伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(6)
ホセア書 2008年2月3日、04月6日
いよいよ旧約の第三部の預言書です。ここには16人の預言者が登場する。大預言者はイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの4人。小預言者はホセア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼパニヤ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキの12人である。
イザヤ書の鍵の言葉は「救い」である。イザヤとは、「主は救い」と言う意味であり、イザヤ書の冒頭に「アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。」と記されているように、預言者イザヤは、ユダ王国の4人の王に仕えた預言者だ。彼が生きたのは、北イスラエル王国がアッスリヤによって滅ぼされた時だった。イザヤの声こそが、この試みの時にユダ王国を救ったのである。神様の驚くべき幻と、神の民のために用意され栄光を見たイザヤに並ぶ人物はいない。こう考えてくると、イザヤ書が預言書の筆頭に出てくるのはきわめて当然のことである。
イザヤ書は、構造の点からすると、小さな聖書といえる。聖書が66巻から成り立っているように、イザヤ書は66章から成り立っている。イザヤ書には、2つの大きな区分があるのと似ている。第一の区分は39章あり(旧約聖書は39巻)、第二の区分は27章ある(新約聖書27巻)。
イザヤ書は、1章から35章は、ユダ王国とこれに関係のある9つの隣接する異邦人諸国に関する預言が記されている。36章から39章には、ヒゼキヤの時代における歴史的記事の挿入である。この部分は列王紀下18章から20章、あるいは歴代志下29章から32章に記されているものと同じである。40章から66章には、ユダヤの将来の祝福とメシヤの来臨の預言で、バビロン捕囚よりの回復及その救いの成就であるキリストの再臨とその時における民の幸福とを預言している。そして私たちが忘れる事の出来ないのは、イザヤ書53章のキリスト受難の預言だろう。私たちを救うために十字架の苦しみを受けて下さった主の愛を知るからだ。(伊藤)
エレミヤ書 2008年5月4日、05月11日
エレミヤ書は、預言者エレミヤ自身の言葉と彼についての伝記で出来ている。エレミヤ自信の生涯について預言者中最も詳しくわかるだけでなく、この書の書かれた由来も記されている。それは36章で、いったんエホヤキム王によって焼き捨てられたのち、改めて記録されたうえ書き加えられ、そのために弟子のバルクが忠実に働いた事が記してある。ただ、その各章が年代順になっていない点が困るところだ。7章と26章はエホヤキム王時代に神殿で語った説教とその結果を伝えている。11章はその前のヨシヤ王の宗教改革に関係あるようだ。21、24、29章の各章はゼデキヤ王時代、25、35、36章はまたエホヤキム王時代である事は明らかだ。
大きく分けると1章から25章はエレミヤの預言。26章から45章はエレミヤの伝記。46章から51章は諸外国への預言で、52章は歴史的補足である。イザヤ書の場合も、36章から39章に歴史的記事があったように、時代を理解するためには重要であるのだろう。52章は列王紀および歴代志の最後の部分にあたる。
預言者エレミヤは、エルサレムに近いアナトテという、小さな村の祭司の子に生まれた人で、若くして神の召しを受けた。その時の光景がすでにイザヤとは対照的で、神殿のおごそかな幻もなく、「聖なるかな」という天使の声もない。預言者活動期間は40年でイザヤと肩を並べるが、二人の性格が対照的であったように、活動ぶりも対照的だ。イザヤは神の助けを確信して民を励ました。一方エレミヤは、神がこの民を捨てたと叫び、敵に降伏するように勧め、神の審判に従えと涙と共に語り続ける。エレミヤは涙の預言者と言われる。しかもエレミヤ自身が苦しみつつ、抵抗しつつ、神の言葉を伝えている。彼は自ら語りたくないことを語らされ、語るまいとすれば苦しくなる。こうした心の戦いを記している預言書は他にみられず、これがエレミヤ書の特色だ。そして私たちがエレミヤ書に引きつけられるのは、エレミヤの生涯とキリストの生涯が、きわめて似ているからだろう。二人とも「悲しみの人で病を知っていた」。二人とも自分の民の所にきたのに、同胞に受け入れられず、排斥され、孤独となり、人に捨てられた。二人が民を思って涙を流す所には、誰もが真実な愛を感じる。 (伊藤)
哀歌 2008年6月1日、08日
「哀歌」は、「嘆き悲しむ」あるいは「大声で叫ぶ」と言う意味です。哀歌とは、国が滅びてその都が破壊つくされた悲惨な状態を悲しんで歌った歌です。したがって、愛の歌である雅歌とは対照的な、暗い、悲しみの歌です。詩篇の中にも、これほどまとまった、一つの主題による悲しい歌はないでしょう。
哀歌がエレミヤ書のあとに置かれているのは、エレミヤの作であろうと考えられているからであり、古来ユダヤ人及びキリスト教会で信じられてきたことです。最初の70人訳(ギリシャ語に訳された旧約聖書)には、第一章の冒頭に「かくてイスラエルが捕らえ移され、エルサレムは荒れ廃れたが後、エレミヤ座して泣き、エルサレムのためにこの哀歌をもって悲しみ、しかしていう……」と附記され、ラテン語訳にもこの言葉が用いられている。
