館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(7)

 ホセア書 2008年9月7日、04月6日

 
 ホセア書以下に12 巻の預言書があり、普通12預言書とか、小預言書とか呼ばれている。このホセア書は、12預言書中では最大の書物で14 章ある。アモスと共に、12巻中最も大切な書の双璧といってもよい書物である。そしてこの2書だけが北王国に現れた預言者の書物である。大先輩に当たるエリヤとエリシャも北王国で働いたが、残念ながら書物は残していない。  ホセアという名は「救い」という意味である。アモスと共に奉仕した預言者で、ヤラベアム二世(列王下14:23〜25)以下、北王国滅亡にいたる最後の王まで預言した人である。ホセア自身も北王国出身の人で、自分の祖国を心から憂い、深く鋭い言葉で警告し導こうとしたのである。しかし彼の語る言葉は受け入れられず、ホセアの活動が終わってまもなく、北王国は滅ぼされたのである。それは列王紀に明らかなように、実に混乱をきわめた時代だったからである。同時代、ユダ王国の預言者にはイザヤやミカがいる。  ホセア書の内容を大別すると、1章から3 章は、神に背いたイスラエルに対する神の愛とこれを象徴するホセアの家庭。4章から10章がイスラエルの罪とこれに対する神の審判。そして11章から14章は、神の愛の勧めとイスラエル将来の回復と分類できる。ホセアは自分の家庭に悲痛な経験を与えられたようで、1章と3章によれば、妻は不義の子を残して去り、やがて不倫の罪を犯してしまったにもかかわらず、もう一度連れ帰ったのである。そしてこの事が彼の預言と深く関わりをもっている。神にとってイスラエルの民は、その不義の妻のようであり、しかも神はあくまでその民を愛して待たれるのだと、ホセアは示されまた語ったのである。彼が民の罪を示す時は、「姦淫、淫行、不義」、あるいは「みだらなこと、貞操を守らず」などと語っている。勿論、罪は厳しく罰せられなければならないが、6章以下では、それに加えて救いの知らせが記される。その6章冒頭の言葉「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」のみことばは、義である神が、その痛みや苦しみを与えるのは、民を愛するが故であることを示しているところでは、誰もが神の愛を覚えて感動するだろう。まさしく聖書は、私たちへのラブレターなのである。(伊藤)

 ヨエル書 2008年11月2日、9日

 
 ある人はこの書は、酒にではなく、聖霊に「酔える(ヨエル)書」だと洒落を言って紹介している。わずか3章からなる小預言書だ。民は「諸国民のうちから散ら」(3:2)されたあと、ギリシャの支配下にあり(3:6)、神殿や城壁もあるらしいところから、少なくてもエズラ・ネヘミヤの時代よりもおそく、ギリシャ時代に入ってからと思われる。著者はヨエルという預言者で、その名前の意味は、「ヤーウェは神である」。この書の名前が示すごとくヨエルは、ご自身の民を愛し、助けられる神について伝えている。  当時、イスラエルの地はいなごの恐ろしい災害を受けたばかりであった。いなごは、緑色の植物をことごとく食い尽くした。この時ヨエルは、いなごの襲来が民の多くの罪のゆえにくだった神のさばきである、と語ったのである。そして、ヨエルは、神とその愛に立ち返るように民に語ったのである。 いなごの恐ろしい災害によって引き起こされた、ぞっとするような飢饉の後に、長引く旱魃が続き、国土は荒廃した。国民と家畜は、食糧と水不足で死の寸前だった。 この時、ヨエルはユダの人々に向かって語ったのである。いなごの災害という目下のさばきを用いながら、ヨエルは同胞を悔い改めに導いたのである。彼は、敵軍の手によるさらに大きなさばきから、自分の同胞を救いたいと願ったからだ。ヨエルは、この災害を絵のように描写し、この災害のようなものはそれまでに一度もなかったことを確認するよう、老人たちに呼びかける(1:2)。 ヨエルは民に、その災難の原因をよく考えるように呼びかける。もしさばきから免れたいと思うなら、真実の悔い改めをもって嘆かなくてはならない(2:12〜17)と。ヨエルはこう語りながら、感動していたに違いない。なぜなら、この苦境の中で今度は、人々が神に立ち返ると思ったからである。(伊藤)   (伊藤)

 アモス書 2009年1月11日、18日

 
アモス書は、おそらく12 預言書中最も古いもので、北王国に、ちょうど洗礼者ヨハネのような姿で現れて、同じような仕事をした預言者の書です。活動は短期間だったようですが感化は大きく、イザヤとミカが最もよくそのあとを受け継いでいると言われます。ホセア書と共に重要な預言書であり、よく比べながら読んでみると、とても有益だと思います。 北王国のヤラベアム二世の盛んな時代の預言で、当時の繁栄は道徳的な低下を来たらせ、激しい批判が神様からくだり、それを伝えたのがアモスなのです。 神は語りたもう神であり、それを預言者に特に示されたのである。それを聞いた預言者は語らずにはおられない。そこに預言者の立場があり、使命がありました。神の語りたもうところを聞くとは、実に不思議な尊い経験ですが、預言者はそれを経験し確信して立ったのです。それをししの声の恐怖に(3:8)たとえているのも、いかにも野人アモスらしい点である。 彼(アモス)は南王国の山地テコアの出身で、北王国のベテルで活動し、そこで祭司アマジヤに攻撃された時、「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない。わたしは牧者である。わたしはいちじく桑の木を作る者である。」(7:14)と言っているが、そこには新約のガラテヤ人への手紙にあるパウロの言葉「人々からでもなく、人によってでもなく」(1:1)と似たひびきがあります。当時の預言者というものが、いつの間にか職業化し御用宗教家として、本当の教えを伝えることを忘れていたのであろう。家柄とかだれの弟子とか、どの派とかいうことが、ものを言っていたのかもしれません。そういう中ですから、預言者でないということが、かえって真の預言者である自覚と主張になったのではないだろうか。彼はだれによるのでもなく、神に命ぜられて立っているという確信に生きたのである。神の与えたもう重荷に苦しんだエレミヤと、性格的には大変違うが、根本は同じと言えるだろう。(伊藤)

 オバデヤ書 2009年2月1日

 
これは預言書中最も小さい書物で、わずか一章だけです。なかなか難しい書であまり読まれていないばかりか、この書の内容を覚えている人も少ないかも知れません。内容は、エドムに対する神様の審判の告知です。アモスをはじめイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの各書には外国預言があり、その中にはエドムに対するものもありました。そういうものが部分的にまとめられた書物ともいえるでしょう。オバデヤという人物については何もわかっていません。オバデヤとは「主(ヤーウェ)のしもべ」という意味です。  エドムは創世記のエサウの子孫と信じられており、イスラエルとはかなり近い関係にありながら仲の悪い民族です。捕囚期にはずいぶん嫌がらせをして、いっそうイスラエルの反感を買ったらしく、そういう時代がこの書の背景のようです。今まで見て来た預言書と共通の用語は、何よりも「主の日」であることは明らかです。その日は「万国の民に臨む」(15 節)と言いながら、実は主としてエドムに対しての関係だけで考えられているのです。 (伊藤)