館林キリスト教会

伊藤牧師コラム集 66巻のラブレター(5)

 詩篇 2007年9月16、23日

 
 詩篇は旧約聖書の中で最も愛読されている書であることは間違いないだろう。毎日のデボーションで詩篇や箴言を読むという人は多い。あなたも、「私は詩篇の第何篇が好きです」と容易に答えることが出来るのではないだろうか。詩篇という書名のヘブル語の原題は「賛美の書」を意味している。詩篇には150篇の詩が載せられている。それは神様を礼拝するために使用する目的で、長い歳月にわたって集められたものだ。神の民が、神殿再建後に用いた祈りと賛美の書である。自分の持っている旧新約聖書を手にとって、だいたい真ん中位を開くと詩篇にあたる。偶然かも知れないが、確かに詩篇は人間が体験する中心を占めるような出来事を記している。
それは、欠乏の中にある者すべて、即ち、病んで苦しんでいる者、貧しく欠乏を覚える者、囚人で追放者である者、危険の中にある者、迫害された者の書である。また罪人のための書であって、神のあわれみと赦しを告げている。それは神の子供たちの書で、彼を主との新しい経験に導きいれてくれる。それは完全な神の律法について語り、それを守る者に祝福を宣言している。
この詩篇は5巻(1巻<1−41篇>、2巻<42−72篇>、3巻<73−89篇>、4巻<90−106篇>、5巻<107−150篇>)から成り立っている。宗教改革者マルチン・ルターは「詩篇は小さな聖書である」と言っている。確かに至言であると思う。というのは、旧約の全体がこの中に写しだされているといえるからだ。その意味で、じっくり腰を落ち着けて、深く味わって読みたいものである。珠玉のような詩が実に多いことに気づくでしょう。(伊藤)

 箴言 2007年11月11、25日

 
 箴言は、気のきいた、簡潔な教訓と言う意味があるように思われる。漢和辞典で箴言の「箴」の字を引くと、「着物を縫う針」のこととある。今はマッサージの一つの方法で針を使うものがある。昔中国では、針は竹製であったから、その針をつぼに刺して人を癒したのであろう。すると箴言とは、針のような言葉となる。確かに、ここに記されている言葉は、私たちの人生の大切な部分に気づかせてくれる言葉が数多くある。原語では類似とか比較の意味があると言われる。英語では「諺(プロバーブ)」と訳される。具体的なことやものに比べて、またはなぞらえて、詩の形で表わした教訓である。巧妙な表現が、箴言と言うのは当を得ているので、それが諺のように口から口に伝えられたようである。箴言の特長を考えるために、「−はーのようだ」とか、「−はーより尊い」、とかという形を拾って見るのも面白い方法だ。似たものを比べる場合と違うものを比べる場合とがある。1章7節には「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」という有名な言葉がある。この言葉は9章10節、15章33にも繰り返され、本書の鍵となる言葉だ。この「はじめ」とは、最初の段階を示すだけでなく、一番大切な所、要点ともいうべきことである。主を恐れるとは、神を信じ仰ぐ事であり、それが全てにおいて最も大切なことである。福音伝道教団顧問の羽鳥明先生は、著書「今日の知恵、明日の知恵」の中で、箴言を毎日読むことを勧めている。箴言は、毎日読んでいくと一ヶ月で読み終わる。箴言は実際的に生きる大きなヒントを与えてくれることは確かだ。山室軍平は、民衆の聖書の中で、「ある人の説に『世に流布されるような諺に、6つの要素がある。第一、簡単なこと、第二、明瞭なこと、第三、通俗なること、第四、比喩的であること、第五、古いこと、第六、真実なこと』とある。箴言、概してその全部がこれらの条件に該当している。」と記している。(伊藤)

 伝道の書 2007年12月9、16

 
 伝道の書という題は、ヘブル語のコーへレスからつけられている。コーヘレスは「召す」または「集める」の意味より出た言葉であって、演説のために民を召集する者を意味した伝道者と訳される。新共同訳聖書は「コヘレトの言葉」と言う題をつけている。この伝道者は自ら「ダビデの子、エルサレムの王」と称し、またその知恵のあること、大工事をし、大きな富と高い地位を得たこと、婦人のことなどを考えると、著者がソロモンと思うのは自然であろう。
 伝道の書は、ソロモンが堕落より回復した晩年の作と言われる。そこには、人は知恵によっても、事業によっても、地位・名誉によっても、また肉欲によっても満足は得られない。これらは皆空であり風を捕らえるようなものに過ぎない。真の幸福は、ただ神を恐れ神に仕えるにあることを示している。それゆえ、まず「空の空、空の空、いっさいは空である」に始まり、最後に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と結論する。

 雅歌 2008年1月6日、13日

 
雅歌の題名は、漢訳聖書によるもので、原語では「もろもろの歌の中の唯一の歌」、すなわち「最も優れた歌」という意味である。しかし読んで見ると、この「雅歌」という漢字の印象と少しずれていることを感じると思う。一読してこれが愛の歌だということはすぐわかる。雅歌を聖書の聖典に入れるかどうかは初代教会から全然問題はなかったが、愛の歌、それも性欲を刺激するような言葉が並べられているので、ユダヤ人の間では30歳に至るまでは読むのを禁じられていたのだという。雅歌のストーリーは、パレスチナの北方に住む、シュラムの女と呼ばれている美しい娘がおり、一人の若い羊飼いと相思相愛だった。ソロモン王は、彼女の美しいことを知って、彼女を愛し自分の妻としようとしたのである。ソロモン王は、彼女を王宮に連れてきて、その栄華を示し、彼女を歓待し、説得して、その心を自分に向けさせようとしたのである。しかし彼女は、若い羊飼いへの初めの愛は変わらず、ソロモン王の求めを拒絶した。これが雅歌のあらましだ。
  しかしどういう意味の「愛」かということは、昔から盛んに論じられている。神と民と、さらには、神と教会との関係における愛だと考える。キリスト教会は一般にこれをキリストとその新婦である教会との関係を歌ったものだとするのが伝統的考え方だ。
山室軍平は、民衆の聖書で、この雅歌の教訓を「第一は、雅歌は、一夫多妻の悪風が盛んに行なわれる時代に、あらゆる誘惑を退けて、どこまでも一夫一婦の清い男女の関係を重んじなければならないことを教えている。第二に、それと同時に、シュラムの女が、若い羊飼いに全幅の愛をささげたように、わたくしどもクリスチャンが、わが身と霊魂とを残らずイエスにささげ、貞節を守って変わらないことを教えている」と述べている。
 雅歌全体のテーマである「愛」は、三度繰り返されている「愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように」(2:7後半、3:5,8:4)においてその本質が歌いあがられている。愛は、強制されたり、かき立てられて生じるものではありません。  (伊藤)