたのです。(市川)
「回心の援助者アナニヤ」9:10〜19a 2012年2月19日
サウロ(後のパウロ)は、ダマスコ途上で復活の主キリストとの決定的な出会いを体験しました。彼はこのダマスコ途上での体験によって、霊的生命の出発点は律法ではなく、キリストの十字架であることを知ったのです。ちょうど同じ頃、主イエス様はもう一方で、ダマスコ在住の忠実なクリスチャンのアナニヤという弟子に現れ、ご自分のみこころを示されていたのです。パウロがコロサイの教会に送った手紙の中に「自らは(キリスト)、そのからだなる教会のかしらである」(コロサイ1章18節)とあります。ですから救われたクリスチャンが、ある人は足に、ある人は手に、ある人は口、と主のために労しているのが教会の姿だといえます。教会にはいろいろな方がお出でになります。そうした方々に対して、アナニヤのように回心へと導く働きに携わるのは尊いことです。(伊藤)
「初代教会の進展への気運」9:19b〜31 2012年2月26日
サウロは回心後、何をしたのでしょうか。そのことが19節から30節に記されています。彼は直ちに、諸会堂において回心の経験を語り、「このイエスこそ神の子であると説きはじめた」のです。この後、サウロはアラビヤの砂漠に退き、瞑想、訓練のために三年間を過ごし、再びダマスコに戻ってきました。エルサレムでのサウロの行動を知っているユダヤ人たちは、容易に、彼の回心の真実性を信じませんでした。ステパノ殺害の首謀者サウロがそのように急変するとは信じにくかったからです。しかし神様は、バルナバを用いて、サウロをクリスチャンの仲間に入れてくださったのです。こうして教会は、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」のです。(伊藤)
「アイネヤとタビタ」9:32〜42 2012年3月4日
ペテロは方々でイエス様を伝え、ルダにやってきました。ここは地中海沿岸のヨッパ(現在のテル・アビブ)から南東に20キロほどの町です。ここで主はペテロをとおして、長く中風だったアイネヤをいやしてくださいました。多くの人々が信仰を持ちました。サロンはギリシャ語読みで、ヘブル語ではシャロン。この地方に広がるシャロンの平原に関わる言葉の町でしょうか。ヨッパに住んでいたタビタ。これはアラム語名。ドルカスはギリシャ語名です。小さなカモシカの意味だそうです。親切な働きと施しで多くの人たちから慕われていました。彼女が亡くなりルダにいたペテロが呼ばれ、主はペテロをとおしてタビタを生きかえらせてくださいました。多くの人々が主を信じました。ギリシャ語名がたびたび出てきます。ギリシャ語圏の拡大によって福音が速やかに伝播していったのも主の摂理でした。(市川)
「百卒長コルネリオ」10:1〜16 2012年3月11日
ペテロはヨッパに滞在していました。ヨッパから北へ40キロあまり行った地中海沿岸の町カイザリヤ。かつてヘロデ大王はローマ皇帝カイザル・アウグストの名にちなんでこの名をつけ大々的に改修工事をして港町、一大都市にしました。政治的軍事的に重要な都市でパレスチナのローマ総督府となりました。「イタリヤ隊」はローマ市民からなる補助部隊で紀元1世紀にシリヤに駐留していたことが碑文で確認されているそうです。ローマ駐留部隊の百卒長コルネリオは「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている」(22節)人で施しと祈りをし、全家族とともに敬虔な信仰生活を送っていました。幻でみ声を聞き、ペテロを招きました。一方ペテロは祈りのときに夢心地で、三度も同じ光景を見ました。神様が異邦人への伝道の道を開こうとなさる重要な場面でした。(市川)
「コルネリオの回心のいきさつ」10:17〜33 2012年3月18日
ペテロがいま見た幻の意味を考えていると、神様はコルネリオからの使いを送って、その意味を悟らせました。ペテロはこの時はっきりと、神様は、ユダヤ人であろうと外国人であろうと、神のみもとに招いておられることを知ったのです。あの人は汚れている、駄目な人間だなどと決めつけることは、神様の御旨を知らない愚かな人間であるだけでなく、神様に逆らう結果となることを悟ったのです。そこでペテロは、コルネリオとその家族の人たちに「神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。」(28節)と言い、また「神は人をかたよりみないかた」(34節)であるとはっきり述べたのです。(伊藤)
「コルネリオとその家族の受洗」10:34〜48 2012年3月25日
洗礼とは、イエス・キリストを信じた者がキリストのからだである教会に加わるため、キリストに対する信仰を目に見える形で表明する儀式です。使徒行伝10章34節以下には、ペテロが異邦人であるコルネリオ及びその他の人々に語った最初の福音の証と、説教が記されています。人間の克服しがたい罪の一つは偏見です。そこでペテロは開口一番「神は人をかたよりみないかた」と語り始めたのです。神様は何れの民族、いかなる人をも等しく愛されるお方です。ペテロはコルネリオと会う以前に、神様からの幻によってこのことを示されていました。ペテロの説教がまだ終わらないうちに、異邦人に聖霊がくだり、彼らは異言を話し、神様をさんびしたのです。人々は異邦人たちに聖霊の賜物が与えられたことを知って驚き、ペテロは彼らに洗礼を受けるように命じたのです。(伊藤)
「エルサレムにおいて」11:1〜18 2012年4月1日