哀歌の最初の4つの詩は、紀元前587年のネブカデネザルのバビロニア軍隊によるエルサレム滅亡の様子を語っているのは明白だと思われる。2章と4章は、その直後のものかと想像されるように、リアルな内容が記されている。
ユダヤ人にとって、この都の崩壊は、彼らの美しい、難攻不落の首都の滅亡というだけにとどまらない。エルサレムは特別な意味で神の都であった。神の宮がそこにあり、それは神がその民と共に住まわれるために選ばれた場所であった。エルサレムが焼き払われ、神の宮が滅ぼされ、住民が捕らえ移された時、人々は神が自分たちを敵に引き渡された事を知った。このような事は、他では起こり得ないことであった。この哀歌は単なる国民の苦しみや屈辱ではなく、神が彼らの罪の故にその民を見捨てられたという、より悪い事についての著者の嘆きを示しているのである。(伊藤)
エゼキエル書 2008年7月6日、13日
エゼキエル書は、旧約の黙示録ともいえよう。象徴的な言葉が多くあり、難解の書である。著者のエゼキエルという名前は「神は強められる」という意味だ。エゼキエルは、神が彼に与えた務めのために、神によって強められたからだ。エゼキエル書は、三大預言の書で、イザヤ書の66章には及ばないが、エレミヤ書の52章に近い48章もある。しかし、内容はかなり違ったもので、親しみにくいところもある。エゼキエルは第一回捕囚(B・C597年)の頃、若くしてバビロンに移され、そこで預言者として活動を始めてから、やがて祖国の滅亡を聞き、続いて捕囚となってきた人々のために同じところで働いたと思われる。エゼキエル書の1章の初めには、「……わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。これはエホヤキン王の捕え移された第5年であった」と記されている。エゼキエルのことについては、彼が集会の指導者であったこと、遠くでエルサレムの滅亡を聞いたこと、彼の妻が突然死んだことのほかは、あまりよくわかっていないところが多い。
彼の預言は、まずその召命に3章をさき、前半に厳しい審判の言葉がみられる。後半はその反対に励ましと希望になっており、その間に諸外国への預言がはさまっている。エゼキエルは最初から計画を立てて本書を書いたと想像される。エゼキエルは、22年間、神によって遣わされ、勇気を失った捕囚の人々に神のメッセージを伝えた。エゼキエル書の中に「主の言葉がわたしに臨んだ」という表現が35回も出て来る。こうしたことを思うと、神の最大の伝達は、その心が砕かれ、彼らと同じ苦しみを体験した神のしもべらによってだけ成し遂げる事が出来ることを教えられる。そしてエゼキエル書は、今日のクリスチャンの書でもある。神の時はいつも、ユダヤ人に対する神の取り扱いによって啓示されるからである。37章に記された「枯れた骨の幻」は、イスラエルの回復の預言である。AD70年に離散の民となって母国を失ったユダヤ人が、パレスチナの地に聖書の約束どおりに戻ってきた。イスラエルは1947年以来、自分の国土に帰還を続けている。ユダヤ人が動くとき、神も行動しようと身構えておられることを誰もが教えられる。(伊藤)
(伊藤)
ダニエル書 2008年8月3日、10日
「ダニエル」という名前は、「神は私のさばき主」という意味である。この書物は、主人公ダニエルの名前にちなんで名づけられている。ダニエルは、バビロン王ネブカデネザルがユダ王国に来襲した第一回の時(紀元前606年)に捕囚としてバビロンに連れて来られた。彼はまだ14、5歳の少年であったと思う。彼は貴族の出身で、優れた能力と知恵の持ち主であった。ダニエル書の前半を見ると、ダニエルは預言者というより、むしろ政治的な面で活躍している。最初の6章は70年に及ぶバビロンの歴史的事件に言及している。残りの章は彼の第一人称で書かれ、未来の事件を記す一連の幻を記録している。
イスラエルの歴史の初期に、神は神の人ヨセフをエジプトの宮廷に置かれたが、今再びこの重大な危機の時、捕囚の全時代のためにバビロン帝国の政治の中心地の最も影響を与えることが出来る地位に、ダニエルを置かれたことを知るのである。
ダニエル書は、私たちが生きているいまの世界歴史で、キリストが現実に王であられ支配されて事実をはきり持たせる書である。私たちは常に「主は今も生きておられる」ことを証していきたいものである。ダニエル書7章に記されているダニエルが見た幻は、まさしくその通りに世界歴史が動いたのを見て、歴史の支配者の存在を確信せざるを得ないものである。バビロン、ペルシャ、アレキサンダーのギリシャ、そしてローマ帝国の後に、反キリストが現れるというものだ。この時、ダニエルの見た幻は「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。」(7:13後半)というものである。この幻の解釈は、迫害があるが結局「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの国は永遠の国であって、諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う」(7:27)という。この預言は、主イエス・キリストの復活、昇天、天の御座につくことにより、キリストの勝利が確定し、その支配が始まっている事を示している。神は死んだ神ではなく、今も生きて働いておられ、私たちを愛し導いていることを覚えて感謝しよう。(伊藤)