館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1999年10月

「キリストと堕落した女」 ヨハネによる福音書4:1〜6 小林 牧師 

1999年10月3日
 出会いとは不思議なものだ。
 結婚も出会いから始まる。
 また 「あの先生に出会ったのでわたしは文学を志すようになった」「あの時、あんな人に出会いさえしなければ、こんな堕落の人生を送らなかっただろう」などと言うケースもある。
 サマリヤのある村に、堕落した女性がいた。彼女は生まれつきの美貌で、ちやほやされたのがかえってわざわいしたか、何人もの男性遍歴を重ね、とうとう人交わりのできないような、堕落女に落ちぶれたのだ。
 この地方では、女たちの水汲みは早朝と決まっていた。女たちは一日の仕事始めに、張りきって井戸に集まり、おしゃべりも楽しんだ。
 しかしこの女性はその人目を避け、誰もいない昼頃を見はからって、一人で水汲みをする習慣になっていた。
 ある日、いつものように昼頃井戸に来てみると、ひとりの旅人がそこに休んでいた。これが彼女とキリストとの出会いだった。
 この出会いの結果は? (小林牧師)

「見出された価値」  ルカによる福音書15:8〜10 伊藤副牧師 

1999年10月10日
カバンも靴も着物もブランド品、車は中古よりも新車、家はアパートよりも庭付きの一戸建てというふうに、より上等なもの、より高価なものを求めるのは、人間の心情だと思います。
 人はだれでも価値のない物よりも、価値のある物を求めるものだと思います。
 それは物に限らず、私たちの人生のあり方に対しても同様だと言えるでしょう。すべての人が「価値ある人生を送りたい」、「生きてきて本当によかったと思える一生」でありたいと願っているのではないでしょうか。
  しかし多くの場合、自分の大切な人生を、世に流され、流行に心を奪われたりして、振り返ってみると自分の一生って何だったのか、と悔やんでいるのではないでしょうか。聖書はその原因を、人が神を無視して生き、神から失われた状態にあるからだ、と教えています。
 今朝は、失った一枚の銀貨を捜す婦人のたとえ話を通して、私たちを捜し出そうとしている、神様の愛と招きについてお話したいと思います。(伊藤)

「まことの平安」 ヨハネによる福音書14:27 杉崎 弘牧師 

1999年10月17日
 今朝の礼拝は、福音伝道教団運営委員長、桐生教会牧師、杉崎 弘先生が(というと重々しいが、実は彼は館林の出身で、子供の頃からこの教会で信仰に育てられた牧師だから、当教会には子供時代からおなじみの人も多い)「まことの平安」について話してくださる。
 平安は大切だ。心に平安がなければ食事もおいしくない。夜も眠れない。健康も維持できない。
 家庭の平安がなくなれば、どんな金持ちの家でも幸福はない。
 教室に平安がなければ、教育はできない。子供たちもすぐに「キレル」。
 國の平安が乱れれば、国民の生活も幸福もいっさい失われる。
それなのに個人も国家も、平安を失いつつあるのが現代の悩みだ。
 しかしキリストは「まことの平安」を与えてくださる。先日の、我々夫婦の金婚感謝礼拝にも、与えれたみことばは「キリストの平安」だった。
 今朝の礼拝においても、また別の方面から「平安」のメッセージが語られる。期待しよう。(小林牧師)

「キリストと有名な宗教家」 ヨハネ福音書 3:1〜4 小林 牧師 

1999年10月24日
 「人さまざま」などというが、その人々の生涯もまたさまざまだ。
 それゆえキリストが伝道旅行の間に出会った人も、さまざまだった。
 十月三日のお話では、キリストはサマリヤでひとりの婦人に出会って彼女を導いた。彼女は自由奔放に男性遍歴を重ね、堕落した婦人だった。
  今朝のお話には、立派な宗教家が現れる。彼はパリサイのニコデモだった。
 パリサイは、生活規制のきびしい厳格な宗派だ。
 人間は規則や規制は苦手だ。だから今は学校も社会も、規制緩和の時代だ。
 しかしパリサイは聖書の教えを細かく解釈し、実生活に厳格に当てはめ、規制の多い生活を送った。なぜか。それは神に愛され、神に喜ばれるには、聖書の教えを守るのが唯一、最高、最適だと信じたからだった。しかもニコデモは、パリサイの指導者として信頼、尊敬され、若いパリサイを教育する人物だった。
 しかし実は彼にも、人知れぬ問題があったのだ。それゆえ彼は夜、人目を避けてキリストを訪問した。(小林牧師)

「ビデオ レーナ・マリア」 伝道の書12:1、2 市川副牧師 

1999年10月31日
 私たちは、ひいては返す波のように喜びや悲しみがこもごも押し寄せる日々を過ごしています。さざ波なら何とか切りぬけられます。しかし、悲しみの大波を受ける時もあります。
 大波で倒れても再び立上がり、歩み続ける勇気と力を持ちたいものです。
 レーナ・マリアさんは両手がなく、左足は右足の半分ほどで生まれました。彼女は人生の始めから身障者と言う悲しみと困難の大波を受けたのです。しかも、生涯にわたる大波でした。
 しかし今、レーナさんは「輝く笑顔」と勇気をいだいて生活しています。
 「あの輝く笑顔がうらやましい。レーナさんのほうが、私よりずっと幸せな人生のような気がする」。これは、ある人の感想です。
 レーナさんは聖書の神様が「私に命をさずけ、私を愛し、一緒にいて助けてくださる」と実感し、神様に愛され生かされていることを知っています。
 彼女のように、私たちも真の神様を信じるなら、自分の存在の意味を知り、生きる事ができるのです。(市川)