館林キリスト教会

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ショート新約 ローマ人への手紙

「ローマ人への手紙とは」ロマ書1:1〜7 2013年2月17日

ローマ人への手紙は、世界の歴史を変えた聖書と言っても過言ではないと思う。また私たちの福音伝道教団がよって立つところの大切な書簡だと言える。創設者バーネット先生のローマ書講義は、あまりに素晴らしかったので伝説になっている。さあ、私たちもこの偉大な手紙を味わいながら、しっかり交読していきたいと思う。ローマ人への手紙は、第三次伝道旅行も終わる頃、紀元57年コリントにおいて書かれたものだ。パウロは出来れば世界の中心であるローマに行って宣教し、ローマのクリスチャンの信仰を確立したいと願っていた。この手紙の内容または主題は、「福音またはキリスト教とは何か」である。ある人は「これは手紙の形をとってはいるが、本質的には神学論文である」と言っている。まさしく、キリスト教徒ないしキリストの福音とは何かが論理的に示されている。(伊藤)

「わたしは福音を恥としない」ロマ書1:8〜17 2013年2月24日

すべての道はローマに通じると言われていた。使徒パウロの願いは、ローマへ行き、さらにスペインまで足をのばして伝道したいということであった。このパウロの願いは、ローマのカイザルに上訴するという形で実現した。そしてローマにおいて「パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで」伝道した。(使徒行伝28:30節)。ローマに行きたいとパウロが願った理由は、「霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいから」と「お互の信仰によって、共に励まし合うため」であった。ローマ行きのパウロの計画は、たびたび妨げられた。しかし彼は、絶望したり、くじけたりしなかった。それは、自分の「果たすべき責任」であると考えていたからである。そしてパウロは、「わたしは福音を恥としない。それは、−− すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」(16節)と力強く語っているのである。(伊藤)

「神の怒りの啓示」ロマ書1:18〜32 2013年3月3日

罪によって真理を押しのける不信心で罪深いすべての人に神様の怒りは下ります。真の神様は、ご自身について、いろいろな方法で明らかにしておられます。神様がお造りになったこの世界を見渡すなら神様の存在と偉大さを知ることができます。「神様など知らない」という弁解はできないはずです。神様に対する感謝と賛美で満たされるはずのすべての人間の心は、罪と悪にあふれ自我に満たされています。本当に愚かになり、永遠の栄光に満ちた神様を礼拝する代わりに、木や石で人間や鳥や獣などの偶像を作り礼拝し、その結果あらゆる性的な罪を犯すようになりました。神様は彼らが様々な罪に深入りするに任せました。彼らを放任なさったのです。神様を拒絶した人間に対する刑罰です。人間はこれを自由と考えたのです。「罪を犯した者は死ぬ」という神様の教えを知りながら罪を犯し続けました。神様に対する人間の罪は何重にも重く、滅ぼされても仕方のない存在、これが人間の姿なのです。(市川)

「すべての人が律法違反」ロマ書2:1〜16 2013年3月10日

一章の人々を「何とひどい人々だ」と言えば、それは他人を裁く罪です。実はそう言うその人も神様の前に同じ罪を犯しています。二重の罪です。ユダヤ人はほかの民のように真の神様を知らないということはありません。律法が与えられました。十戒を教えられていました。しかし、ユダ人も同じ罪を犯ししかも神様の慈愛が豊かなので罪を悔い改めず神様の恵みを軽んじています。律法を知らない人にも、知っているユダヤ人にも神様の祝福と裁きの原則は変わりません。律法に従えば祝福を受け、従わなければ裁きを受けます。すべての人は神のかたちに造られた者として心に神様の教えをいただいています。神様はその教えを言葉で書き表し律法としてユダヤ人に与えてくださいました。しかし律法が与えられても律法に従わなければ何の意味もありません。結局すべての人間は神様の教えを守れない、律法違反という理由で罪人なのです。すべての人は律法によって裁かれ「罪を犯すものは死ぬ」べき者、救いの望みのない者です。(市川)

「人を教えて自分を教えない偽善」ロマ書2:17〜29 2013年3月17日

パウロは、神様のさばきは公正であることを強調し、神様のさばきと律法の関係を説き、ユダヤ人の偽善を鋭く指摘する。神様のさばきは侮ることが出来ないのに、彼らは、神様の民であることを誇りながら、神様を知らない異邦人と同じように生き、神様を侮っている。ユダヤ人は、自らを神の民であると誇り、モーセ律法に頼り、神様を誇りとしていた。その誇りは強烈で、異邦人を軽蔑していた。「やみにおる者の光」(20節)であると自負しながら、異邦人でさえ忌み嫌うようなことをしていた。それはイザヤが「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」(24節)と預言しているとおりである。そこでパウロは、真実な神様の民であるように「隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」(29節)と勧めているのである。(伊藤)

