館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1998年11月

教会について マタイ福音書18:19、20 小林 牧師 

1998年11月1日
 教会に行って何をするの」とよく聞かれます。 教会ではまず賛美歌を歌いますね。賛美歌は西洋音楽の原点のひとつで、すばらしいものです。たいていの人は「賛美歌はいいですね」と言います。 牧師のお話があります。聖書は信仰と人生の大切な教科書ですが、ただ読んでは分かりにくいところがあります。お話はある意味で聖書のわかりやすい解説です。また神様からわれわれに与えてくださるメッセージなのです。 また、お祈りがあります。これは神様に向かってわれわれのお願いを申し上げるのです。なれない人は自分でお祈りしなくても、みなさんのお祈りに心を合わせることによって、心に平安を経験するでしょう。 教会には、牧師を始め、先輩クリスチャン、このごろ教会に来はじめた人。若い人、老人、いろいろな方がいます。あなたはすぐ彼らと友達になるでしょう。そして一生安心して付き合えるよい友達ができるでしょう。 教会はそういうところです。

生活の基礎  マタイ福音書7:24、25 宮田 政信 

1998年11月8日
 宮田政信氏は、今年の二月、お父さんの宮田 東氏を天に送った。 ご承知のように、宮田家で最初に救われたのは、東氏の奥さん、宮田せきさんだった。やがてご家族が全部救われてクリスチャン・ホームが形成されたのは、せきさんの召天後三十年も経ってからだが、なんと言ってもせきさんの証と祈りの結果だったと思う。 東氏も救われて忠実な会衆となり、教会の多くの方々に愛されていた。その東さんは、神のみ心によって、平安のうちに、しかし突然天に召されたのだった。親孝行な政信さんや奥さんにとって、大きく深い悲しみだったことは察せられる。 この間、政信氏たちご家族は、いろいろ神様のお取り扱いを受け、次第に悲しみから解放されつつあると思う。 今朝は宮田政信氏が、この悲しみと祈りの間に教えられた、貴重な神様の教えの数々を話してくださるようだ。どんな時にも、神様は慰めと教えをもって、悲しみと弱さのなかの心を、満たして下さるのは感謝だ。

聖書の中心 ヨハネ福音書3:16 市川副牧師 

1998年11月15日
 ヨハネによる福音書三章一六節について「聖書を一言で言い表すとしたら、この一節を挙げることができる」「聖書が失われても、この一節が残るなら人は救われる」などとと言われます。これは聖書の中心のみことばです。 私たちすべての人間は、おいしい食べ物でも、やがて腐ってゆくように、自分の罪のために滅びなければなりません。 この原則は、犯罪者にも、善良な市民にも、健康な人、病んでいる人、豪奢な人、貧しい人にも日本人、外国人にも、世界のすべての人に該当します。 しかし神様は、そのような滅びゆく私たちを愛して、ひとり子イエス・キリストを送ってくださいました。キリストは人間の罪をあがない、救うために、十字架について死なれました。これによって神様の一方的な愛による救いの道が用意されたのです。 ここに示された「滅びの運命」と「永遠の命の約束」。このみことばに導かれてキリストを信じ、永遠の命をいただく人は何と幸いでしょう。 (市川)

精神的自給自足 ピリピ4:10〜14  小林 牧師 

1998年11月22日
 パウロは例のようにここでも、ピリピ教会が、贈り物(サポート)によってパウロの伝道事業に参加しているのを賞賛し、今回もまた、エパフロデトの持参した贈り物と、彼を代表者とするピリピ教会の奉仕に対して感謝している。 しかし同時にパウロは「わたしは贈り物を期待してこう言うのではない」とその信仰の態度を語るのだ。 サポートによって生活し事業を行なうものは、自然にサポートを当てにし、サポートの多からんことを期待する。そこに物を貰うもののいやしさも生じ易い。パウロはその紙一重の誤りによって、わが身と神の御名を汚さぬよう、祈りと自制をもって自分の魂を守ったのだ。いまそれを証する。 「わたしはどんな境遇にあっても足る事を学んだ。神の助けによって、富にも貧しさにも平然と処する秘訣を心得ている」とは本当にすばらしい証だ。 ある人はこれを「信仰の自給自足」と言った。実にこれこそ本人にとっては真の満足幸福の秘訣。また実生活の証の要諦というものだ。

聖書について 詩篇119:105  小林 牧師 

1998年11月29日
 今朝は聖書についてお話します。専門的になるとむずかしいから、「聖書って何が書いてあるの」という疑問。「聖書はどんな風に読み始めるのがいいか」という質問、などに答えるつもりで、分かりやすくお話しましょう。 聖書は一冊の本として読むことができます。つまりまとまっています。しかし実は聖書は書き始めてから書き終わるまでに、千五百年以上かかったし、また著者、つまり聖書を書いた人も三十人以上になります。その六十六冊の書物が集まっているのです。だから聖書は人類の遺産とも言うべく、もともと不思議な本なのです。 それゆえ聖書の本当の著者は、彼らを導いた神様だと言えます。それを、テモテ第2には「聖書は神の感動によって書かれた書物だ」と言っているのです。 わたしたちは聖書によって、神様のことや自分の生涯の意味を勉強します。また神様のみ心を知ります。また個人的に、その時その時、聖書の中から神様のみ声を聞きながら、神とともに生活して行くのです。