礼拝のメッセージ 1998年7月
パウロとマルコ マルコ福音書14:48〜52 小林 牧師
1998年7月5日
最後の晩餐は、キリストと弟子たち
の、水入らずの秘密の集会だった。もしこの会合が他人に知れると、危険だったからだ。
さて彼らは集会の後、深夜に出かけてゲッセマネに着いた。キリストの血の汗に満ちた苦悶の祈り。いぎたなく眠る弟子たち。そこにユダに導かれた兵隊が来てキリストを逮捕した。
その時である。そっとこの一部始終を見ていた一人の少年がいた。彼は当然兵隊に怪しまれた。兵隊が彼を捕まえると、その手に残ったのは一枚の亜麻布だけで、裸になった少年は機敏に逃げてしまったのだ。
おそらく彼は、寝床から起きて、亜麻布一枚を身にまとい、こっそりキリストたちの後をついてきたのだろう。
ということは彼は、最後の晩餐に二階座敷を提供した、あのエルサレムの信者の家の子供であったに相違ない。誰も見ていなかったゲッセマネの園の様子が、福音書に記録された情報は、彼から出たのかも知れない。そしてこの話は、「マルコの福音書」だけに出ている。
希望の門 ホセア書2:14、15 伊藤副牧師
1998年7月12日
私たちの人生には、二度と立ち上がれないような挫折、失敗があります。それは、イスラエルの民の歴史にもありました。
イスラエルの民は、神の約束によってエジプトを出、ヨルダン川を渡って、約束の地カナンに入りました。そして難攻不落と言われたエリコの城壁を打ち破り、カナンの中心部へ向かって行くため小さなアイの町を攻めました。ところが、この時初めて敗北したのです。聖書はこの時の絶望を、「民の心は消えて水のようになった」と記しています。
指導者ヨシュアは、悲しみにくれ、長老たちと共に、神の前にひれ伏して祈り、神の憐れみを求めました。その時神は、ヨシュアにこの敗北の原因を示されたのです。そこでヨシュアは、神の命令に背いて罪を犯したアカンとその一族をアコルの谷で処罰しました。こうして再び立ち上がったイスラエルは、アイの町を攻め、勝利を得たのです。
今朝は、この「アコルの谷(悩みの谷)」を「望みの門」と変えてくださる、神の恵を学びたいと思います。(伊藤)
行きづまり 使徒行伝16:6〜10 小林 牧師
1998年7月19日
「行きづまり」とはいやな言葉だ。
しかしわれわれは時々行きづまって困ることがある。
会社の経営に行きづまる。失業してなかなか就職先が見つからない。病気になって回復の見通しがつかない。など、いろいろだ。
パウロ先生とその一行も、第二回伝道旅行の途中、トロアスで行きづまって、動きがとれなくなった。
彼はその時の様子を「彼らはアジアで語ることを聖霊に禁じられた。……ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊が許さなかった」としるしている。つまりいろいろな困難、妨害で予定通り進めない、そのかげに、神様のみ手があることを感じたのだ。
前にはエーゲ海があって、ひとまたぎで対岸のギリシヤに行ける。
しかしキリストもパウロも、アジヤ人、黄色人種だから、白人種で全く伝統も文明も違うギリシヤに、伝道の手を伸ばすことは、夢にも思わなかった。
しかしいま、彼らの行きづまりはギリシヤ伝道のチャンスに変った。
クリスチャンの勇気 ローマ人への手紙8:31 小林 牧師
1998年7月26日
今朝は洗礼式があるので「信仰の勇気」について勉強しよう。
聖書には神に仕えた大勢の人物が出てくる。そして「信仰の勇気」は彼らの共通点の一つだ。
聖書の人物だけでなく、たとえば新島襄先生などは、出身が武士だっただけに、そのクリスチャン生活も、勇気凛々たるものだった。
アメリカ帰りだから、外務省、文部省などから高給で招かれたが、先生は「これからの日本には一人の新島でなく、何百人の新島が必要だ」と言って、十数名の学生を集めて、京都に「同志社」という塾を始めた。いまの同志社大学の前身だ。
先生がある時、勝 海舟に「あなたの事業は、何年くらいかかるか」と聞かれて「三百年くらいはかかりましょう」と答えたので、海舟はその勇気に驚いたが、以後彼らは親友になった。
京都の若王子墓地にある、新島先生のお墓の立派な文字は、勝海舟の揮毫である。
我々も「信仰の勇気」のため祈ろう。