カイザリヤにおいてコルネリオと家族たちに聖霊が注がれ異邦人への伝道の門が開かれたことが、使徒たちやユダヤの信仰者たちにも伝えられました。ペテロがエルサレムにやって来た折、割礼を重んじる人々が質問しました。ペテロはいきさつを順序正しく説明しました。ヨッパで祈っていたときのこと、コルネリオが遣わした人々がカイザリヤからちょうどやって来たこと。このときペテロは「御霊がわたしに、ためらわずに彼らと共に行けと言ったので」(12節)出かけて行ったこと、共に行った六人の兄弟たちも今、パウロと共にいました。コルネリオの家に入ると、御使が現れてペテロを招きなさいとつげた次第を話してくれたこと、彼らにも聖霊がくだったこと。神のみわざが明らかにされ、「神は、異邦人にも…悔改めをお与えになったのだ」と人々は神をさんびするに至ったのです。(市川)
「アンテオケ教会の誕生の経緯」11:19〜30 2012年4月15日
「迫害、これは伝道をさかんにして行くための良薬である」と言った人がいます。確かに、ステパノのことで起こった物凄い迫害のために散らされて行った人々が、みことばを宣べ伝えながら巡り歩いた結果、サマリヤ地方に福音が増え広がり、救われる人々が起こされていきました。また、ピリポの伝道による一人のエチオピア人高官の回心もありました。一方、カイザリヤにおいては、使徒ペテロの伝道を通して、異邦人コルネリオとその家族が回心しました。その結果、異邦人伝道は、このアンテオケの町において全くの新しい規模における集団的回心へと発展していきました。そして、アンテオケで救われた人々が教会の有力なメンバーとして伝道と奉仕に励んでいったのです。この教会が、異邦人の世界で最初のアンテオケ教会なのです。アンテオケ教会はわずかの間に急成長しました。その祝福のカギは、宣教の情熱と愛のわざだと言えます。(伊藤)
「使徒ペテロの救出」12:1〜19 2012年4月22日
エルサレム教会は、使徒の中から初の殉教者を出し、その上今最高指導者であるペテロも投獄され、そのいのちは時間の問題という場面を迎えて、最大の危機に瀕していました。しかし教会には強力な1つの方法が残されていました。それは祈りです。5に「教会では、彼のために熱心な祈りが神にささげられた」とあるとおりです。日本語の聖書にはありませんが、原文では「教会は」の前に「しかし」という逆説の接続詞が使われています。ペテロは権力者に捕らえられて閉じ込められているので教会は手も足も出ません。普通なら、この辺でもうダメだとあきらめてしまうところです。しかし教会には「祈り」という武器が与えられ、使徒ペテロは彼らの祈りによって御使に救出されたのです。(伊藤)
「ヘロデの死」12:20〜25 2012年4月29日
ここに記されたヘロデは、イエス様がお生まれになった時代にユダヤを治めていたヘロデ王の孫で、ヘロデ・アグリッパ1世です。ツロもシドンも、フェニキヤ地方、地中海沿岸の港町です。漁業、貿易ともに盛んでした。北王国イスラエルをアハブ王が治めた時代がありました。シドンはアハブ王の妻イゼベルの出身地です。ツロ、シドンに敵意をもつヘロデのもとを訪れ、代表たち一団は取り入って和解を求めました。食料を依存していたからです。ヘロデの演説に「これは神の声だ、人間の声ではない」(22節)と彼らが叫び続けるなか、「たちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。」(23節)とあります。絶大な権力を持った王は一瞬にして息絶え、牢に捕われたペテロは真に全権威をお持ちの主なる神様に救出されたのです。(市川)
「聖霊の導き、アンテオケ教会からの派遣」13:1〜12 2012年5月6日
アンテオケ教会にはバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロまたの名をパウロなど預言者や教師がいました。領主ヘロデとはヘロデ王の息子ヘロデ・アンテパスで、ガリラヤとヨルダン川の東のペレヤの領主でした。一同、主に礼拝をささげ断食をしていると「聖霊が『さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい』と告げた。」(2節)ので、聖霊に導かれて二人を宣教に出発させました。地中海沿岸の港セルキヤから出帆し西のクプロ島に向かいました。バルナバの故郷でした。ひとりの人が救われようとするとき、これを妨げようとする力も働きますが、聖霊のお働きのうちにセルギオ・パウロという人が救われました。彼は地方総督でした。賢明な人で福音に興味を示し、パウロの奇跡を見て「主の教にすっかり驚き、そして信じた。」(12節)のでした。(市川)
「前進する宣教の働き」13:13〜25 2012年5月13日
クプロ島では素晴らしい伝道の成果を上げることができました。いよいよ第一次伝道旅行の本拠地ともいうべき小アジアにきました。ここからはパウロがリ−ダ−シップをとった様です。どんないきさつかわかりませんが、ヨハネ(マルコによる福音書の著者マルコのことです)はここで退てしまいました。様々な困難を経てピシデヤのアンテオケにきたパウロは、まず礼拝を守るために会堂を捜しました。休んでも当然のパウロの状況でしたが彼の心はキリストへの愛で燃えていました。奨励の言葉を述べるように依頼されたパウロが、歴史をひもといて神の救いの御計画を述べています。ここで語られているメッセ−ジの中心は「イエス・キリストによる罪のゆるし」です。この罪のゆるしの福音は、いつの時代でも、どこの国でも、個人的に罪を告白しイエスキリストを救い主と信じている者へ与えられる、神の真実な愛の証にほかならないのです。(伊藤)