「神様の真実」ロマ書3:1〜8 2013年3月24日

パウロは、異教徒の偶像礼拝の罪を明らかにし、ユダヤ人の偽善を指摘し、人間は全て罪人であることを宣言する。そのことを明らかにするために、彼はさらに神様の真実、神様の義、神様のさばきは絶対で誤りがないことを強調する。ユダヤ人の優れていることは「神の言が彼らにゆだねられたことである」(2節)。しかし、彼らはそれを正しく理解し行うことが出来なかった。ではそれによって、神様の救いの計画は無効になったのかと言えば、決してそうではない。パウロは、「断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。」(4節)と力強く語っている。また神様の真理が人間の虚偽によって明らかにされ、それによって神様の栄光が明確になったとすると、「どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。」(7節)となるではないかと語る。神様のさばきは、神様の絶対の義に基づいて行われ、人間の真実や虚偽に左右されるようなものではない。(伊藤)

「人間は罪によって無力にされ、律法を行えない」ロマ書3:9〜20 2013年4月7日

「ユダヤ人もギリシャ人も」(9節)とはすべての人という意味です。神様の教えに厳格なユダヤ人、人間的な神々を拝むギリシャ人、すべての人はこの範疇に入ります。人間は「ことごとく罪の下にある」ので神の怒り、さばきの下にあります。18節までは罪の下にある人間の現実です。詩篇14篇1節『愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし…。』。罪の大本は「神はない」という神様を無視する罪です。その結果、具体的な罪を犯すのです。すべての人は神のかたちに造られ、心に神の教えが与えられています。神様はそれをユダヤ人には言葉による律法としてお与えになりました。ここの律法とはこの両方の意味です。すべての人は律法が命じることを知っています。しかし罪によって無力になり、律法を行えません。律法を行って神様に受け入れられようとしても不可能です。律法の役割は罪を自覚させ「信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛」(ガラテヤ3:24)です。(市川)

「キリストを信じる信仰による義」ロマ書3:21〜31 2013年4月14日

「今や、神の義が…現された」(21 節)。律法は正しい行いを示し罪を示します。罪によって無力にされたわたしたちは律法を行えません。神様が要求なさる義を満たせず裁きを受けなければなりません。しかし、律法によって神の義を満たすこととは別の方法を神様は用意なさった。キリストによって義としてくださる道です。律法の要求をすべて満たした罪のないキリストが罪のないご生涯を歩み、罪人の罪をすべて引き受け十字架にかかり罰を受け死なれました。ここに神の義、罪の裁きが全うされました。神様はキリストを信じる者を義と認めてくださる、義という立場を与えてくださる、義と宣言してくださるのです。神様の要求、律法の要求をすべて満たした者と宣言してくださいます。信仰による義は、キリストを信じるすべての人に与えられます。わたしたちの罪のために破綻していた神様との関係を神様が回復し、律法に生きる者としてくださる、信仰による救いは律法を確立します。 (市川)

「信仰によって義と認められた人の実例」ロマ書4:1〜8 2013年4月21日

パウロは、信仰によって義とされることは、新約ではじめて言われたことではなく、旧約における代表的人物においても真実であったことを強調する。アブラハムもダビデも共に信仰によって義とされ、すぐれた信仰の模範になっている。3 節には「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。これは創世記15 章6 節の引用で、アブラハムは神の約束を信じ、それが義と認められ、祝福を受けたのである。そしてアブラハムと同じ信仰に生きるクリスチャンも同じ祝福を受けることが強調されている。アブラハムは、信仰によって義とされた模範であり、祝福の源流である。6 節から8 節には「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである』」としるしている。偉大な英雄ダビデ王も罪を犯し、悔い改めて赦され、義とされた。彼はその幸いを良く知っていたのである。(伊藤)

「信仰によって異邦人も義と認められる」ロマ書4:9〜25 2013年4月28日

アブラハムとダビデは信仰によって義と認められた。次に、では、異邦人にとっても、この信仰による義はあてはまるのであろうか、という問題である。パウロは、アブラハムが信仰によって義とされたのは、無割礼の時であったから、それは、無割礼の異邦人にも当てはまると主張している。すなわち、すべての人々は、信仰によって神様から正しいと認められるということである。したがって、アブラハムの真の後継者は、割礼を受けているか否かではなくて、「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」(17節)者である。すなわちそれは、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされた」(25節)ことを信じる者にほかならない。(伊藤)

