礼拝のメッセージ 1999年9月
「わざわいなるかな」 イザヤ書6:1〜5 小林 牧師
1999年9月1日
今の世の中は狂った時代だ。おとなしい子供は不登校で、元気な子供は授業破壊。家庭が悪いのか、先生が半端なのか、文部省が悪いのか。
若者たちは前途の希望理想を失い、無気力なその日ぐらしがやっとだ。そして思いもよらない犯罪が横行する。
国民はほとんど無利子で何年も銀行に奉仕を強いられ、おまけに税金までどさどさ継ぎこんでも、銀行の大穴はふさがらない。大蔵省は銀行を監督しているのか結託しているのか。勤労者は無抵抗で酷使され、失業者は全国に溢れる。
世界中紛争だらけで、難民は各地に放浪する。われわれはこのありさまを嘆き悲しみ恐れている。
預言者イザヤも同じだった。彼は当時のイスラエルの状態を嘆いて「わざわいなるかな」ということばを繰り返して訴えた。
しかしそこに、イザヤが神殿で礼拝を行なう場面が出てくる。この時神様はイザヤをどう取り扱い、どう彼に語りかけたか。わたしたちも彼とともに静まって、神の声を聞きたい。(小林)
「種まきのたとえ話」 マタイ福音書13:1〜9 松本 完一
1999年9月12日
イエス様は自然界と人間生活を、深い愛と鋭い観察眼をもって眺められた。
爽やかな朝の日の出、静かな夕方の日没、いちじゅくの木やぶどうの実、いばらやあざみの生態を良くご覧になった。ガリラヤの春秋、野に咲く百合の花、小麦畑にある雑草、風にそよぐ葦を見られた。また、蛇やさそりのことまで、そのたとえ話に用いられた。
鋭いがやさしいまなざしで、大工の仕事や漁師の働きを知っておられた。羊飼いや農夫の苦労も知っておられた。
マタイ一三章の「種まきのたとえ話」は、そのような日常生活の中の、ありふれた題材を用いて、お得意のたとえ話の形で話をされている。
しかしその内容は奥深く謎めいており「耳のあるものは聞くがよい」とイエス様は言われる。
すなわちここでイエス様は、神の国(天国)の奥義について話されたのだ。同じお話が、マルコ福音書の四章、ルカ福音書の八章にも出ている。
今朝はこれを学びましょう。(松本)
「金婚式の証」 ヨハネ福音書20:19〜21 小林 牧師
1999年9月19日
キリストは最後のお話の時「平安」について話し、「平安」の約束をお与えになりました。また復活の後、最初に弟子たちにお会いになった時、彼らのために「平安」をお祈り下さったのです。
私は自分でお願いして、今朝は「小林牧師夫妻金婚感謝礼拝」を開いていただきました。本当にありがとうございます。
わたしはここしばらくの間、自分たち夫婦の五〇年にわたる生涯のことを、いろいろ考えさせられていました。その時「平安なんじらにあれ」という、文語訳のみことばが、くりかえし心に浮かんできました。
「ああ、わたしたちのために十字架におかかりになったキリストは、あの復活の朝と同じに、わたしたちの平安を祈っていて下さったのだ」という思いがこみ上げてきます。
わたしたちの健康も、夫婦の生活も、家族の関係も、教会も、平安に守られてきたのだ。それで金婚式も迎えられたのだ。という気持ちでいっぱいです。 主のみ名に栄えあれ。(小林牧師)
「一デナリの報酬」 マタイ福音書20:1〜10 伊藤副牧師
1999年9月26日
イエス様の時代のイスラエルにおいても、「労働と報酬」は今日と同様に切実な問題でした。
ぶどう園の主人は、収穫のために労働者を雇おうと、早朝から夕方まで何回も市場に出かけ、何名かの人と雇用契約をしました。
そして一日の仕事が終わった時主人は、夕方の五時から来た者たちから始めて、早朝から働いた者たちまで順次、約束どおりの賃金一デナリづつを、同額支払ったのです。
朝から働いた日雇い労働者たちは「不公平だ」と主人に不平を言い出しました。早朝から働いた彼らの不平はごく自然のことですし、今でしたら深刻な労働問題になりかねません。
しかし、このたとえ話は、一般の労働問題について教えるものではありません。イエス様は、神の国の救いが、神の恵みによって平等に与えられることを教えたいのです。そしてこの一デナリは、キリストを信じる者に平等に与えられる「救い」を意味するのです。
今朝はこの真理を学びたい。(伊藤)