「救いの中心点」13:26〜41 2012年5月20日
イスラエルの歴史を回顧し、そこに示された神の恵みについて語ったパウロは、次に「救いの言葉」について語ります。この救いの言葉は、救い主イエス・キリストに関することですが、そのイエス・キリストを、エルサレムに住む人々やその指導者たちがどのように扱ったかということです。せっかく神様がイスラエルに救い主をお送りになったのに、「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに」(27節)、十字架にかけて殺してしまい、墓に葬ったのです。「しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせ」(30節)、それを目撃した証人も大勢いるのです。要するにここでは福音の要約を語っているのです。さらにパウロは、これらすべてのことを、神様が「約束された」こととして、詩篇2篇、イザヤ55章、詩篇16篇等を引用しながら論証したのです。これらはイスラエルへの約束が、イエス様において完成したことを示すものなのです。(伊藤)
「異邦人たちに」13:42〜52 2012年5月27日
パウロとバルナバは、ピシデアのアンテオケで安息日に会堂に入り、パウロが説教しました。「神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救主イエスをイスラエルに送られた…」(13章23節)。人々は次の安息日にも同じ話をしてほしいとしきりに願い、集会が終わっても大勢のユダヤ人や信心深い改宗者たちがついてきました。次の安息日には全市をあげて神の言を聞きに集まってきました。ねたましく思ったユダヤ人たちに「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。」(46節)と語り、ふたりを迫害した人々をあとに、イコニオムに向かいました。主を受け入れた弟子たちは喜びと聖霊に満たされていました。(市川)
「イコニオムで、ルステラで」14:1〜18 2012年6月3日
パウロとバルナバは、イコニオムでも会堂で語り、ユダヤ人やギリシャ人が大勢信じました。長い期間ここで大胆に主のことを語りました。信じなかったユダヤ人たちの側につく人々とのあいだで町は二派に別れるほど影響が広がり、反対派に石で打たれそうになったふたりは、ルカオニヤの町々、ルステラ、デルベなど周辺の町々に逃れながら福音を伝えました。40キロほど南のルステラでは、生まれながら足のきかない人がパウロの言葉を聞いていました。「パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め」(9節)、パウロの言葉とともに彼は立ち上がり躍り上がって歩き出したのです。人々はふたりを、ギリシャの神々、ゼウスとヘルメスと呼び、ゼウス神殿の祭司がふたりに犠牲をささげようと雄牛数頭と花輪を持って来る事態になりました。ふたりは驚き叫んで、天地を造られた真の神様について語り、犠牲をささげるのを思いとどまらせたのです。(市川)
「神が彼らと共にいて」14:19〜28 2012年6月10日
今日は、第一次伝道旅行の終わりの部分です。つまり、パウロとバルナバがシリヤのアンテオケ教会から神の祝福を受けて送り出され、クプロ島に渡り、小アジア、今日のトルコに渡って、その内陸部のいくつかの町々で伝道活動をした後、出発地に戻って来たという締めくくりの部分です。小アジアに渡ってから伝道された町は、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベです。最後のデルベの町からシリヤのアンテオケに帰るには、陸路で山を越え、東へ向かった方がずっと近いことがわかります。またその道の途中には、パウロの故郷であるキリキヤ州のタルソの町があります。ところが、パウロたちは、来た道を引き返して、ルステラ、イコニオム、ピシデヤのアンテオケの諸教会を訪ねて、彼らの心を力づけ、励ましていったのです。その後、ペルガに出て、アタリヤの港からアンテオケに帰って行きました。(伊藤)
「エルサレム会議」15:1〜11 2012年6月17日
使徒行伝15章は、全体の分水嶺にあたる所です。このあたりからエルサレム教会の記事は薄らぎ、アンテオケの教会が中心となり、キリスト教は、ユダヤ世界から、次第に、ギリシャ、ローマ世界にその中心を移行していく姿が見られます。この章で重要な出来事は、エルサレム会議と呼ばれる教会会議が開かれたことです。これは四世紀以後に開かれた世界教会会議の発端をなすものです。この会議の中心主題は、異邦人もユダヤ人と等しく、ただイエス・キリストを救い主と信じるだけで救われるかどうかという問題です。それはユダヤ人クリスチャンの中には、異邦人もユダヤ人と等しく、旧約における律法を守り、割礼を受けなければ救われないと主張する人がいたからです。そして、この問題はキリスト教がユダヤ民族の宗教の一派として進むか、世界的宗教として進むかの分岐点をなす重要な問題だったのです。(伊藤)
「ユダヤ人も異邦人も信仰による救い」15:12〜29 2012年6月24日
