館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(11)

 使徒行伝 2010年4月11日、18日

 
 使徒行伝の内容は、その名の通り、使徒たちの伝道活動を伝えている貴重な書物である。使徒たちと言っても、主としてペテロとパウロの二人の活動に集中されている。
 初代教会の発展の歴史を知るために、「使徒行伝」は欠くことのできない大切な資料である。主イエス・キリストの最初の弟子たちは、主の復活という驚くべき出来事を経験し、新しい使命感に満たされて、福音を世界中に伝道して行った。その結果、各地にクリスチャンが誕生し、教会が建ったのである。伝道は急速に進み、またたく間に、当時の世界の中心地と言われるローマ帝国の首都ローマにまで達したほどである。イエス様が弟子たちに約束された「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)という言葉が成就した。主のこの約束の言葉が成就するために使徒たちは、聖霊の助けに支えられ、命がけで福音を伝えていったのである。
 古くからの伝承で「使徒行伝」の著者は、ルカによる福音書と同じルカであると言われている。その証拠は、使徒行伝の書き出しの「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。」(使徒行伝1章1、2節)という言葉が、ルカによる福音書の最初の言葉と一致するからである。
 著者のルカは、主イエス様の伝記と初代教会の発展の歴史を詳しく書きたいというはっきりした目的を持って書いている。
 ルカは、教養の豊かなギリシャ人と言われており、歴史の出来事を文章にまとめるにも秀でた才能の持ち主であったようである。また医者であったので、パウロと共に伝道する際に、健康管理にも十分な配慮が出来た点でも、伝道の良き助手としても、パウロの働きで陰の力になった人である。
 この初代の使徒たちの活動は、二千年の歴史を貫いて今日まで受継がれている。だから私たちは教会の働きを通して、使徒行伝の29章を執筆中とも言えるのである。(伊藤)

 ローマ人への手紙 2010年5月2日、9日

 
 館林キリスト教会が所属する福音伝道教団の創立者は、M・A・バーネット先生です。先生は戦時中、官憲によって、前橋から山奥の草津に幽閉されていた時に、「ローマ書注解」を著されました。バーネット先生のローマ書の講義を聞いた先輩の先生たちは、その素晴らしさをワクワクしながら語ってくれました。ローマ人の手紙は、私たち福音伝道教団にあてられた、神様からのラブレターのような気がします。教団顧問の羽鳥明先生は、ある時期の聖会で、毎回ローマ人への手紙から、メッセージをしてくださいました。小林牧師のローマ人への手紙の講解説教は、ノート付きでしたので、貴重な財産になっている人も多いと思います。荒川雅夫先生は、「ローマ人への手紙は、福音伝道教団の霊的中心であり、創立者バーネット先生が心血を注いで語ってくださったきよめの信仰の中心である」と言っています。
ローマ人への手紙の著者パウロは、ローマ教会を訪問したいと熱心に望んでいました。そこで、彼は第三回目の伝道旅行の折、コリントにある富裕なクリスチャンであったガイオの家から、この手紙をローマの教会に送ったのです。
 ローマ人への手紙は、主イエス様が十字架につけられたのち、イエス・キリストの福音をユダヤ人の枠をこえて、当時の世界の、すべての人々に宣べ伝えるために大きな働きをしたパウロが、その晩年に、まだ訪れたことのない首都ローマの教会に対して、キリスト教信仰の手引きとして書き送ったものです。
 これは手紙ですが、むしろ論文と言えるほどに神学的な傾向を帯びているものです。イエス・キリストの福音の内容が、筋道をたてて語りつくされています。ですから、昔から「新約聖書の中でももっとも完全な教理の書物」とか、「福音の声明書(マニュフェスト)」とか言われてきました。
 パウロが、律法に忠実なユダヤ教の指導者として、キリストに敵対していた彼自身の生き方を180度変えさせた福音の力を、感謝と喜びをもって証しているのです。それゆえにこの手紙を読む者の生き方を新しく変えさせる力を持っています。昔から、アウグスティヌス、ルター、ウエスレーをはじめとして、数多くの信仰の先人たちがこの手紙によって回心を経験し、信仰に導かれました。 (伊藤)