「義認による神との平和、栄光の希望」ロマ書5:1〜11 2013年5月5日

以前は神に反逆する者でした。「律法のもとにあり」律法を行えないので裁きの対象でした。しかし、今は「恵みによって」信仰により主キリストによって無罪とされました。神の怒りから救われ神様との間に和解が与えられました。平和が与えられました。義と認められました。義と宣言されました。義と認められた者には将来の栄光が与えられています。これはセットで与えられました。どのような患難にあっても「希望は失望に終ることはない」(5節)のです。栄光にあずかる希望をもって喜んでいます。わたしたちが神に敵対していた時に、キリストはわたしたちを救うために死んでくださいました。義認と将来の栄光の希望はキリストの十字架の死と復活に基づいていますから確実です。ですから「今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」(11節)。義認、神との和解、将来の栄光をセットで与えてくださったのですから「神を喜ぶ」のです。(市川)

「アダムにあって、キリストにあって」ロマ書5:12〜21 2013年5月12日

アダムの不従順によってこの世界に死が入ってきました。アダムは罪を犯して死ぬ者となりました。全人類はアダムにあって罪を犯し死ぬ者となりました。「罪の支払う報酬は死である」というみ言葉の通り死は罪の結果です。すべての人は死にます。モーセの時代に律法が与えられ、律法によって罪を自覚するようになりましたが、律法付与以前も人々は死にましたから、人間は初めから罪を犯したことがわかります。アダムはキリストの型です。アダムの不従順によってこの世界に死が入ったように、キリストの従順によって新しいいのちがもたらされました。キリストは十字架で死に、死からよみがえりました。キリストの義が、キリストを信じるすべての人に与えられ義と認められるのです。神との平和が与えられ、神の栄光にあずかる将来が用意されているのです。 (市川)

「キリストと共に」ロマ書6:1〜14 2013年5月19日

パウロは、クリスチャンとしての新しい生き方を、3つのたとえをとおして説明している。その一つがバプテスマのたとえで、それはキリストと一つにされることである。キリストと共に葬られ、キリストと共に新しいいのちに歩み、キリストと共に生きることである。3節には「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」とあり、4節には「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と書いてある。「新しいいのち」は、みずみずしい新緑を表す言葉で、自然で自由ないのちにあふれている。11節には「あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。この「認むべきである」とは「計算してしまいなさい」という意味で、バーネット先生はこの言葉の意味を丁寧に教えてくださったそうである。(伊藤)

「義の僕(奴隷)となって生きる」ロマ書6:15〜23 2013年5月26日

ローマ帝国は、国家の権威と奴隷制度の上に成り立っており、パウロはそのローマ世界に生きるクリスチャンの恵みに溢れた生き方を、僕(奴隷)のたとえで語る。クリスチャンは、罪の奴隷から解放されて義の奴隷となり、自由で恵みに溢れて生きるようにされた者だと説明している。第一に、人間は自由なようで、罪の奴隷である。それゆえに、律法のもとではなく恵みのもとに罪を犯してもよいと考えたりする。パウロは17、18節で伝えられた教えと生活の規範に素直に信じて従い、罪の奴隷の状態から解放され、神の義に生きるようになったのであると語っている。第二に、人間は義の奴隷となる時、不自由なようであるが自由になるということである。不法の奴隷としてささげていた肢体を、義の奴隷としてささげて行く時、きよめられていくからである。第三に、人間は、神の奴隷になる時、きよい実を結ぶことが出来るということである。人間は、神の奴隷になった時、本当の自由があり、神に喜ばれる生活をし、きよい実を結ぶからである。(伊藤)

「律法からの解放、罪からの解放」ロマ書7:1〜6 2013年6月2日

「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」(6:1、2)。「…あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」(6:14)。わたしたちはキリストを信じ、聖霊によってキリストと合一され十字架と復活に合わせられました。これを結婚にたとえています。律法は神様がお与えくださった善いものです。わたしたちは罪ある者です。律法は罪を明るみに出し実態を明らかにします。わたしたちは律法と結ばれ、律法のもとにある限り罪を指摘され罪が呼び起され断罪されます。その上律法はわたしたちを罪と滅びから救えません。夫が死ねば妻は婚姻関係から解放されるように、キリストを信じたわたしたちは、キリストとともに十字架で死にました。律法に対して死に、律法との関係から解放されました。律法のもとにあったとき義の実を結ぶことができませんでした。しかし、キリストに結ばれ、義と認められ、新しいいのちを受け、聖霊に導かれ、神のために実を結ぶ恵みの歩みが始まりました。(市川)