ユダヤ人以外の人々もモーセの律法に従って割礼を受けなければ救われない、という主張に激しい論争があり、ペテロの言葉に続き、パウロとバルナバは第一回伝道旅行で異邦人に神様が行われた数々のしるしと奇跡を語りました。続いてヤコブが「…わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。」(17節)という神様のご計画を示し「異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。」(19節)と語りました。会議の結論が出ました。聖霊の導きのうちに決議したこと、律法の行いによるのではなく神の恵みによりキリストを信じる信仰によって救われること、救いにおいてユダヤ人と異邦人の区別はないことを明確に確認する決議でした。ユダヤ人には古い掟からの解放、異邦人には区別のない救い、双方にとってすばらしい教え、福音の確認でした。この結論をパウロ、バルナバ、代表者に託し、異邦人が多いアンテオケ教会に遣わし、諸教会にも知らせることにしたのです。 (市川)
「二方面の福音宣教へ」15:30〜41 2012年7月1日
エルサレム教会から遣わされた四名は北上しアンテオケ教会に着くと書面を渡し決議を伝えました。「人々はそれを読んで、その勧めの言葉をよろこんだ。」のです(31節)。預言者だったユダとシラスは、語るべき言葉を神から与えられ伝える、という賜物を用いて彼らを力づけました。さて、パウロは前回福音宣教した地方を再訪して兄弟たちに会い信仰を励ますため、再び伝道の旅に出発したいと、バルナバに告げますと、バルナバは、いとこのマルコを前回同様連れて行くつもりでした。パウロは、前回途中で帰ってしまったマルコを今回は連れて行かないと、激論が起こり、結局バルナバはマルコを伴ってクプロ島の伝道へ、パウロはシラスと共にシリヤ、キリキヤという前回の方面へ陸路で出かけることになりアンテオケ教会の人々の祈りのうちに送り出されました。 (市川)
「二つの発見」16:1〜10 2012年7月8日
16章の前半の記事で、パウロは二つの発見をしている。一つは有力な協力者テモテを見出したことであり、もう一つは新天地ヨーロッパの宣教地ピリピに渡ったことである。さきに、パウロの第一次伝道旅行に際し、小アジアのルステラにおいて救われた人々の中に、青年テモテの一家があった。父はギリシャ人であったが、祖母ロイス、母ユニケは敬虔な信者であって、一家こぞってイエス様を救い主と信じたのである。パウロは、マルコに代わる協力者としてシラスと共にこのテモテに目を留め、その地方のユダヤ人につまずきを与えないためにテモテに割礼を施した。小アジアの伝道は、聖霊に禁じられて進展しなかった。そんな時、パウロは夢を見た。マケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」という懇願の夢だった。まさにヨーロッパ伝道への招きであった。そしてパウロは、この幻(ビジョン)こそ、聖霊様による導きであると確信したのである。(伊藤)
「ルデヤと家族の救い」16:11〜15 2012年7月15日
使徒行伝の著者ルカは、16章11節以降で、ヨーロッパ伝道の端緒を開いた「ピリピ伝道」において、特に回心した三人のことを述べている。パウロ一行が最初に訪れた所は、マケドニヤのこの地方第一の町で、その当時の世界を治めていた強大なローマ帝国の殖民都市であったピリピある。パウロは全世界を福音で満たすために、当時の世界の中心地であったローマを念頭に伝道の戦略を立てていた。ともあれパウロの一行は、いつもしているように安息日にユダヤ人の会堂にいこうとした。しかしピリピの町には会堂がなかった。ユダヤ人は、会堂のない町においては、川のほとりなどに祈り場をもうけていた。パウロは祈り場があると思われるところに出かけ、集まっていた小数の婦人たちに聖書のお話をした。すると、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人とその家族が信じて洗礼を受けたのである。(伊藤)
「あなたもあなたの家族も救われます」16:16〜40 2012年7月22日
パウロとシラスは小アジア、今のトルコの地方からヨーロッパ大陸へと福音宣教の旅を進めました。これは聖霊の導きによりました。マケドニア地方のピリピにおいて、占いの霊につかれ奴隷のように使われていた女の人を癒すと正気に戻り、商売ができなくなった主人たちは、パウロたちを捕え、役人に引き渡すため広場に引きずっていきました。鞭打たれ投獄され足かせをかけられたふたりは牢獄で神に祈り賛美を歌い続けました。真夜中ごろ大地震が起こり扉は開き囚人の鎖も解けてしまいました。囚人を逃がしたら獄吏の命はありません。自害しかけた彼に、パウロは自害してはいけない、皆ここにいる、と告げました。獄吏は「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と尋ねるとふたりが「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(31節)と告げ、家族一同に神の言を語りました。その晩彼も家族も共に救われ洗礼を受けました。(市川)
「天下をかき回してきたこの人たち」17:1〜9 2012年7月29日
パウロたちは、徒歩でピリピから南西へ53キロのアムピポリスを通り、南西へ45キロのアポロニヤ、さらに西へ60キロ行きテサロニケに到着しました。この道はエグナテイア街道で、バルカン半島を横断してエーゲ海とアドリア海を結びローマの軍隊が迅速に移動するための主要道路でした。商業、旅行者にとっても盛んに利用されましたが、主の摂理のうちにパウロたちは福音を携えて旅をしました。ユダヤ人の街道で三つの安息日にわたり、聖書に基づいて語り、論証し、「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを、説明もし論証もした。」(3節)結果、多数の人々が従いましたが、ここでもユダヤ人たちは「天下をかき回してきたこの人たち」(6節)と言って訴えたのです。(市川)
