礼拝のメッセージ 1998年3月
マリヤの祈り ルカ福音書10:38〜42 小林 牧師
1998年3月1日
マリヤと言うと、キリストの母「聖母マリヤ」が有名だが、マリヤはユダヤでは普通の名前で、新約にも六人のマリヤが出てくる。今朝お話するベタニヤのマリヤもその一人だ。
彼女は聖書に三回、いつもひざまずい
た祈りの姿勢で出てくる。
ベタニヤはエルサレムから東に一キロぐらいの村で、東の眺望が死海まで開けて非常に景色がいい。
姉さんのマルタ、弟のラザロとの三人家族で、早くから一家そろってキリストを信じ、奉仕を喜びとしていた。
キリストもこの家族を愛して、エルサレムにいらっしゃる時にはよくこの家に泊まり、エルサレム活動の根拠地にされた。
ある日いつものようにキリストがこの家を訪問された。世話女房型の姉さんマルタは、キリストの訪問が嬉しくて、接待の支度に夢中だった。
マリヤはひざまずいてキリストのお話を聞いていた。
どこにもありそうな風景だが、問題も生じた。
強く雄々しくあれ ヨシュア記1:8、9 松本 完一
1998年3月8日
今朝は教会役員松本完一兄が、礼拝説教のご奉仕に当たられます。
礼拝説教の奉仕は牧師でも緊張する。ましてなれない信徒が講壇に立つのは大変です。みなさんも理解とお祈りをもってお話を聞いてください。
信徒は牧師と違って、実生活の渦中にいる。そこから生まれるメッセージには、牧師と違う生生しさ新鮮さがある。だから、時に信徒の方が講壇に立つのは必要でありいいことなのです。
松本さんが始めて教会に来た時のことは、昨日のように覚えている。寒い夜の少数の集会でした。詰め襟の洋服でくりくり頭の、まだ童顔の少年でした。その後も続いて忠実に集会に出席し、やがて熱心なクリスチャンになった。
時々ご家庭を訪問するうちに、家族とも親しくなった。その内に彼の結婚式の司式もさせて頂きました。
いまは長年勤めた郵便局の仕事を終え、おじいちゃんとして孫の面倒を見たり、教会役員、会計係、また教団運営委員として、余生を捧げて奉仕に明け暮れている。本当に幸いだと思います
神様の呼びかけ 創世記3:1〜9 伊藤副牧師
1998年3月15日
神によって最初の人アダムが、続いてエバが造られました。彼らは創造主なる神の戒めを破って罪を犯し、神の御顔を避け、エデンの園の木の間に隠れていました。このアダムとエバに対して、人からではなく、神の方から「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられた、と創世記三章には記されてあります。
一般に宗教とは、人間が神を探求する道と考えられています。しかし、迷子も親を探すが、探し当てるのは、親の側であるように、本当に人間を探しているのは神の側なのです。
キリストの「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」と言う呼びかけも、悩んでいる人、すなわち神がわからず、自分の犯した罪からも隠れることしかできない人に対する、救いと回復の招きなのです。
こうして神の呼びかけは、幾千年を経た今日に至るまで、あらゆる人々に投げかけられてきました。
今朝は、神の「あなたはどこにいるのか」という呼びかけに対し、私たちはいかに応答すべきかを考えましょう。
悲しみの日のマリヤ ヨハネ福音書11:1〜4 小林 牧師
1998年3月22日
キリストには毎日でも会いたいが、今エルサレムに彼が近づくのは危険だ。マリヤ一家はただ祈るのみだった。
ところがある日、お客が来たので出てみると、それはキリストと弟子たちの一行だったので、一家は喜ぶとともに不思議に思い、またその危険を危ぶんだ。
今日のキリストの表情には、一種の覚悟、緊張が見えた。キリストの今度の上京は、十字架の死を覚悟したものだったのだ。
歓迎の晩餐会が始った。死から復活したラザロはにこにこ座っている。例のようにマルタは一生懸命接待をしていた。さてマリヤは?
おそらくマリヤは愛の直感で、キリストの上京はただ事でないと、いち早く感じた。そしてかねてからの主のお言葉を思い巡らせば、私たちの罪の贖いとして、キリストが十字架におつきになる時がいま来たのか。そう思うとマリヤの心も緊迫した。
このキリストを、何をもっておもてなししようか。何をもって感謝の心を表そうか。
マリヤの奉仕 ヨハネ福音書12:1〜3 小林 牧師
1998年3月29日
キリストには毎日でも会いたいが、今エルサレムに彼が近づくのは危険だ。マリヤ一家はただ祈るのみだった。
ところがある日、お客が来たので出てみると、それはキリストと弟子たちの一行だった。一家は喜ぶとともに不思議に思い、またその危険を危ぶんだ。
今日のキリストの表情には、一種の覚悟、緊張が見えた。キリストの今度の上京は、十字架の死を覚悟したものだったのだ。
歓迎の晩餐会が始った。死から復活したラザロはにこにこ座っている。例のようにマルタは一生懸命接待をしていた。さてマリヤは?
おそらくマリヤは愛の直感で、キリストの上京はただ事でないと、いち早く感じた。そしてかねてからの主のお言葉を思いめぐらせば、私たちの罪の贖いとして、キリストが十字架におつきになる時がいま来たのか。そう思うとマリヤの心も緊迫した。
このキリストを、何をもっておもてなししようか。何をもって彼に感謝の心を表そうか。