伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(16)
ヨハネの第三の手紙 2011年11月13日
この手紙は、ヨハネの友人であり、心の広く、暖かい、ガイオという人に宛てられている。この人は、自分の財産と賜物を主にささげている。信徒の模範ともいうべき人である。
ガイオは、彼の愛のもてなしによって知られている。ヨハネはデオテレペスという名の、独裁的な、威張っている教会の役員の反対にもかかわらず、旅をしている説教者たちをもてなすことを続けておこなうように、ガイオに勧めている。親切にもてなすことは、キリストの愛の現れである。
私たちも、神の国のために手助けをするガイオか、神の国のために妨げをなすデオテレペスか、どちらかになることができる。
ガイオやデメテリオのように、富も、力も、賜物も、才能も、イエス様のためにささげる道を選ぶことは、何と素晴らしいことではないだろうか。(伊藤)
ユダの手紙 2012年1月8日
ユダの手紙を見ると、あのイエス様を裏切ったイスカリオテのユダ?とふと思う人がいるかもしれない。勿論違う。この手紙を書いたのはイエス様の兄弟のユダである。彼はペテロを知っていたに違いない。彼らは主と共に歩み、主が地上を去られてからは、彼らは互いに語り合っていたことだろう。ゆえに、ペテロの第二の手紙とユダの手紙とは、思想と用語の点で似ているという。両者とも、教会が直面している教理的な危険について取り扱っているからである。他の手紙と同様に、偽教師が現われ、その偽教師に、教会がかきまわされていたので、急いで書いたものである。
ユダの手紙も、ヨハネの第一、第二の手紙同様に短い手紙である。しかしクリスチャンといえども、一読して分かることは難しい内容だ。なぜなら、旧約聖書の事件や地名が縦横に用いられているからである。23節の「肉に汚れた者」とは、神を信じると言いながら、信じているから何をしてもいいという、誤った放縦な生活をしていた偽預言者たちを指すと言われる。このことのためにユダは手紙を書いたのである。(伊藤)
ヨハネの黙示録 2012年1月15日
ヨハネの黙示録は、新約聖書における唯一の預言の書である。この書は読む者と聞く者に対して特に祝福を約束しているという点で、聖書中の唯一の書である。1章の初めの部分で「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである」と書いている。
しかし、教会について書いてある最初の数章と天国について書いてある最後の数章は大体わかるが、その中にある預言について理解するのが困難なところが多いと感じるのが実感だ。
黙示録はキリストの素晴らしい支配を示している。福音書はキリストを救い主として、また罪から解放してくださる方として示している。しかしヨハネの黙示録は、キリストがサタンに対して、完全に、また永遠に、勝利を得られたことについて語ると共に、サタンが最初は千年間、それから永遠に、敗北し、罰せられることについて預言している。
ローマ皇帝の迫害の時代、クリスチャンたちは地下の墓地で集会を開いて、主を礼拝した。その場所には「魚」の絵がしるしてあった。「イエス・キリスト、神の子、救い主」のギリシャ語の頭文字を合わせると魚(イクスース)になるからだ。
黙示録が分かりにくいのは、事柄が一種の暗号のように用いられて書かれてある所がいくつもあるからだ。しかも、皇帝側にこの暗号のような言葉も、この書の意図も知られていなかった。著者のヨハネが、暗号のような言葉を用いたのは、いのちがけで信仰を守るために示された神の知恵だった。つまりこの書は、命をかけて書かれたものであり、読む側もまた命をかけて読まねばならない書物であると示唆しているようにも思われる。
死後見つかったといわれる、麻酔薬を外科に用いる発見をしたジェームズ・シンプソン博士の使用した愛用の聖書には、新約聖書のところどころに、血で赤線が引かれていたという。そこには、聖書をいのちがけで記した人々の愛を、真正面から受け止めようとするシンプソン博士の心意気を感じる。