礼拝のメッセージ 2000年7月
「救いの達成に努めよ」 ピリピ人への手紙2:12〜13 伊藤牧師
2000年7月2日
ローマ人への手紙三章二四節を見ると、人間の「救い」は神の恵みであることが記されてあります。
ところがピリピ人への手紙二章十二節を見ると「自分の救いの達成に努めなさい」と記してあります。これだと人間の側でも信仰以外になすべきことがあるのかという印象を持つかもしれませんが、決してそうではありません。
聖書の中には「救い」について、三つのことが書いてあります。神学用語で、義認(義とされる)、聖化、栄化と言われているものです。
そして、パウロがここでピリピの教会の霊的成長を願って勧めている「救い」とは、聖化されること、つまり救われた者がきよめられていくという意味で使われているのです。
赤ちゃんの成長を誰もが期待するように、神様は、救われた者が救われている者にふさわしく、信仰において成長し、キリストに似るものとなっていくことを期待しているのです。
今朝は、こうした意味での「救い」について学びましょう。(伊藤)
「賢い生き方」 ルカによる福音書12:13〜21 伊藤牧師
2000年7月9日
人は誰でも安定した生活を願っています。そのためにさまざまな準備をしています。
私たちは将来、健康が約束され、経済的に心配がなくなれば、これで人生は安心と考えやすいのです。また、それが幸福だと思いやすいのです。この生活感は今も昔も変わらず、こうした人々の心理にこたえるような情報や商品が私たちの周囲に溢れています。
ところが、このような現代人の幸福感に対して、イエス様は、分かり易い一つの譬話で警告をしたのです。
このたとえ話に出てくる農夫は、勤勉に働いて多くの収穫を得、富を蓄積したのです。自他共に、「富める者、幸福な者、賢明な者」と認めていたでしょう。しかし神様は、この農夫に向かって「愚か者」と言われたのです。
なぜ、神様はこの農夫に対して、「愚か者」と言われたのでしょうか。神様が彼を「愚か者」と呼ばれた理由はいったいどこにあったのでしょうか。
今朝は、この農夫を反面教師として、「賢い生き方」を学びましょう。(伊藤)
「エベネゼル」 サムエル記上7:12、13 市川副牧師
2000年7月16日
「主の箱」はキリアテ・ヤリムの人々によってアビナダブの家に運ばれ以後二〇年間ここに置かれました。
この間、サムエルはイスラエルを続いて指導し、彼らが真の悔い改めに至るために奉仕しました。主の憐れみとサムエルの指導によって人々は次第に、罪を悔い改め主を求める志を与えられるに至ったのです。「…二〇年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた」(サムエル記上七章二節)とある通りです。
サムエルはミズパにイスラエルの人々を集め断食と悔い改めの集会を開きました。ペリシテの攻撃を恐れイスラエルの人々は「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください」(同七章八節)とサムエルに願っています。今までにない、主を求める彼らの姿です。サムエルは忍耐の奉仕のすえ、イスラエルに再び信仰をもたらしたのでした。
サムエルは「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、感謝と記念に石をすえ「エベネゼル」と名づけました。 (市川)
「新しいわたし」 コリント第二の手紙 5:14〜17 伊藤牧師
2000年7月23日
今朝は、洗礼式が行われます。
洗礼とは、イエス・キリストを信じた者がキリストのからだである教会に加わるために、キリストに対する信仰を目に見える形で表明する儀式です。
洗礼の方法については、この言葉が「浸す」(バプティゾー)という意味の関連する言葉からきていることで、新約聖書の時代には、全身を水に浸す方法で行われていたことがわかります。
しかし、それは原則であって、受洗する人の健康上の理由等がある場合には、父と子と聖霊の名によって頭に水を注ぐ「滴礼」という方法で行われることもあります。
このように方法の違いはありますが、洗礼式を行わない教会はありません。そして、洗礼という儀式を通して、クリスチャンになったことを人々の前に公に表明するのです。ですから、洗礼は、新生の恵みの象徴といえます。
そして新生したクリスチャンには、神様のみ業によって、「新しい使命」が与えられるのです。
今朝はこの恵みを学びたい。(伊藤)
「信仰の父アブラハム」 創世記12:1〜3 平山 透
2000年7月30日
鉄鋼王カーネギーが、忠実で有能な一職工を重役に栄転させようとしました。するとその職工は、「私はハンマーを振るうことは平気です。それには自信と誇りがあります。しかし重役の椅子は遠慮します。私をそこに縛りつけないでください」と丁重に断ったそうです。いかに彼が仕事に誠実・忠実であったかがわかります。
私はこの記事を読んで、平山さんのことを思い出しました。器用で親切なことと、謙遜で忠実な姿が重なるように思えたからです。
ある時、私が杉戸倉松教会のエキショー・ビジョンの台を作ってくれるように依頼した時、さっそく手がけてくださり、しかもピッタリしたものを作ってくださったことには驚きました。
今朝は、その平山さんが、「信仰の父アブラハム」という題で、説教のご奉仕をしてくれます。「説教の組み立て」という本もある位で、お話しを構成していくことは大変な作業です。しかし時間をかけてまとめ、みことばを説き明かしてくれるのは本当に感謝です。(伊藤)