館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1998年5月

最初の教会 使徒行伝1:12〜14 小林 牧師 

1998年5月3日
今朝は礼拝に続いて「一九九八年度定期決算総会」が開かれ、決算審議その他が行われるほか「総会議員名簿」についても報告説明がある。
 総会議員名簿は、毎年役員会で作成する。正会員は即、議員だが、病気や遠方居住者で、総会に出席できない人もいる。そういう人にも総会の報告を送ったり、祈って頂きたいので、議員になって頂いていた。
 だが、あまり欠席議員が多いと、定足数(議員の出席数が半分以下だと総会が開けない規則)がそろわず、流会になる心配もあるので、やむをえず今年は、出席不可能な何人かに議員を辞退して頂いた。それで総数がいくらか減ったので、それを報告、説明するのだ。
 また、なかなか大変な会計事務の奉仕のために、今年から役員会の責任のもとに「会計部」を設置し、会計事務をお願いする事を提案する。部員は今までの担当者に加えて、佐藤竹夫、近藤浩樹の二人を推薦したいのだ。
 決算報告とともに、祈りの内によく審議して頂きたい。

神の賜物 エペソ、2:8 市川副牧師 

1998年5月10日
エペソ人への手紙は、使徒パウロによって、獄中で書かれました。
 そのパウロは、人間的な条件によって人が神に受け入れられるとすれば、最適な人物だったと思います。自分について「ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者」と言っているほどです。
 しかし彼は、律法を守ろうと努力を重ねたにもかかわらず、救いの確信、魂の平安は得られず、かえって罪の自覚に苦しみました。それが実状でした。
やがて彼は「人が救われるのは、神の恵みと、神の賜物だ。それは信仰によるので、決して行いによるのではない」と言いました。
 私たちには、自分で自分にいろいろと条件をつけ、その条件が満たされるまでは救いを受けられない、と思い込む傾向があるのではないでしょうか。しかし、救いの条件は「キリストの十字架」それだけで十分。私たちは、キリストによって差し出された救いを、信仰の手を延べて受け取ればよいのです。(市川)

洗礼式について マタイ福音書28:18〜20 小林 牧師 

1998年5月17日
先週から礼拝に続いて、牧師館離れで「洗礼教室」が始まっている。
 そこで今朝は「洗礼とは何か」ということをお話したい。
 洗礼は一つの大切な儀式である。
 人間の生活には、大切な儀式はなかなか多い。誕生祝い。入学式。成人式。入社式。結婚式。葬式などがあるが、これらは、人生の折り目折り目を区切る、意味のある式だ。
 結婚式などはしない「内縁関係」今の言葉で「DINK」などもあるが、やはり結婚は、質素であっても式によって、大事な人生の転機を確認、公表したいのが普通だ。
 洗礼式は「わたしはクリスチャンになりました」という大切な事実を、確認公表する儀式で、聖書のなかにキリストによって命じられている。
 教会は、ほとんどが儀式で成り立っている神社やお寺に比べて、儀式の少ない宗教だ。それはキリストの教えによっているのだ。しかしそのキリストは同時に、洗礼と聖餐と二つの儀式を守るようにお命じになったのだ。

教会と牧師と会衆 テモテ第二の手紙2:15 小林 牧師 

1998年5月24日
 「テモテへの手紙」は、使徒パウロが、若い牧会奉仕者で、愛弟子のテモテに送った手紙だから「牧師の注意」のような教えが多い。ここにも「牧師は聖書の真理を正しく教えなさい」と書いてある。実はこれは大変な仕事なのだ。
 もちろん信者に対する教えも多い。一九節以下には、クリスチャンの土台について教えている。
 クリスチャンも生活の難しさは一般の人と同じだ。その上誘惑に勝ち、迫害に耐え、奉仕に励むというように、自分に期待するところは大きい。それゆえ自然に、自分の弱さを感じないわけにはゆかず、また迷いも生ずるだろう。
 しかし彼の生涯には、神が据えた堅固な基礎がある。そこに「主は自分の者たちを知る」と刻んである。この基礎は
いつもクリスチャンの心と信仰生活を支えるのだ。
 主は、クリスチャンを選ばれた。彼のために死にたもうた。そしていつも一緒にいてくださるのだ。これが信仰の基礎だ。我々も、いつもこれを確認して生きる事が大切だ。

兵士と選手と農夫  第2テモテ2:1、2 小林 牧師 

1998年5月31日
 先週のお話の半分以上は、牧師の奉仕に関するものだった。珍しい事だが、これも神様の導きであって、必要なお話だったと思っている。
 第二テモテ、二章二節には「その大切な務めを、忠実なひとびとに委ねなさい」とある。ある意味で牧師の奉仕は、忠実な大勢のクリスチャンたちにも、任せるように、との勧告だ。
 誰でもが牧師のように勉強はできない。またそんなに自由な時間を持てない。しかし忠実なクリスチャンは「及ばずながら、牧師の奉仕の一端をにない、牧師の働きを助けたい」と言う気持ちを持っている。
 パウロのテモテに対する勧告は「信者などはあてにしないで、なんでも自分でやるように」というのでなく、
「牧師の奉仕の一端をになうような
信者を育てるように、そしてその人たちに、奉仕のある部分を任せるように」
というものだ。
 実は「忠実な人」というその「忠実」は、「信仰」と同じ言葉で、これはクリスチャンというのと同じなのだ。