館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2000年12月

「大祭司キリスト」  ヘブル人への手紙7:22〜25 伊藤牧師 

2000年12月3日
 私たちは、罪深いこの世で生活しながら、いろいろな困難を感じると共に、クリスチャンとして自分の弱さを感じる事があります。
 昔から、人間の心は常に神の前に自分を代表してくれる仲保者、祭司というものを切望してきました。その結果、ユダヤの国では、祭司職を生み出していく結果となったのです。
 しかし、人間の祭司職はなんと言っても不完全なものでありました。ですからこの人間の切望は、真の大祭司であるキリストにおいて初めて満足を見出すことが出来るのです。
 こうした意味で、私たちはヘブル人への手紙を開きますと、大きな励ましと慰めをいただくことができるのです。私たちの救い主であり、真の大祭司であられるキリストが、「いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられる」と書いてあるとおりです。即ち、キリストが私たちのために神の前に取り持っていてくださるからなのです。
 今朝は、この大祭司キリストの働きについて学びたいと思います。(伊藤)

「救い主の系図」  マタイによる福音書1:1〜6a 伊藤牧師 

2000年12月10日
 新約聖書の冒頭は、片仮名の固有名詞で系図が長々と記されています。そのために、せっかく聖書を手にしながら、自分たちに関係のない名前のリストにうんざりして、聖書を読むのをやめてしまったという話を聞きます。
 確かに私たちにとって、マタイによる福音書の系図は一見何の関係もないようです。またマタイやルカが、一方で処女マリヤよりイエス様が誕生したと記しながら、ヨセフの系図をダビデやさらにアブラハムにまで遡らせているのも、矛盾したことのように思えます。
 しかし、著者マタイがこの系図から始めたことには明らかな意図があったのです。すなわち、アブラハムからイエス様までの系図をたどった中には、イスラエル民族を貫いて働いている神の救いの計画が、イエス様において成就し完成したことを示しているからです。イエス様こそ、旧約聖書の預言の成就であり、待ち望んでいた救い主の出現だったのです。
 今朝は、この救い主の系図についてお話したいと思います。 (伊藤)

「シメオンとアンナ」 ルカによる福音書2:22〜24 市川副牧師 

2000年12月17日
 救い主のご降誕を待ち望んでいた人たちの中にシメオンという人がいました。
シメオンについて、聖書に次のように書かれています。「この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」
 当時、ローマ帝国が広大な範囲の国々を支配統治していました。イスラエルもその支配下にあり、ローマ軍の百卒長やローマ兵がイスラエルにも駐屯していました。この様子は聖書によく記されています。イスラエルにローマ風の生活様式が入り込んできていました。
 また、かつては預言者によって神様のみ言葉が語られましたが、この何百年間、イスラエルに神様のみ言葉を語り継ぐ預言者は絶えていました。
 このようなイスラエルのために、神様の救いと助けを祈り求めていた人がシメオンでした。救いの鍵は、み言葉に預言されている、救い主の誕生によるのです。今、高齢のシメオンは赤ちゃんの救い主をその腕に抱くという光栄に与りました。(市川)

「クリスマスのしるし」 ルカによる福音書、2:8〜12 伊藤 牧師 

2000年12月24日
 私たちの身の回りには、いろいろな「しるし」が見られます。左手薬指の指輪は結婚のしるし、緑の十字は安全のしるし、そして自動車に貼ってある若葉マークは、運転初心者のしるしです。
では、クリスマスの「しるし」は何でしょうか。
クリスマス・ツリー、サンタクロース、ジングルベルなどがあげられるかもしれません。確かにこれらは歴史的いわれがありますが、聖書に記されているものではありません。 ルカによる福音書に記されてあるイエス・キリストの降誕の記事によると、最初のクリスマスは決してきらびやかなものではありませんでした。
天使は、野原にいた羊飼いたちに、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉おけの中に寝かされている一人の赤ちゃんこそ、あなたがたに与えられる救い主誕生の「しるし」だと、告げています。
 そしてクリスマスは、汚れた私たちの心にも、イエス様が住まわれる神の愛のしるしなのです。
 今朝は、このお話を学びたい。(伊藤)

「アサフの祈り」 詩篇77:11、12 市川副牧師 

2000年12月31日
 この詩篇の表題には、アサフという人がこれを作り、聖歌隊が歌ったとあります。アサフはレビ人で、歴代志などにあるようにダビデ王によって、賛美の奉仕のために選ばれ、彼の子孫は賛美の職務を継承しました。
 祈りには公の祈りと、この詩篇のように個人の祈りがあります。
 この詩篇の前半は、苦しい祈りの言葉です。どんな悲しみや苦しみがこれほど彼の心を、うなだれさせたのでしょうか。しかし、後半は、神様の恵みを思い起こす心が与えられています。きっと新しい恵みをいただいて再び立ち上がることができたのだと思います。
 私たちも、少し心が曇ったり、うなだれるとき、アサフの祈りを思い起こすのはよいことだと思います。彼はこれほど苦しいとき、心の思いのままを神様に話しています。親は、我が子が喜んでいるときも、泣きながら訴えてくるときも、変わりなく愛しています。苦しんでいるときはなおさらです。神様には肩の力を抜いて何でも話すのがよいのだと彼は教えてくれています。  (市川)