「罪のしわざ。律法によっては救われないーマ人への手紙7:7〜13 2013年6月9日

「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。」(7:12、13)アダムにあって罪を犯したわたしたちは罪の支配のもとにあり、罪は律法によってわたしたちの内に働いて「むさぼるな」という戒めを用いて「むさぼり」を知らせ、あらゆるむさぼりを起こさせ死に至らせます。それはわたしたちの内なる罪のしわざです。「罪の支払う報酬は死である」。律法は神様が与えてくださった聖なる、善なるものですが、わたしたちの内なる罪のゆえに、わたしたちを罪と死に至らせます。律法はわたしたちを罪と死から救うことがでません。律法のもとにある限り絶望です。しかし、キリストを信じることによって、婚姻のたとえのように律法との婚姻関係から解放され、キリストと合一され、恵みによって命の歩みが与えられました。(市川)

「神の律法と罪の律法」ロマ書7:14〜25 2013年6月16日

パウロは、律法は霊的であっても私は肉的な存在であり、しかもその私のうちに善を望んでいる私と悪を行っている私が激しく戦っている事を知るという。15節では、「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」という。だから23節では、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見て」、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」とうめいている。これが人間の現実の姿だ。しかし神の律法と罪の律法という二つの原理に支配されるという現実において、私たちはすでにキリストの恵みによって救われているので感謝している、という。私たちは地上に生きている限り、この現実から脱却できないが、キリストにあって勝利を得ている事を常に覚えたい。(伊藤)

「勝利の御霊」ロマ書8:1〜17 2013年6月23日

人間は罪の支配のもとで呻き苦しんでいるが、キリストによって罪から解放される。神の御霊が宿る時、いのちと力が与えられて、神のみこころに生きることができるようになるからである。1節には「キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」とある。キリストの十字架によって罪は赦され、キリストの御霊の支配によって罪から解放されるからである。6節には「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」とある。人間的な思いにとらわれている者はいつも不安で、その結果は霊的な死である。しかし神の事を思い続ける者にはいのちと平安が与えられる。パウロは神の御霊とキリストの内住を様々な言葉で強調している。9節には「神の御霊、キリストの霊」、10節には「キリスト」。そして11節には「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかた」と記している。その御霊の内住と圧倒的な働きによって、私たちは罪と死に勝ち、死ぬべきからだつまり自分のすべては、生かされるというのである。(伊藤)

「義認と天の栄光はセットで」ロマ書8:18〜30 2013年7月7日

キリストを信じた人は義と認められました。「罪に定められることがない」(8:1)。無罪放免です。苦難と栄光を共にする「キリストと共同の相続人」(8:17)とされました。将来の栄光がすでに用意されているのですから現在の苦難は言うに足りないということです。「やがて現されようとする栄光」(8:18)を思いわたしたちはからだのあがなわれることを待ち望み、被造物もその時を待ち望んでいます。御霊は弱いわたしたちのために、神のみ心に従ってとりなしてくださいます。いっさいの事が神のみ心にかなう結果となるように神のご計画の中に生かされています。神様は、神が愛しておられる者を御子キリストのかたちに形造られるためにあらかじめ選び定められました。御子を長子とする神の家族に加えられるのです。神はあらかじめ定めた者を、更に召し信仰へ導き、更に義とし無罪放免とし、更に栄光を与えました。すなわち天の栄光を備えふさわしい者とかえてくださいました。まだ見ていないものを望むのならば、忍耐して落ち着いて待つのです。 (市川)

「義と認められた者に与えられた勝利」ロマ書8:31〜39 2013年7月14日

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(1 節)。神様はキリストを信じる者を義と認め無罪放免とし、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(2 節)と言われます。「あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さった」(30 節)神様、御子キリストさえ与えてくださった神様が、わたしたちの味方であるなら、「だれがわたしたちに敵し得ようか。」(31 節)、以下立て続けに問いが記されています。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。」(33 節)、「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。」(34 節)、「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。」(35 節)。こう結ばれています。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(37節)、「…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(39 節) (市川)