「ベレヤ伝道」17:10〜15 2012年8月5日
テサロニケ伝道は、多くの信心深いギリシャ人や貴婦人たちが与えられた反面、迫害も激しくありました。そのためパウロとシラスたちは、兄弟たちの助けにより、夜の内にベレヤに行かざるを得ませんでした。ここベレヤは、ピリピからアムピポリス、アポロニヤ、テサロニケを通っているエグナチア街道から南にそれて、アテネに下る道沿いにあります。ベレヤはテサロニケから80キロ西にあった活気のある町で、ユダヤ人も大勢住んでいました。ここにも会堂があったので、二人はベレヤに到着すると、すぐさま会堂に入り、いつものように「聖書に基づいて」イエスがキリストであるこを説き明かしました。すると、ベレヤのユダヤ人たちの福音に対する反応は、テサロニケのユダヤ人たちより「素直で」心から教えを受け入れたのです。(伊藤)
「アテネ伝道」 使徒行伝17:16〜34 2012年8月12日
ベレヤ伝道の思わぬ妨害から、パウロはベレヤのクリスチャンに案内されて、アテネにやって来ました。パウロは、シラスやテモテが来るのを待っている間、アテネ市内を見物しておりました。アテネの栄華はすでに昔の面影はなく、政治上、商業上の中心もコリントに移っていたのです。しかし、文化的にはアテネの栄光はまだ地に落ちておらず、やはり文化創造の担い手としての地位を保っていました。文化というものは、まことの神を拒む作用をすることが多く、アテネも例外ではなく、この文化の果ては、氾濫する偶像でした。パウロは観光客ではなく、伝道者でした。パウロは「市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じ」ました。そこには、人間の文化と称する不敬虔で罪深い姿を見たのです。人間の罪深さへの心からの憤りは、彼を伝道へと駆り立てずにはおきませんでした。(伊藤)
「恐れるな、語り続けよ」18:1〜17 2012年8月19日
パウロはアテネから西に約70キロのコリントへ向かい、生活のため天幕造りの同業者アクラの家で働きました。アクラの出身地は黒海の南のポントで、今、この夫妻はクラウデオ帝のユダヤ人迫害でイタリヤから逃れて来ていました。この追放令は紀元49年か50年のことだそうです。パウロは安息日ごとに会堂で「イエスがキリストであること」を伝えましたが、ユダヤ人たちは律法に背く教えだと反抗しました。パウロは、ユダヤ人には責任を果たした、異邦人の方に行く、と宣言しました。困難の中で信じる人々が与えられ、幻のうちに主は「恐れるな、語り続けよ、…」(9節)と語られ、パウロは1年6ケ月の間、神の言葉を教え続けました。ユダヤ人の訴訟に、アカヤ総督のガイオはユダヤ人内部の事だ、と閉廷しました。この結果支障なく、ローマ帝国内で福音宣教の門戸が開かれ続けることになりました。 (市川)
「イエスがキリストであることを」18:18〜28 2012年8月26日
パウロはコリントを去りシリヤへ向け出帆しました。プリスキラとアクラも同行しました。途中エペソの会堂でユダヤ人たちに語り、カイザリヤに上陸し、エルサレム、アンテオケに戻りました。約3年に及ぶ伝道旅行が終わりました。23節以降には第3回伝道旅行の始まりが記されています。エペソに雄弁なユダヤ人アポロがやって来て会堂で大胆にイエス様について語りました。エペソに留まっていてこれを聞いたプリスキラとアクラは親切に招き入れ、神の道、信仰について語りました。アポロは、ヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。主イエス様の御名による洗礼や聖霊について知らなかったようです。プリスキラとアクラによって正しい教えを受けることができアポロはアカヤに渡り「イエスがキリストであること」を聖書に基づいて語り続けました。兄弟たちは親切にアポロのために手紙を書き送りました。(市川)
「エペソ伝道」19:1〜7 2012年9月2日
第二次伝道旅行の帰途、パウロはエペソに立ち寄った時、人々から留まって教えてくれるように求められながら、それが神のみこころではありませんでしたので、立ち去りました。しかし、第三次伝道旅行では、最重要拠点としてエペソに滞在することになりました。エペソ伝道は、ただ第三次伝道旅行中最大の伝道だっただけではなく、使徒行伝の書き方からすると、パウロの最後の異邦人伝道になっています。それで20章には、わざわざエペソ教会長老たちとのお別れ説教まで記されていますので、パウロ伝道の総まとめなのです。アテネは文化遺産で食いつないでいた町でした。コリントは、商業で富み栄えている都でした。それに対して、エペソは、世界の七不思議の一つに数えられるアルテミス女神の神殿で有名な、宗教の総本山の町です。ここでパウロは腰を据えて3年間伝道するのです。(伊藤)
「エペソ教会の驚くべき進展の秘訣」19:8〜20 2012年9月9日
