礼拝のメッセージ 1999年12月
「羊飼いの礼拝」 ルカ福音書2:10〜14 小林 牧師
1999年12月5日
わたしは若いとき、クリスマスが近づくと興奮して、子供たちのためにいくつもクリスマスドラマを書き、装置や背景、衣装なども研究し、演出も指導して一人で張り切っていた。
ベツレヘム郊外で野宿をしていて、天使からキリスト誕生の告知を受けた羊飼いのドラマなどは、よく覚えている。それぞれの子供の声やゼスチュアさえ、記憶に刻まれていてなつかしい。
有名な俳優は、腕試しに「一人芝居」ということをやる。
私も今朝の礼拝で、この羊飼いの場面を、解説付き一人芝居のようにお話をしようかと思っている。
羊飼いが羊を飼う間に、いつか遠くなって、家に帰れなくなることがある。その時は羊と一緒に寒い野原で野宿をする。寒くて単調でつらい時間だ。
彼らはどんなふうに寒さをしのぐのか。どんな気持ちだったか。またどんな話をしていたろう。どうして天使はキリスト降誕の最初の告知に彼らを選んだのだろう。わたしたちの想像はふくらむのだ。(小林牧師)
「ロトの妻を思い出せ」 ルカ福音書17:28〜33 伊藤副牧師
1999年12月12日
ルカによる福音書十七章三二節に「ロトの妻のことを思い出しなさい」と記されてあります。
ロトも妻も、汚れたソドムの町に住んでいました。彼女は神様がこの町を滅ぼす時、「うしろをふりかえって見てはならない」という警告を無視したために、塩の柱にされました。これは現代の私たちに対する警告であると思います。
パウロが、旧約聖書で先祖たちに起こった出来事や経験を、私たちの信仰の反省として引用し、「これらのことが起こったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」と言っています。
文語訳では「警告としてであって」が「鑑となれり」となっています。古典には、歴史のことを「鑑」という意味に用いて、大鏡、増鏡などという書物もあるほどです。すなわち、歴史は「鑑(鏡)」であり、自分を反省させる手本になるということです。
今朝は、「ロトの妻」に起こったことから私たちへの勧めを学びたい(伊藤)
「博士たちの来訪」 マタイ福音書2:1〜2 小林 牧師
1999年12月19日
貧しい羊飼いたちがベツレヘムで、生まれたばかりの救い主を礼拝してから約一ヶ月半後、こんどはエルサレム市民が、不意に訪れた「らくだ」の行列に驚かされました。
数十頭か、百頭か、りっぱに装備された「らくだ」が、一頭また一頭と、いくらでも市の門をくぐって入って来るのです。たくさんの荷物。大勢の家来たち。武装した護衛兵。まるで王様の行列のようでした。
先頭の、白いひげをつけた立派な人が、驚いている市民の一人をつかまえると、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」と聞きました。
何も分からない彼は、あわててヘロデの王宮の方を指さしました。そこで行列は王宮に向かいましたが、いったい彼らがやって来た「東の方」とはどこなのか。「博士」とはどんな人たちなのか。それを知っていたら、市民はもっと驚いたはずです。
今朝はこの話をしょう。(小林牧師)
「実を結ぶ枝」 ヨハネによる福音書15:1、2 市川副牧師
1999年12月26日
私たちは、この一年神様の深いご愛と変わらない恵みを十二分にいただいてきました。感謝を捧げましょう。同時に、神様の私たちへのご期待を思いめぐらしましょう。
旧約聖書には、神様に選ばれた民であるイスラエルは「ぶどうの木」として繰り返し描かれています。にもかかわらず「どうしてあなたは変わって、悪い野ぶどうの木となったのか」と、神様の嘆きの声が記されています。
ヨハネによる福音書一五章には、キリストを信じる私たちひとりひとりは、キリストというぶどうの木につらなる枝であると言われています。神様は枝である私たちが実を結ぶことを願っておられます。また、実を結んでいる枝に対しては、もっと豊かに実を結ぶことを願っておられます。
実を結ぶための条件は何でしょう。
農夫にたとえられている神様のお取り扱いによって結ぶ実について学びましょう。豊かな美しい実を結ぶことによって、神様に喜んでいただくことは私たちの何よりの願いです。 (市川)