「パウロの憂い」ロマ書9:1〜5 2013年7月21日

ローマ人への手紙の9章から11章までは、イスラエル民族と世界の救いがテーマになります。パウロは、イスラエルの同胞の事をとても憂えています。2節には「わたしの心に絶えざる痛みがある。」と言っています。パウロの憂いは、神の律法をゆだねながら、キリストを捨てたイスラエル人は、一体どうなるのであろうか、ということでした。ですから3節では、「わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」とまで言っているのです。彼は信心を利得と心得る者ではありませんでした。パウロは、神様の意志が成就され、人々に真の信仰が伝えられるためには、のろわれても、捨てられてもかまわないのだ、と主張しているのです。5節にはパウロの福音理解の核心が書いてあります。第一はイスラエルの救いで、第二は、キリストの神性という事です。(伊藤)

「神様の選び」ロマ書9:6〜24 2013年7月28日

パウロは、同胞イスラエル民族の不信仰を嘆きますが、また神様の深いご計画にしだいに目が開かれていきます。つまり、真のイスラエルは、イスラエル民族ではなく、神様の民イスラエルであることを知り、その神様の民を通して世界を救われるという事を理解していくのです。パウロは、選びにおける神様の主権と神様のご計画を強調し、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(13節)とさえ言うのです。「エサウを憎んだ」とは、エサウは神様の愛に応ずるような態度をとらなかった、という」意味でしょう。神様の主権が強調されすぎると、人間の自主性が否定され、人間はまるでロボットのように思われるおそれがあります。19節では、「そこで、あなたは言うであろう、『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』」という疑問が生じるだろうと述べています。そこでパウロは、それらの疑問に答えながら、神様の寛容と召しについて語っているのです。(伊藤)

「信仰によって、行いによって」ロマ書9:25〜33 2013年8月4日

「…ただ神のあわれみによるのである」(16 節)。神様は、ご自身の栄光の富を知らせようとなさり、ユダヤ人だけでなく異邦人の中からも救いへと導いてくださいました。これはただ神様のあわれみによるのです。ホセア書でもこう記されています。異邦人はユダヤ人のような神の民ではありませんでした。ですから「わたしの民でない者」「愛されなかった者」と言われています。しかし、その民を神様はあわれんでくださって「わたしの民」「愛される者」さらに「彼らは生ける神の子らである」と呼んでくださる、神様が用意してくださった救いに入れてくださったのです。なぜなら信仰によったからです。イザヤ書にはこうあります。神の民ユダヤ人は海辺の砂のように多くても一握りの人しか救われない、神様のあわれみがなかったらソドムやゴモラが滅んだように滅ぼされただろうと。なぜなら信仰でなく行いによったからです。彼らにはキリストが「つまずきの石、さまたげの岩」であり、寄り頼んだ異邦人には救いでした。(市川)

「キリストを信じて与えられる神の義」ロマ書10:1〜4 2013年8月11日

パウロが心から願うのは同胞ユダヤ人がキリストを信じて救われることです。彼らは神様に受け入れられたいと非常に熱心です。しかし、残念なことに的外れです。見当違いです。彼らは、行いによって義と認められよう、神様に受け入れられようと目指してきました。「自分の義を立てようと努め」てきました。しかし、彼らが一生懸命努力して得ようとしている正しさは、神様の目には汚れた服のようです。所詮、人間の正しさは神様の前には不完全です。彼らはどうすればいいのでしょう。神様に感謝して、キリストを信じればいいのです。ただ恵みにより、あわれみによって、神様が備えてくださった「神の義」を信仰によっていただくだけでいいのです。神様が用意してくださった救いです。神様の前に必要な完全な正しさを、キリストは十字架の死と復活によって用意してくださったからです。律法を行うことによって義とされようとすることは、もう終わりました。キリストが十字架の死と復活によって、律法を完全に成就してくださったからです。(市川)

「信仰による義」ロマ書10:5〜13 2013年8月18

神様のみこころは、すべての人がキリストを信じて救われることである。パウロは、その信仰による義、信仰による告白、信仰による救いを繰り返し強調する。そこに、福音の核心、人類の救いがあるからである。律法による義は、それらを行う事を要求する。しかし、信仰による義は、ただキリストを信じる信仰によって与えられるのである。そして信仰による義は、告白によって実現する。救いは、遠い遠方にあるのではなく、私たちのすぐ傍らにある。9節には「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」という有名な約束がある。そして、信仰による救いは決して失望に終わることがない。また「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない」(12節)。民族的、社会的な差別はないのである。唯一の神様は「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(13節)のである。(伊藤)