ここには、エペソの町での福音の急速な進展の模様が記録されています。わずか、2年3ケ月間の伝道によって、「アジヤ(州)に住んでいる者は、ユダヤ人もギリシャ人も皆、主の言葉を聞いた」(10節)のです。多分この時、アジヤにある諸教会、コロサイ教会やラオデキヤ教会やヒエラポリス教会などが誕生したのだと思います。また黙示録にある「エペソ、ラオデキヤを含むアジヤにある七つの教会」も、この時に芽生えたに違いありません。このような出来事は、特に日本に福音が伝えられて150年余の歴史を数えながら現況と照らし合わせて考える時、驚かされずにはいられません。どうして2年間の間に、これほど主の言葉は広がったのでしょうか。このエペソ教会の驚くべき進展の秘訣はどこにあったのかを学んで、私たちが今も生きて働いておられる同じ主に信頼し、さらに期待をもって歩んでいきたい思います。(伊藤)
「アルテミス神殿の町エペソ」19:21〜41 2012年9月16日
アンテオケからエペソまで陸路でおよそ1000キロ。パウロはさらにヨーロッパ大陸のマケドニヤ、アカヤを訪れてのち、エルサレムへ行こうと決心しました。これらの地方は前回伝道した地方で、パウロは心にかけていたことでしょう。エルサレムへ行くことは聖霊の導きと確信していました。さらに大都市ローマでの福音宣教はパウロの念願でした。エペソのアルテミス神殿のお膝元で、この偶像礼拝に関する商売を手がけていた人々が中心になって、商売の邪魔だとパウロたちを槍玉に挙げました。「あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、…アジヤ全体にわたって、…誤らせた。…」(26節)と。群衆も巻き込んで町中が大混乱に陥りました。最後に市の書記役が、必要なら正式な裁判などに訴えるように、これ以上混乱を続ければ治安を乱す罪に問われる、と言い含め群衆を解散させました。(市川)
「トロアスで週の初めの日」20:1〜12 2012年9月23日
エペソでの大騒動のあと、パウロは、マケドニヤをめぐり、ギリシャに着きコリントの町で三ヶ月過ごしました。この時ローマ人への手紙を書き「しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである。」(ローマ人への手紙15:25、26)と、エルサレム教会に献金を届ける予定でした。冬が過ぎ航海が可能になりシリヤへ船出する矢先ユダヤ人の陰謀のためマケドニヤを経由してピリピから船でトロアスに向かいました。「わたしたち」とあるようにルカも同行しています(5節)。聖餐式に集まり、翌日出発のため夜中まで話が続きました。若者ユテコは眠気がさし三階の窓から落下し死んでしまいました。医者ルカが確認しています。パウロは身をかがめ抱き上げ「騒ぐことはない。まだ命がある。」(10節)、そのとおり生きかえり人々は慰められました。(市川)
「パウロの告別説教」20:13〜38 2012年9月30日
この20章を見ると、パウロはいよいよ、その生涯の終わりの部分に入っていくことがわかります。13節からは、ミレトまでの航海の様子が17節までかなり丁寧に書かれています。これはルカがコリントには同行していなかったのに対して、このトロアスからミレトまでのコースには同行していたからでしょう。それに、問題の解決したコリント教会のことは、それほど詳しく書かれていません。それよりも、ルカにとっての最大の関心事は、パウロのミレトでの告別説教にあったようです。ここでなされた説教は、ミレトにエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、彼らの教会に慰めと励ましを語ります。これは、パウロがクリスチャン相手に語った説教の唯一の記録として、貴重なものです。しかもこの告別説教こそは、ただ単にエペソ教会の長老たちに対するものであるばかりか、彼の牧会の真髄ともいうべきものが余すところなく語り尽くされているのです。(伊藤)
「エルサレムへの旅」21:1〜16 2012年11月4日
パウロの一行はエルサレムへ向けて出帆したが、その途中のツロに上陸する。ツロには、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人たちがいた(使徒11章19節)。そこで彼らは弟子たちを見つけ出し、そこに7日間滞在した。ここにも弟子たちを訪問する牧会者パウロの姿を見ることが出来る。一行がツロに滞在した期間はわずかだったが、滞在期間が終わって、エルサレムへ向かう時には、弟子たちは妻や子どもも一緒に町はずれまで彼らを見送り、共に海岸にひざまずいて祈ったのである。それほど「信仰の交わりが生きて働く」ものとなっていた。預言の賜物をもつ弟子の一人や預言者アガボは、パウロのことを心配して、人間的な思いから、パウロがエルサレムに行かないように勧めた。しかしパウロは、はっきりした御霊の示しを受けていたので、主の目的を遂行するためにエルサレムへと進んでいった。(伊藤)
「ユダヤ人には、ユダヤ人のように」21:17〜40 2012年11月11日
「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。」(コリント第一9:20)。聖霊の示しのうちにエルサレム行きは緊迫し、パウロは主に従いとおす決心でした。エルサレム教会の人々は喜び迎えパウロの伝道報告を聞き主を崇めました。ユダヤ人で信仰を持った人々が数万人にも及ぶこと、彼らはなお律法に熱心であること、異邦人のあいだでのパウロの教えの様子を耳にして、長老たちはユダヤ人の信仰者への配慮として、律法を大切にしていることを示すようパウロに提案しました。パウロは承諾し七日間神殿できよめの期間を過ごし、その費用も引き受けたのです。アジヤから来たユダヤ人の誤解でパウロが神殿を汚した、と騒動になりパウロは殺されかけましたが、ローマ軍の千卒長が指揮し、兵卒にかつがれて救い出されました。 (市川)
