館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1999年5月

優先順位 創世記13:1〜7 伊藤副牧師 

1999年5月2日
 アブラハムの甥のロトは、今までアブラハムに従って行動してきました。そしてロトはアブラハム同様、多くの財産を持つようになりました。 ところが彼らの財産であるたくさんの羊、牛のために牧草地は足らなくなってしまいました。やがて牧草地のことで、アブラハムとロトの牧者たちとの間で争いが生じ、二人が別れなければならなくなった時、アブラハムはロトに優先選択権与えて、別れることにしました。 ロトはこの時、自ら決断を下さなければならないことになりました。それは彼の信仰の本質が試される時でもありました。 ロトはよく潤っていたソドムの有利に見える地を選び、天幕を張りました。一方アブラハムは、ヘブロンの地に移動し、そこに祭壇を築いたのです。この二人の選択の違いは、後の人生を大きく変えたのです。 今朝は、健全な信仰生活を送っていくために、私たちは何を優先順位として選択していくべきかアブラハムに学びたいと思います。(伊藤)

無分別な者 テトス3:3〜6 小林牧師 

1999年5月9日
 テモテの第一、第二書簡からテトスへの手紙、ピレモンへの手紙を総称して「牧会書簡」と言われる。その内容が共通して、教会を指導し信徒を養育する、牧師の職務について教えるところが多いからだ。 そのうち、テトスはテモテほど有名ではない。しかしテモテと並ぶパウロの高弟として、重く用いられた様子は、パウロの手紙のなかにたくさん見える。 やがてテモテは大エペソ教会の牧師になった。ほとんど全アジア教会の総監督の地位である。 しかしテトスは、クレテ島の伝道牧会の任命を受けたようだ。クレテ島は小さな島で、その住民は素質が悪く、彼らがクリスチャンになり、教会が形成されても、なおその素質は低かった。テトスは独特の苦労をしたろう。 彼に送られた使徒パウロの手紙の中に「彼らを指導しようと思ったら、『キリストの憐れみがなかったら、わたしも彼らと同然だったのだ』という謙遜な思いが必要だ。決して『先生顔』ではいけない」と教えている。(小林牧師)

百卒長の信仰 マタイによる福音書8:5〜10 市川副牧師 

1999年5月16日
 マタイによる福音書八章に、ひとりの百卒長が登場します。百卒長とは、大帝国ローマの軍人で、百人あまりの兵士を指揮する隊長でした。 彼は、幼い頃からローマ人の生活習慣を身につけ、ローマの教育を受け、宗教も、考え方や生き方もローマ風だったでしょう。 今は、国家の命令でローマから遠く離れた小国ユダヤの町、カペナウム駐屯地の勤務が続いていました。 ユダヤにいる間、聖書に基づいたユダヤ人の宗教に触れ、彼の心と生活に大きな変化が生じたのです。 聖書は、この百卒長の信仰の姿を私たちに伝えています。それは、ユダヤ人にもまさる信仰の姿でした。 彼はローマ軍の、百卒長の権威を知っていました。彼は、それを当てはめて、信仰によって、全能の神、キリストの権威をも受け入れたのです。そして今、しもべの病気のために、キリストのお言葉は、そのまま全能の神の命令と信じました。そして、そのとおりにしもべは癒されました。 (市川)

教会・牧師・会衆 テモテ第二2:19〜21 小林牧師 

1999年5月23日
 第二テモテ二章は「教会論」です。 教会は、家庭、学校、職場など、全て人の集まる場所の模範になるべきところです。だからクリスチャンにとってこれを勉強すること、また教会生活の中でその訓練を受けることは、大切であり、幸いなことです。 まず教会の土台は神様、キリストです。「揺るぎない土台」と書いてあります。神戸地震で醜態をあらわしたような、危なっかしい土台ではない。 そこで奉仕する牧師に対する教えもあります。これは牧師の自粛自戒に必要です。 次に会衆のことも出てきます。会衆も金の器、銀の器、土の器のように、毛並みから学歴、素質などさまざまです。神様はそのどんな器でも、差別なく用いてくださると教えてある。すばらしいことです。 けれどもその器はきれいなものでなければならない。罪や汚れに染まって、悔い改めもせず、洗い落しもしないままではだめです。 これが今朝の勉強です。(小林牧師)

価値ある発見 マタイ福音書13:44〜46 伊藤副牧師 

1999年5月30日
 マタイによる福音書一三章には「畑に隠された宝」と「良い真珠」の二つのたとえが記されてあります。 「畑に隠された宝」のたとえの舞台になったイスラエルは、昔から周りを大国に挟まれ、戦争のあるたびに大軍が通過し、穀物や家畜を奪われたので、人々は戦争が起こると金銀財宝等の貴重品を地下に隠したのです。 ある日、ひとりの男が畑を耕していると、偶然に隠してあった宝物を見つけました。そこで男は、自分の全財産を処分して、その畑を買い取ったのです。 「良い真珠」のたとえが語られた二千年前のローマとギリシャの時代、神秘的な輝きのある真珠はダイヤモンド以上に尊ばれていたということです。 ある商人がたくさんの真珠を持って商いをしていました。ある日、非常に値打ちのある真珠を見つけました。そこで男は、自分の持ち物全部を売り払って、この真珠を手に入れたのです。 今朝は、この二つのたとえ話が、天国を発見することの価値にたとえられていることについて学びたい。(伊藤)