「イスラエルの不服従と神様の愛」ロマ書10:14〜21 2013年8月25日

神様は、信じようとしないイスラエル民族を見捨てることをせず、一日中手を差し伸べて待っておられる。神様の愛は絶対で、親の愛のように変わらない愛を持って、イスラエル民族が立ち返って救われるように招き続けておられる。パウロは、その神様の招きを、多くの預言者の言葉を引用しながら強調している。イスラエル民族にはすでに福音は伝えられていたが、彼らは信じなかった。彼らは聞かなかったのか。いいえ、そうではない。聖書に「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」(18節)と書いてある。イスラエル民族の不信仰によって、キリストの福音は異邦人に伝えられ、彼らは救われた。しかし、神様はイスラエル人を見捨てられたのではない。21節に「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」とあるように、神様の愛は変わることなく、愛の手を差し伸べ続けられているのである。(伊藤)

「主を信じる残りの者」ロマ書11:1〜12 2013年9月1日

神様はご自身がお選びになった民イスラエルを退けてしまわれたのだろうか。「神はその民を捨てたのであろうか。」この問いに「断じてそうではない」(1節)とパウロは答えています。バアル礼拝が盛んなエリヤの時代にも主を信じる七千人の人々がいたように、今も主を信じる人々が残され、彼らのうちには主を信じる信仰が脈々と受け継がれてきました。主なる神様の恵みです。それに対して多くのイスラエル人が心をかたくなにして主を信じないのですが、これによって、救いが異邦人に及ぶようになりました。その結果、イスラエルが救いを求めるようになるのです。これも主なる神様の恵みです。このようにイスラエルが主を拒むことによって異邦人に救いが及び全世界が恵みを受けたなら、やがてイスラエルが悔い改めて主を信じるようになればなおさら、主なる神様の祝福が全世界に及ぶでしょう。 (市川)

「神の慈愛と峻厳」ロマ書11:13〜24 2013年9月8日

神様の選びの民イスラエル以外の人々、異邦人に対する言葉です。かたくななイスラエル人よりも早く救われた異邦人たちは高ぶってはならないと。選びの民イスラエルは根がきよく枝もきよいオリブのようです。その枝が切り取られ、野生のオリブの枝が接ぎ木されました。異邦人はこうして救われました。接ぎ木された野生の枝をささえているのは元木の根です。すなわち神様の選びの民イスラエルの存在があってこそ、異邦人はただ恵みによって救われたのです。切り取られた枝は不信仰のゆえに切り去られました。神様が元木の枝を惜しまなかったとすれば、まして野生の枝を惜しまないでしょう。異邦人が救われたのは神様の一方的な恵みによるのです。ですから、神様の恵み深い慈愛と厳しさに心を留め、よく味わいなさい。神の恵みを忘れて高慢になればあなたがたも切り取られるのです。また、イスラエルが不信仰をいつまでも続けなければ切り取られた枝であっても接ぎ木されるでしょう。(市川)

「イスラエルの救いの完成」ロマ書11:25〜36 2013年9月15日

神様の知恵は深く、神様の奥義は素晴らしい。イスラエル民族の不信仰に悩んだが、イスラエル民族の不信仰によって、福音は異邦人世界に伝えられ、世界がその救いの恵みにあずかった。パウロは、その救いの奥義に目が開かれ、その奥義について語る。25節と26節には「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。」とある。異邦人の救いによってやがてイスラエル人も救われるというのである。33節には「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。」という。これは神様の不思議な摂理であり、パウロはそれを悟ることが出来た。かつては同胞の不信仰に悩んだが、今は神様が、深い知恵をもって導き、世界の救いを完成させる計画を知って驚いているのである。(伊藤)

「クリスチャンの健全な教会観」ロマ書12:1〜8 2013年9月22日

ローマ人への手紙は、12章から後半に入り、教理的な部分から倫理的な部分に移る。その倫理の基礎として、私たち自身を神様にささげ、神様に造り変えられることが重要であると、1、2節で力説している。キリスト教倫理の特色は、共に生きることであり、パウロはそれをからだの比喩を用いて、巧みに論じている。それはからだの、そして共同体の倫理であり、同じからだに属する者として共に仕え、共に成長し、共に生きるのである。クリスチャンにとって、最も重要なことは、健全な教会観をもつことであろう。同じクリスチャンであっても、国籍や社会的立場や男女の違いがあり、異なった性格や才能を持っている。しかし同じ一つのからだに属し、それぞれ異なったからだの部分であることを忘れないように勧めている。ここに記されている、「預言、奉仕、教え、勧め、寄附、指導、慈善」(6〜8節)は、教会にとって極めて重要な奉仕であるから、パウロはこれを快く積極的に行うように勧めている。(伊藤)

