館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1998年1月

新しい力 イザヤ書40:30、31 小林 牧師 

1998年1月4日
あけましておめでとうございます。
神様の恵みに支えられ、一九九八年の新年を迎えることができ、本当に感謝です。元旦には大勢の方が集まって「元旦祈祷会」が持たれ、新年早々祝福を経験しました。そして今朝は、今年初めの「新年礼拝」です。
新年というくらいだから、一般の家庭も、昨年の内に大掃除をすませ、いろいろ新しい道具なども買い整えて「清潔と新鮮な」出発を期待します。われわれも自分と生活の、ひいては教会の「清潔と新鮮」を期待するのです。
イザヤ書四〇章は、もし「神について明確に記された章を見たい」という場合に、推薦される章です。
我々は主の前に座して、このすばらしい神を思います。「主を思う思いは楽しみが深い」といわれた心境に導かれます。
 しかも彼は、我々から超越したお方でなく、その全能の力と恵みで、常に弱い我々を助けてくださるのです。「主を待ち望む者は新たなる力を得る」とは何というすばらしい約束でしょう。

ゆるがぬ土台の上に マタイ福音書7:24〜27 伊藤副牧師 

1998年1月11日
 家を建てるには、土台がしっかりしていなければなりません。地震の多い日本では、特にそうです。キリストが人々に教えられたユダヤの国(現、イスラエル共和国)でも、ある時期の大雨で、洪水となり、家が押し流されてしまうことがあるので、やはり土台に注意が必要でした。  ここに二人の人がいます。賢い人と愚かな人です。賢いとは、学力偏差値が高いという意味ではありません。たとえて言えば、賢い人とは、家を建てる時、土台をしっかり岩の上に据えるような人のことです。愚かな人とは、その反対だと言えます。  これらは、考えると当たり前のことですが、人生の、信仰生活とか建築とかになると、そのわかりきった当たり前のことが、当たり前にならないことが多いのです。キリストはここで、私たちの人生を建築にたとえていますが、果たして私たちの人生は何ものにもゆるがない土台の上に築かれているでしょうか。  今朝は、このことをご一緒に考えたいと思います。

神の子 ローマ人への手紙8:14〜17 小林 牧師 

1998年1月18日
 キリストは「あなたがたは『天にいますわれらの父よ』と祈りなさい」と教えてくださった。神様が父なら全人類は神の子で、また兄弟姉妹なのだ。  人は神によって造られ、養われている。また歴史も個人の一生も、神によって導かれる。たしかに神の子だが、しかしそのままでは、神の実感も失われ、神との交わりもなく、言わば「失われた神の子」なのだ。  しかし救われることによって、我々は「許され、受け入れられた神の子」となった。本当にすばらしいことだ。  この救われた神の子について、ローマ人への手紙八章には、二種類の神の子が出ている。  一つは「テクノン」で「幼子」のことだ。もう一つは「ハイオス」で、成長し大人になった神の子だ。  小さな子供は可愛いが、成長しなければ困る。親たちは「立てば這え、這えば歩け」と、その成長を望んでいる。  ただお父さんの土産を待つ「テクノン」と、お父さんにお土産を買って帰る「ハイオス」の違いだ。

祈りの家 出エジプト記25:8 小林 牧師 

1998年1月25日
 イスラエル人が神の命令によって最初に造った神殿は「幕屋」と呼ばれました。その当時、彼らはシナイの荒野を旅行中で、テント暮らしでした。だから神殿も折畳式、移動式で「幕屋」と言われたのです。  しかしダビデ、ソロモン王の時代になると、イスラエルは安住の地を得、平安と繁栄の時期に入りました。そこで神様は彼らが、時代にふさわしい神殿を建てることをお許しになりました。その結果、広大壮麗なソロモンの神殿が建てられたのです。  私たちも今、新しい会堂建築の業に努力しています。いつもお話するように、これは神様の摂理のうちに、「都市計画」というやむを得ない事情が生じたからです。もう一つは今の会堂では、会衆が入りきれなくなったからです。わたしは皆さんとともに、これは神の御心だと信じています。  私たちは広い駐車場。立派でなくても広い会堂、。すなわちクリスマス祝会ぐらいは、よそを借りなくてもできる会堂のために祈っているのです。