礼拝のメッセージ 1998年6月
アブラハムとダビデ ローマ4:1〜5 小林 牧師
1998年6月7日
ローマ書四章は、人が神の前に義とされるのは、本人の行為善行、あるいは割礼洗礼のような儀式によるのではなく、ただ「信仰による」のだ、という真理をあらためて教える。
そのために、イスラエル人の先祖であり「信仰の父」と呼ばれるアブラハムと、敬虔な生涯と指導力で、イスラエルに史上最高の繁栄栄光をもたらした、理想の王ダビデを例に引いて、説明しているのだ。
また「logizomai=ロギゾマイ」という言葉を使って「義とされる」ということの本当の意味を説明する。
三節に「義と認められた」と言う中の「認める」がすなわち「ロギゾマイ」で、これはもともと「計算する」意味なのだ。「計算」は、動揺しやすい感情や思い込みでなく、正確な事実に基いて行われ、またその結果を示す。
全部で二五節のこの章のなかに、「ロギゾマイ」が一一回も出てくるのも、いかにこれが救いにとって、大切な概念であるかを示している。
さあ今朝はこれを勉強しよう。
信仰の実証 第一ヨハネ1:1 篠原 貞雄
1998年6月14日
今朝も、信徒の篠原貞雄兄が説教の奉仕に当たって下さるが、説教する信徒はなかなか勇気がいる。
むかしスポルジョンは少年の頃、ある日大雪でいつもの教会に行けないので近所の教会に行くと、牧師が留守で代わりに朴とつな老信徒が説教をした。
その説教は良く分からなかったが、彼はしきりに指を挙げて天を指しながら「彼を仰ぎ望むものは救われる」と言い「ルックアップ」と繰り返した。スポルジョンはそのころ救いについて考えていたが、この説教で単純に信ずる事を悟り、これが救いの経験につながったそうだ。どんな説教も神様はお用いくださるから、お互いに励まされる。
大説教家になったスポルジョンがある時、説教をする会場の下見に行った。
声のテストのつもりで「見よ、世の罪を除く神の子羊キリスト」と叫んだ。そのとき遠い階上で仕事をしていたペンキ屋が、驚いて刷毛を落とした。そこへまた声が響いた。彼はやがて救われた。
率直に語られる「みことば」を、神様はいつも用いてくださるのだ。
信仰による救い マルコ福音書5:25〜28 伊藤副牧師
1998年6月21日
イエス様がカペナウム付近の岸辺で大勢の群衆に話していた時、会堂司ヤイロが、イエス様の前にひれ伏し、「幼い娘が死にかかっています。助けてください」と懇願しました。イエス様は彼の願いにすぐ応え、弟子たちと共にヤイロの家に向かいました。
ところが群衆の中に、十二年間も病気の婦人が紛れ込んでおり、その婦人はイエスさまの着物にでも触ればきっと直る、と思っていました。そこでイエスさまに近づき、後ろから着物のすそに触ったのです。するとたちどころに血の元がかわき婦人の病気は直りました。
この時、イエス様は自分の力が出ていったことに気づき、振り返って群衆を見回し、「わたしの着物に触ったのはだれか」と言われました。癒されたこの婦人が、自分の身に起こったことを隠さないで、ありのまま言い表し、神と人々の前に公にするように促すためでした。それはまたこの婦人の信仰を確かなものとし、賞賛を与えたかったからです。
今朝は、この婦人の癒しを通し、「信仰による救い」を学びましょう。(伊藤)
クリスチャンの武装 エペソ6:10〜13 小林 牧師
1998年6月28日
洗礼教室が進んでいる。
ある人は、充分な備えのために、もう少し祈りと待ち望みの期間が必要かも知れない。一生に一度の式だから、慎重であるのも当然だ。またある人はもう、洗礼を受ける準備ができたかも知れない。いずれにせよ、皆さんのお祈りをお願いする次第だ。
さてある人が洗礼を受けて、公式の教会正会員として出発するについては、本人も教会も、一種の緊張を禁じ得ない。そこで今朝はエペソ書から「クリスチャンの武装」についてお話したい。
「武装」はきつい言葉だ。しかし船舶、急行列車、飛行機など、みな流線形に設計されている。それは空気や水の抵抗を予想するからだ。クリスチャンもまた、環境や、誘惑や、迫害や、悪魔の抵抗を覚悟し、それらの抵抗を排除し、勝利して進む用意が必要なのだ。
ここに「悪い日」とあるが、誰にも特にむずかしい困難な時期がある。健康だった身体。幸福だった家族。親しかった友人。それらが突然、病気、無理解、誘惑者に早変わりもするのだ。