「主イエス様のお姿」ロマ書12:9〜21 2013年9月29日

ここに教えられていることは、神様に対する愛と人に対する愛に生きる姿です。「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、」(9節)、神様に対する愛においても、人に対する愛においてもそうです。「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」(11 節、12 節)これは神様に対する熱心と真実です。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。」(10 節)、「貧しい聖徒を助け…」13 節以下は人に対する愛です。これらの姿は主を信じる聖徒たちの姿ですが、この地上を歩まれた主イエス様のお姿が思い起こされます。「イエスは言われた『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22 章37〜39 節。) (市川)

「神による権威」ロマ書13:1〜7 2013年11月3日

1節に「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」とあります。だれでも「上に立つ権威」に従うべきです。神様がお立てになったからです。神様によらない権威はありません。権威に敵対的な態度をとるなら、神様がご自身の秩序として制定なさったことに抵抗するのですから、自分の身にさばきを招くことになります。善い行いをする人々は、立てられた権威者たちを恐れる必要はありません。立てられた権威者たちは人々に益を与えるための神のしもべだからです。悪い行いをする人々にとっては恐怖です。悪事を行う人々には神の怒りを執行する神のしもべだからです。納税についても同様の理由によります。納めるべきものは納め、神様に立てられた人々を恐れ敬いなさい、と教えられています。(市川)

「愛は律法を完成する」ロマ書13:8〜14 2013年11月10日

クリスチャンの生活は愛にある。パウロは「愛は律法を完成するものである」(10節)という。律法は、神の契約を守るために、人間に示された神の意志である。神様の契約とは、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31章33節)ということである。この契約を守るために与えられた神の意志が律法であり、その律法を代表するものが十戒(出エジプト記20章、申命記5章)である。そしてすべての律法は神様を愛し、隣人を愛することに集約される(ルカ10章25〜28節)。さらにそれは、イエス・キリストを信ずることに集約される(ヨハネ6章29節)。したがってパウロは、「キリストは−−律法の終りとなられたのである」(ローマ10章4節)と言うのである。終りにパウロは、クリスチャンの生活について、神を知る者は暗黒の世界より絶縁しなければならないという。そのために「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」と言うのである。(伊藤)

「さばいてはならない」ロマ書14:1〜12 2013年11月17日

2 節には「ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。」とある。また5 節には「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え」と記されている。初代教会には2つの問題があった。肉食の問題とは、市場では偶像に供えた肉を売っているが、それはクリスチャンが食べてもいいかどうかということである。日の問題については、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならないということである。こうして、ユダヤ教の伝承によって、日や月に特別な定めをもうけ、これを守っていたのである。これに対してパウロは、クリスチャンの生活の中心が「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」(8 節)ということであるという解答を示した。もし、それが「主のため」と思うならば、食べることもよいし、食べないこともよい。したがってパウロは、「信仰の弱い者を受けいれなさい」(1 節)という。また「なぜ兄弟をさばくのか」(10 節)というのである。(伊藤)

「愛によって歩むこと」ロマ書14:13〜23 2013年11月24日

偶像に供えられた動物の肉が市場で売られているが、肉であるということに変わりはない。「それ自体、汚れているものは一つもない。」(14 節)けれど、しかし、それを食べる事について、信仰において苦しみを抱く人がいるなら、すなわち汚れていると考える人がいて彼が苦しみを受けているなら、その人のことを考えて「むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」(13 節)。それが、愛によって歩む、ということなのです、と教えています。注意しなければならないことは「あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。」(16節)。自分では良いと思っている事でも、ほかの人のことを考える心配りが必要です、ということでしょう。「義と、平和と、聖霊における喜び」(17 節)、そして愛。これが道しるべです。 (市川)

「隣り人の徳を高めるために」ロマ書15:1〜13 2013年12月1日

信仰において確信を持って歩む人もいれば、ためらいを持ちながら歩む人もいます。ためらいや不安を持っている人に対して愛と祈りと助力の手を差し伸べられるように。「自分だけを喜ばせることをしてはならない。」(1 節)とあります。「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。」(3 節)。ご自身の利益を少しも考えないで、かえってわたしたちが受けるはずのそしりを受けてくださいました。「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。」(2 節)とあります。利他主義に生きることを勧めています。「キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」(7節)。恵みと救いが異邦人にまで及び神をあがめるようになるためです。(市川)