「パウロのあかし」22:1〜29 2012年11月18日
パウロは同胞ユダヤ人にヘブル語で語りかけました。パウロ自身についてこう語りました。ガマリエル門下の律法に忠実熱心な、厳しい薫陶を受けた者で、同胞ユダヤ人のように神に熱心な者であったこと、主を信じる人々を迫害し投獄し死に至らせたこと、ダマスコ途上でイエス様のみ声を聞いたこと、強い光で目が見えなくなったこと、アナニヤによって目が開かれ、信じてバプテスマを受けたこと、異邦の民へつかわすと主のみ声を聞いたこと、などです。パウロの心は震えるようだったでしょう。知らなかったとはいえ自分の罪深さ、主の確かな導き、主の十字架の愛、そしてかつての自分のように神を求め律法に熱心な同胞ユダヤ人たちへの愛(ローマ人への手紙10:1〜4)。しかし、このときもユダヤ人たちはパウロに反発し、千卒長がパウロを保護しなければならないほどでした。パウロが生まれながらのローマ市民だったことも神様の尊い恵み、ご配慮でした。(市川)
「議会でのパウロの弁明」22:30〜23:11 2012年11月25日
パウロは、民衆の前で弁明する機会を与えられたのに続いて、次は議会において弁明することになりました。千卒長は、ローマの市民権を持つパウロの処置についてひとかたならず苦慮していました。彼の関心事はエルサレムの治安を守ることであって、ユダヤ人の宗教論争には興味がありませんでした。しかし治安を守るためにも、パウロに対するユダヤ人指導者の言い分を聞く必要がありました。そこで彼は祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロの鎖を解いて彼らの前に立たせたのです。議長は大祭司で、70人の議員から成り立っており、大祭司側につくサドカイ派の多数党と、律法学者たちの大半が所属するパリサイ派の強力な少数党とに勢力は二分されていました。こうしてパウロは、ユダヤ議会の真ん中に立って、議員たちの前で堂々と自分の生き様を証したのです。(伊藤)
「パウロに対する陰謀」23:12〜35 2012年12月2日
エルサレムでパウロを殺そうとしたユダヤ人の一部は、町の広場でもパウロをひどい目に遭わせる事ができませんでした。そこで、大祭司まで動かしてユダヤ議会で死刑にしようとしたのに、これも失敗してしまいました。しかし彼らは、それでも諦めることなく、執拗に次の陰謀をねり始めたのです。この陰謀を企てた者たちは、熱狂的でパウロを暗殺するまでは断食を続ける覚悟でした。しかし、その陰謀はパウロの甥によって密告され、千卒長はパウロ一人の護衛のために、慎重に十分な備えをしました。こうしてパウロはカイザリヤに護送されたのです。やがて、主は牢獄でパウロに「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかししなくてはならない」と語られたとおりに、ローマまでの道を切り開いてくださるのです。(伊藤)
「二年間の監禁」24:1〜27 2012年12月9日
大祭司アナニヤはカイザリヤに出かけパウロを訴えました。弁護人テルトロが論告し、パウロが答弁しました。「わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ…」(14節)。総督は裁判を延期し、百卒長に、パウロを監禁するように、しかし、寛大に取り扱い友人たちが世話をするのを止めないようにと命じました。ペリクスはユダヤ人の妻ドルシラを伴い、パウロを呼び出して話を聞きました。彼は不安を感じましたが、心を閉ざし主を求めることをしませんでした。ペリクスはユダヤ人の歓心を買おうと、二年もの間パウロを監禁したままにしポルキオ・フェストが就任するまで続きました。パウロにとって先が見えないときでしたが、およそ二十年にもおよぶ迫害と隣り合わせの伝道のあとゆっくりした時間が与えられたのでした。(市川)
「カイザルに上訴」25:1〜12 2012年12月16日
「これらの事があった後、パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした。そして言った、『わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない』」。(使徒行伝19:21)。ローマでの福音宣教は主の導きと確信し、パウロの念願でした。フェストは就任とともにエルサレムに行き、その際ユダヤ人たちはパウロをエルサレムに呼び出すよう願いました。途中で殺すつもりだったのです。フェストは監禁先のカイザリヤで訴えるように促し、彼らはカイザリヤに向かいました。翌日出廷したパウロに、フェストはエルサレムで裁判を受けるか問いましたが、パウロは「…わたしはカイザルに上訴します。」(11節)。フェストは「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くがよい。」(12節)。ローマ行きが決まりました。判決を控えた囚人として。 (市川)
「アグリッパ王の訪問」25:13〜27 2012年12月30日
ペリクスの後任としてポルキオ・フェストがユダヤの総督に着任しました。彼は、祭司長たちやユダヤ人の指導者たちからエルサレムでパウロの裁判を開くように要請されると、彼らにカイザリヤで裁判することが順当であることを告げてカイザリヤに戻ってきました。そしてカイザリヤに戻るとすぐ法廷を開き、エルサレムから来たユダヤ人たちの主張とパウロの弁明を聞いたのです。パウロは弁明の中で、ローマ皇帝カイザルに上訴しましたので、裁判は打ち切られ、フェストは結局この上訴を受け入れて彼をローマに護送するため正式な手続きをとろうとしています。パウロを護送する前に、アグリッパ王がフェストを表敬訪問にきました。この時にフェストは、アグリッパ王がユダヤの慣習をよく知っているので囚人パウロのことを話しました。彼はパウロに関心を抱いたので、早速パウロを引き出して彼の弁明を聞くことになりました。(伊藤)
