礼拝のメッセージ 1999年3月
慰めに満ちたる神 コリント第二の手紙1:3〜7 伊藤副牧師
1999年3月7日
コリント人への第二の手紙一章3節から7節の短い間に、「慰め」と「患難・苦難」という言葉が交互にしるされています。 人生には,苦しみ悩みがつきもので、避けてとおることができないものだと思います。 しかし、まことの神様は、いかなる苦しみの時にも逃れる道を備え、私たちの傍らに立って慰めてくださるお方です。 パウロは、神様がイエス・キリストの父であられると同時に、「あわれみ深き父」であり「慰めに満ちたる神」であられると言います。それはパウロがキリストに信じ従って行く中で実感し、体験していた神様だからです。 そしてパウロが、苦難に満ちた一生を送りつつ、なお勝ち得て余りある生活をすることができたのも、この神様を信じ、この神様に支えられていたからです。 今朝は、この苦難の世に、慰めに満ちたる神様が、私たちに与えてくださる「慰め」について学びましょう。(伊藤)
改心後のパウロ 使徒行伝13:44〜48 平山 透
1999年3月14日
昔大阪の教会で特別集会の講師を頼まれたとき「先生の留守には誰が話しますか」「信徒です」「そんな信徒は何人ぐらいいますか」「一〇人以上です」と答えて、羨ましがられたこともある。今朝は、その一人、平山 透さんが礼拝説教のご用にあたります。 平山一家は実に忠実な信徒で、日曜日には、家族そろって日曜学校から参加、両親は教師で、子供たちは生徒です。(子供も大きくなって多少それぞれですが)続いて礼拝。午後の初心者集会も休みません。 また木曜夜の祈祷会も、ほとんど休まない。 正月や夏休みに、子供たちをおじいさん、おばあさんのいる実家につれて行く時でも、出発は必ず礼拝を済ませてから、帰りは必ず、礼拝出席に間に合わせます。これが一〇年以上も続いているのは、すばらしいことです。 また器用で親切で、何か頼むと、夜の集会の後でもすぐ寄ってくれます。休日や夜間を使って、大小さまざまな仕事をしてくれます。私の家でも「平山作品展」でもできそうです。
エルサレム入城 マタイによる福音書21:1、2 市川副牧師
1999年3月21日
イエス様は洗礼をお受けになって、約三年の間イスラエルの国を行きめぐりました。この三年の間、イエス様は、福音を語り、人々のために祈り、病を癒し、伝道に没頭なさいました。 今、公生涯三年目の「過ぎ越しの祭り」が訪れました。イエス様は弟子たちとエルサレムに向かっていました。 「過ぎ越しの祭り」はイスラエルの人々が毎年守る大切な祭りです。かつてイスラエルの人々は、エジプトで何百年もの間奴隷でした。やがて、神様の導きによって、モーセを先頭にエジプトを脱出しました。この時の神様の御業と助けを記念するのです。 「過ぎ越しの祭り」には、エルサレムの神殿で礼拝を守るために、イスラエルの国中から人々が集まりました。それだけでなく、各国で生活していたユダヤ人たちが、この時エルサレムに集まって来るのでした。 イエス様は、エルサレムを目前にして、ろばの子にお乗りになって、城壁に囲まれたエルサレムにお入りになりました。これは「救い主」の入城でした。
ベロニカの救い ルカによる福音書8:43〜48 小林 牧師
1999年3月28日
エルサレムには「ビアドロロサ」と呼ばれる通りがあります。「悲しみの道」という意味で、キリストが十字架刑の判決のあと、死刑場のゴルゴダの岡まで、自分が架けられる十字架を背負わされて歩いた道だと言われています。この道中にもいくつかの出来事があって、その場所は、しるしや彫刻で記念されています。 そのひとつに、十字架の重さで倒れたキリストに駈け寄って、汗をぬぐうためにハンカチを差し出している、婦人の姿が刻まれた場所があります。伝説によると、このハンカチにキリストの顔が浮かび出たといいます。 この女性がベロニカで、ベタニヤのマルタ、マリヤや、マグダラのマリヤなどとともに、キリストを愛し、熱心に仕えた女性たちのひとりでした。 今朝は、初代教会では有名だった、この女性の救われたお話をしましょう。群集の中での出来事ですが、わたしたちはこの場面に、四種類の人物を見ることができます。そしてそれは、わたしたちの鏡にもなります。(小林牧師)