「パウロの宣教の志」ロマ書15:14〜21 2013年12月8日

ローマ人への手紙も終わりに近づき、パウロは彼の宣教の志(こころざし)を語っている。同胞イスラエル民族に福音を伝えると共に、広く異邦人にも伝えてきた。しかしそれは他人の土台の上に建てるのではなく、開拓精神と世界宣教のヴィジョンによっていたのである。パウロは同胞イスラエル民族を愛し、異邦人への使徒である使命に燃え、世界宣教に励んできた。それが神のみこころであると知っていたからである。福音の宣教は祭司の務めを果たすことであり、神と世界の和解を実現することである。次にパウロは福音の宣教は、人間の働きではなく、神の力によることを知っていた。だから、神とキリストがパウロを通して働かれたことのほかは、あえて語ろうとしなかった。神はキリストによって働かれた霊の力によって、広く異邦人世界に福音を伝えられたのである。次にパウロが望んだのは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所、即ち異邦人の地に福音を宣べ伝えることであった。(伊藤)

「パウロの宣教計画」ロマ書15:22〜33 2013年12月15日

パウロは、彼の宣教の志を強調し、彼の宣教計画を語る。それは世界の都ローマで伝道し、世界の果てイスパニヤ(スペイン)まで宣教することであった。しかし現実には、エルサレムにいる貧しいユダヤ人クリスチャンを援助するために、エルサレムに行かねばならなかった。しかしローマにおける伝道とイスパニヤ宣教は、パウロにとっての長年の祈りであり、世界に対する神の救いの計画であると確信していた。また異邦人クリスチャンがエルサレムのユダヤ人聖徒のために募金し、その愛の募金を渡すのは、互いの愛の交わりであり、世界宣教への美しい結晶でもあった。だからパウロは、自分の計画より神のみこころを優先させ、その責任を果たしたらローマに行くことにしていた。しかしパウロはこの宣教計画が危険と困難に満ちたものであることをよく知っていた。これからどのようなことが起こるかわからず、不安であった。それゆえ「……どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。」(30節)と、懇願しているのである。(伊藤)

「主を愛する多くの聖徒たち」ロマ書16:1〜16 2013年12月29日

パウロが記したローマ人への手紙を携えて行く婦人執事フィベを、信仰による配慮をもって紹介しています。ケンクレヤはコリント東方の港町で、彼女の信仰と人格は「多くの人の援助者」という言葉に表れています。パウロの同労者プリスカとアクラの「自分の首をさえ差し出してくれた」献身的な協力を深く感謝しています。いのちの危険をも顧みずパウロを支えました。彼らはポント生まれのユダヤ人で、皇帝クラウデオのユダヤ人追放でローマからコリントにのがれた際、パウロと出会い一緒に天幕作りをしながら伝道しました。異邦人のすべての教会が彼らに感謝していると記しています。このような多くの聖徒や協力者がいた初代教会が聖霊に導かれて伝道の進展を見たことは使徒行伝に記録されています。現在のような教会はなく、信仰者が家を解放し集会を持ち「家の教会」と呼んでいました。奴隷という立場の人々も主にある家族でした。主を愛し生き生きと仕えた信仰者たちの姿です。(市川)

「勧告と挨拶と頌栄」ロマ書16:17〜27 2014年1月5日

パウロは挨拶の途中で突然、誤った教えによって分裂をもたらす者たちに気をつけ、彼らから遠ざかりなさい、と勧告している。ローマ教会にも誤った教えや人間的な党派心によって、分裂とつまづきを起こす者たちがいたからである。彼らは誤った教えを説くだけでなく、自分たちの党派をふやすため、美辞麗句を持って欺いている。宗教を、欲望を満たす手段にしているのである。だからイエス様は、弟子たちを宣教に派遣する時、「へびのように賢く、はとのように素直であれ。」と言われた。この手紙の終わりの部分は、パウロと福音のために働く人たち、すなわち共に働くテモテから、また共に生きるルキオ、ヤソン、ソシパテロ、この手紙の筆記者テルテオから、そして共に証する、ガイオ、エラストと兄弟クワルトから、という挨拶で締めくくっている。最後は頌栄で、パウロの信仰と賛美が結晶されており、福音の宣教によって、歴史における神様の奥義が実現し、神様がほめたたえられている。(伊藤)