「アグリッパ王の前で」26:1〜23 2013年1月6日
「わたしも、その人の言い分を聞いて見たい」(使徒行伝25:22)というアグリッパ王に、パウロは弁明しました。同胞ユダヤ人たちは主を知る前のパウロの生活ぶりをよく知っていました。今、彼らに訴えられているのは、パウロが、主を証しているからでした。かつて最も厳格なパリサイ派に従って生活していたこと、イエスの名に逆らって多くの聖徒を迫害し、祭司長たちの権限を受けてダマスコに向かったこと。途上で主の御声を聴いたこと。主は言われました。「わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。」と。(使徒行伝26:17、18)(市川)
「このような鎖は別ですが」26:24〜32 2013年1月13日
「わたしは天よりの啓示にそむかず、まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました。…わたしは今日に至るまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」(使徒行伝26:19,20,22,23)。フェストもアグリッパ王も心のうちには大きな戦いがあったでしょう。けれどパウロの勧めに従うことができませんでした。29節はパウロの心からの願いです。 (市川)
「ローマに向けて出航」27:1〜26 2013年1月20日
パウロは、イエス様のことをみんなに伝道したために捕えられ、裁判にかけられました。しかし、自分のしてきたことは神様のみこころにかなっていることであり、少しもやましいとは思っていませんでしたので、総督や王の前に立っても自信をもって弁明しました。カイザリヤに2年間幽閉された後、総督の交替を機にフェストに裁判をしてくれるように頼み、そこでパウロはローマの皇帝に上訴をしたために、ローマにいくことになりました。こうして使徒行伝27章は、1節に「わたしたち」と記すように、著者ルカも伴って、パウロが囚人としてローマに護送される航海の記録で始まっているのです。それは海路2700キロ、陸路80キロに及ぶ大旅行です。また、これは古代世界の航海に関する、現存する最も貴重な文書と認められているということです。(伊藤)
「難船の中での救いの確信」27:27〜44 2013年1月27日
使徒行伝27章前半の記事は、海上で暴風に遭遇した時のことを記しています。このことを通して、信仰について教えられます。信仰の父アブラハムのように「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ4章18節)とあるように、どんな時でも、神様の約束を信じていきたいと願わされました。パウロを含む276人の同船者を乗せた船は二週間近くアドリア海を漂っていました。人々は、その長かったこと、苦しかったことは、とうてい言葉に言い表せないものがあったと思います。食欲は全くなくなり、生きた心地もしなくなったからです。しかしパウロが同船していたことによって全員が助かりました。こうして、苦しかったに二週間が過ぎ、ようやく風もおさまってきますと、人々は徐々に元気になってきました。(伊藤)
「ついにローマに到着」28:1〜15 2013年2月3日
大嵐でも命を失う人は一人もいませんでした。クレテ島から1000キロほど流されて小さなマルタ島に流れ着いたのですから主の恵みでした。「土地の人々は、わたしたちに並々ならぬ親切をあらわしてくれた」(使徒行伝28:2)。まむしの一件でパウロは何の害も被らず、彼らは驚きました。パウロの祈りのうちに、首長ポプリオの父親が癒され、島の人々の病も癒され、非常な尊敬を受けました。冬ごもりもあけ三ヶ月後出帆。北のシチリア島のシラクサ、イタリヤ半島の南端レギオン。さらに航海を続け二日目にポテオリに着きました。主にある兄弟たちに迎えられ7日間滞在。ここからローマまでは陸路を行き200キロほど北西に進みます。途中、アピオ・ポロという町、さらにローマの手前、トレス・タベルネという町まで、パウロを出迎えに来ました。彼らの喜びと労わりの思いが伝わってくるようです。パウロも「彼らに会って、神に感謝し勇み立った」(使徒行伝28:15)のでした。(市川)
「ローマで満二年のあいだ」28:16〜31 2013年2月17日
ローマ到着後、ひとりの番兵がつきパウロはひとりで住むことを許されました。三日後、重立ったユダヤ人たちを招き今までのいきさつおよび、やむを得ずカイザルに上訴はしたが同胞ユダヤ人を訴えるつもりはない、と伝えました。ローマのユダヤ人たちもパウロ自身から事の次第を聞くのが一番よいと考えていました。「パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。」(使徒行伝28:30,31)のでした。イザヤ書を引いて語るパウロの心情は複雑だったでしょう。長年の伝道の旅でも同じ姿を見てきたからです。「神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。」(使徒行伝28:28)。異邦人への恵みを思わされます。 (市川)