礼拝のメッセージ 2000年9月
「知られない神に」 使徒行伝17:22〜27 伊藤牧師
2000年9月3日
使徒行伝十七章には、使徒パウロがギリシャの都市アテネを訪れた時のことが記されてあります。
アテネは、知的な面で世界の中心都市でした。この聖書の時代には、ローマが世界を制覇していましたが、知的な教育はアテネに依存していたのです。当時のローマには、ギリシャの建築、美術、学問等が浸透していました。
ところが、アテネの人々の宗教心はとても幼稚でした。アテネには三千にも及ぶ宗教施設があり、至る所に人間の手で造った偶像が立ち並んでおり、町は神々でひしめきあっていたのです。これはアテネの人々の宗教心と呼ぶより、人々の宗教的不安の現れであり、宗教的無知を暴露しているようなものです。
パウロは町を巡る中で「知られない神に」と刻まれた祭壇まで見つけました。そこでパウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」と言って、その宗教心を正しい方向に向けようとしたのです。
今朝は、この真の神とはどういうお方か、パウロの説明を学びたい。(伊藤 )
「夕暮れ時の光」 ゼカリヤ書14:6〜7 伊藤牧師
2000年9月10日
今朝は、敬老礼拝です。
「老い」とは何でしょうか。「年をとる」いうことはどういうことなのでしょうか。
旧約聖書レビ記には「あなたは白髪の老人の前で起立しなければならない」と、高齢者に対し敬意を表わす勧めがあります。
中国でいう「老師」は尊敬語です。また日本でも「家老」や「老中」は重要な役でした。「老舗」には店の重みを感じます。
一方「老い」という言葉には、人生の「夕暮れ時」を感じさせるものがあります。体力の衰えと共に死を意識し始める老年を迎えた時、人生の「夕暮れ時」を誰でも実感すると思います。そうした中で健康に十分配慮しつつ、生き甲斐を見出し、祝福された人生を歩むにはどうしたらよいのでしょうか。
ゼカリヤ書の「夕暮れになっても、光がある」とは、キリストによって与えられる永遠の命の約束です。
それは、信仰によって誰にでも与えられる希望の光なのです。 (伊藤)
「主の家の後の栄光」 ハガイ書2:1〜5 伊藤 牧師
2000年9月17日
今日は、礼拝に引き続いて臨時教会総会が開かれます。
小林牧師は、市の都市計画で、教会が移転しなければならなくなった時、祈りのうちに教会の移築を「神の導きと命令」として積極的に受けとめ、教会の新たなる進展の機会としたのです。この件について、役員会で審議を重ね、総会の承認のもとに一九九六年からは会堂新築献金も開始しました。こうして昨年の二月二一日の総会で、「新たな用地を購入すること」と「そこに会堂を新築すること」を決議し、私たち全員のこととして受けとめたのです。
昔、バビロニア捕囚から帰還したイスラエルの民は、まず最初に神殿の建設を開始しました。しかしその建設は順調に進みませんでした。工事を進めるに際して、乗り越えねばならない幾つかの大きな山に直面したからです。しかしこれは、神様の恵の御手の中で起こされた訓練でもあり、民はこの訓練を通して真実の信仰を学んでいったのです。
今朝は、この教訓をハガイ書から学びたい。 (伊藤)
「アブラハムの祈り」 創世記18:1〜3 市川副牧師
2000年9月24日
十月の「特別伝道月間」に備えて教会ではいろいろな準備が行われています。お友達やご家族を誘うため祈りつつ備えていらっしゃる方も多いでしょう。
この期間、私たちは、家族や、友人、知人のために、地域の方々のためにお祈りできればどんなに幸いでしょう。普段よりも広く深く。結果がすぐに与えられることもありますし、長い年月忍耐を要する場合もあります。
しかし、幸いなことは、私たちが心にかけている以上に、主はその人々を心にかけ愛していてくださることです。
私たちは主の愛に励まされて、小さな祈りをささげ続けていましょう。
今朝は、アブラハムのとりなしの祈りをお読みしましょう。アブラハムは、腐敗の町ソドムとゴモラの滅亡を告げられました。彼は、正しい人たちが巻き込まれて滅びないよう必死に祈りました。
その姿は祈りのお手本です。そして私たちのためにとりなしておられる、主の愛を思い起こします。 (市川)