館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(3)

 列王紀上 2007年1月7日

 
 士師記は、ヨシュアの死からサムエルが生まれる前までのイスラエルの歴史を扱っている。このおよそ二百年の期間、全国の民を統一する政治的指導者も現れず、国民を統一する組織も出来ていなかったから、各部族は各々独立した行動をとる傾向があった。このような状況の中で、神様は士師(さばきづかさ)と呼ばれる人々を遣わされた。彼らは政治的、軍事的指導者であった。読んでいくとどうかと思われるような士師もいる。小林牧師は、時代が三流だから、こうした二流の人々も神様によって用いられたのだと言っていた。
ヨシュア記が勝利の書と呼ばれるのに対し、士師記は失敗の書と呼ばれる。なぜならイスラエルの民が神様に背き、偶像礼拝と不道徳を際限もなく繰り返しているからである。士師記には、このような背信―さばき―悩みの中からの叫び―士師(さばきつかさ)による救い、というパターンが繰り返されている。しかし士師記は、神様がイスラエルの民がどれほど失敗を繰り返したとしても、絶えざる憐みをもってご自身の民の祈りに答えられる愛の神様である事をも示している書である。(伊藤)

 列王紀下 2007年2月4日、11日

 
 北方のスリヤ人との戦いが激しくなって、アハブ王が戦死したあと、その子ヨラムの時代にエヒウを励まして次の王朝を起こすきっかけを与えたのが、エリヤの弟子のエリシャでした。アハブの残した勢力を一掃するためには、相当思い切った方法が必要だったからである。ただしエヒウも「ヤラベアムの罪(偶像礼拝)を離れなかった」という残念な状況である。
 エヒウの第七年に立ったヨアシ王からの南王国の王たちの列伝が多く記されている。最も注目されるのは、ヒゼキヤ王やヨシヤ王であろう。ヨシヤ王の時代の宗教改革は、申命記に多く記されている「心をつくし精神をつくし……」という句が多い事から、申命記改革などと呼ばれたりするそうである。一例をあげると、列王記下23章25節には「ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。」と記されている。
 北王国のヤラベアムという王や、オムリ、アハブ、エヒウなど、それぞれ王としては相当の業績をあげたようだが、本書ではそういうことは問題にしていない。要するに神に忠実であったか、神の前に正しく歩んだかということが大切と考え、その論法で北王国がまず滅び、次に南王国が滅びたのだと本書は述べているのである。だから、王も民も共に、神に問われている歴史書と呼ぶ事ができると思う。 (伊藤)

 歴代志上 2007年3月4日、11日

 
 歴代志上の1章を読み始めると、すぐにマタイによる福音書1章に記されているカタカナばかりの系図を思い出すに違いない。通読の意欲をなくすところである。それも何と9章まで続くのだからマタイによる福音書とは比較にならない。題名のもとの意味は「日々の出来事」というようだが、歴代志という代々の歴史記録という意味であろう。しかし内容は順々に書いているわけではない。省略してあるところもかなりある。
 創世記から列王記まであるが、初めはほとんど系図ばかりだ。おもな記事はサムエル記上の最後から始まり、サムエル記下を経て、列王紀上下と及んでいる。すなわちサウル王の死からダビデ・ソロモン以下の王たちについて記してある。
 ダビデの青年時代には触れず、逃亡時代も簡単である。しかし、祭司やレビ人など、神殿に奉仕する人々については非常に詳しく、人名がおびただしく並んでいるのが特徴だ。
 ソロモンについては、即位に至るまでの兄弟間の争いには触れず、彼の複雑な妃などとそれに伴う偶像礼拝や、さらに彼に対する不平や謀反についても記していない。
ダビデは神殿を建てる願いを述べるが、預言者ナタンを通して主に退けられる。理由は、彼が多くの血を流してきたからだと指摘される。ダビデは、主なる神様から拒絶されて残念だったろうが、くじけることなく後継者のソロモン王をお立てくださった主をほめたたえている。さすがダビデだ。28、29章に記されたダビデのソロモンへの諭しと神への祈りは、リーダーとなるものの心しておくべき教訓である。 (伊藤)

 歴代志下 2007年4月15日、22日

 
 歴代志下には、ソロモンの治世の事が詳しく記されている。そしてダビデの場合と同様に、神殿建築について詳しく語られている。それから以後の王たちについても、南王国の王たちの列伝を記し、北王国の王たちについてはほとんど記していない。南王国の王は、レハベアム、アサ、ヨシャパテ、ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤなどが代表的な王である。
 列王記には滅亡の状態が詳しく、総督ゲダリヤの任命と暗殺とバビロンにおけるエホヤキンについて述べているが、歴代志には滅亡について簡単に書くだけで、すぐペルシャ王クロスの元年に飛んで結びとしている。ただし、王と民の今までのあり方を批判して、その結論としての滅亡であり捕囚である事を強調して書かれている。
 それが36章15、16節には「その先祖の神、主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされたが、彼らが神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしったので、主の怒りがその民に向かって起り、ついに救うことができないようになった。」と記されている。
 しかも、最後は、ただ列王紀より後の時代に触れるだけでなく、はっきりした希望で結ばれている。あの恐ろしいバビロニヤ帝国も滅ぼされて、ペルシャ時代となり、クロス王の理解ある布告が宣言されたということを物語っている。それは「主の言葉の成就するため」(歴代下36:21、22)とあるように、神様のご計画があくまでも恵み深く、救いを実現してくださることを示しているからである。(伊藤)