 コリント人への第一の手紙 2010年5月16日、23日

 
 コリント人への第一の手紙は、ローマ人への手紙と同様、使徒パウロの手紙です。コリントは、ローマ帝国のアカイア州の首都で、エペソと共に、繁栄していた大都会でありました。
 このコリントにパウロは教会をつくりました。しかしそれから3年後、パウロは、コリント教会の悪いうわさを聞きました。コリントに住むクロエ家の者が「教会内に紛争が生じていること」「信者の中に不倫をしている者がいること」などを告げたのです。そこでパウロはこのコリント人への第一の手紙を書いたわけです。
 コリント人への第一の手紙は、教会問題集といわれるくらい、問題が山積していたことがわかります。「教会内の紛争」「近親相姦」「「会員同士の訴訟問題」「結婚及び独身生活の問題」「異言の問題」「復活についての疑問」等があげられます。
 現代でも、さまざまな問題が教会に生じることがあります。その時、この手紙は、どのように考え、どのように対処したらよいか、判断の基準を教えてくれたり、よい示唆を与えてくれたりしています。
 パウロは、エペソで二年間ほど滞在している間に、コリント人への手紙を書いたと思われます。そしてその手紙で残っているのは第一と第二の手紙ですが、四通あったと言われるのが定説です。その第一通は、コリント人への第一の手紙5章9節にある「わたしは前の手紙」で、新約聖書の二通の手紙よりも以前に、もう一通の手紙が書かれていたことがわかります。
 パウロは、コリント教会の諸問題を解決するためにこのコリント人への第一の手紙を、彼の代理としてのテモテに持たせて送りました。しかし、このことが円満に解決しなかったことは、コリント人への手紙第二で、テトスについての言及によってわかります。テトスがパウロによって送られたのは、テモテが帰ってきてからの報告によってだと思います。
 そののち、使徒行伝行19章21節などを見ますと、御霊によって計画が変更され、パウロはマケドニヤを通ってアカヤにいくことになりました。そしてパウロは、このマケドニヤでコリント人への第二の手紙を書くことになるのです。(伊藤)

 コリント人への第二の手紙 2010年6月6日、13日

 
 ハイデルベルク信仰問答の問一は「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」で始まる。悩み多い人生において、この問いかけは私たちの生き方の根幹を問うているような気がする。コリント人への第二の手紙は、昔から、慰めの手紙とも言われたりする。特に第1章7節までに、「慰め」という言葉が、11回も記されている。
 ではなぜ、このコリント人への第二の手紙が、慰めと励ましに満ちているかといえば、実に著者のパウロ自身が、悩みと苦しみの中にあって書いているからである。
 何をパウロは悩み苦しんだのだろうか。第一の手紙において、教会内の紛争を戒め、その不倫を戒めるのに全力を尽くしたのに、教会内の問題は、決して解決したわけではなかった。愛の章といわれる素晴らしい言葉を書き送っても、コリントの教会の人たちは、必ずしも素直にそれを受け入れたわけではなかったからである。
 当時、ユダヤ教主義者たちは、各地の教会を掻き乱したが、コリント教会にも乗り込んで、反パウロ派に働きかけ、扇動して、教会を乗っ取ろうとさえしていたという。こうした中で、パウロ個人に対する中傷がなされ、彼は攻撃の矢面に立たされたのである。そんな中で、実はパウロ派、この第一の手紙と第二の手紙との間に、もう一通の手紙を書いたといわれている。それは「涙の手紙」と呼ばれている手紙であるが、勿論それは写本においても存在しない。この「涙の手紙」は、しばらくの間、コリントの教会の人々を悲しませたが、彼らはパウロの勧めに従って悔い改めたのである。その報告をマケドニアでテトスと会って聞いたパウロは、慰めを受けた事を7章で述べている。この第二の手紙を書く頃は、最悪の事態は去ったようであり、パウロは3度目の訪問を考えていた。最後は、牧師が礼拝の終わりに祈る「祝祷」の言葉が書かれている。(伊藤)