礼拝のメッセージ 2000年4月
「父のもとに帰る」 ルカによる福音書15:11〜14 伊藤牧師
2000年4月9日
聖書のたとえ話で、最も良く知られているのはルカによる福音書十五章に書かれてある放蕩息子のたとえ話でしょう。
ここに登場する父親は神様のことで、息子はわたしたち人間をさしています。
弟息子は、父親のもとで何不自由ない生活を送っていました。しかし彼は、父親の指図に従うことが堅苦しく、窮屈のように思えました。父親のもとには自由がないと考えました。そこで父親に反抗して、自分の財産の権利を主張し、それを奪うようにして家を出たのです。けれども彼はまもなく行き詰まってしまいました。
現代の多くの人々が、この放蕩息子のように、自分勝手な自由を選びつつ、孤独と喪失感を抱いて悩んでいるのではないでしょうか。
そうした人々に対してこのたとえ話は、まことの自分を見出すために、人は神様のもとに帰る必要と、神様は、わたしたちが帰って来るのを待っておられることを教えているのです。 (伊藤)
「十字架の救い」 ルカによる福音書23:32〜34 伊藤牧師
2000年4月16日
イエス様の三十三年の地上の生涯で最後の週は、受難週と呼ばれています。イエス様が、十字架にかかられ、死んで、葬られたからです。そして来週の日曜日は、そのイエス様が復活したことを記念するイースターです。
イエス様が十字架にかかられた場所は、エルサレムに近いゴルゴダの丘です。そこに、ローマ軍の兵士によって三本の十字架が立てられました。中央には神の御子イエス様が、両側には、それぞれ犯罪人がつけられました。
ローマ軍の兵士は、冷淡な目で苦しみながら死んで行く犯罪人を眺めていました。群衆はこの異様な光景を、低俗な好奇心をもって見ていました。祭司長や役人たちは、「神の子なら自分を救え」などと嘲り笑いながら見ていました。
こうした中で、十字架につけられた一人の犯罪人がイエス様を信じて救われたのです。彼はイエス様が導いた最後の決心者です。
今朝は、この十字架上で起こった出来事を通し、イエス・キリストの十字架の救いと恵みをお話します。(伊藤)
「キリストの復活」 ヨハネ福音書20:1〜3 市川副牧師
2000年4月23日
キリストは十字架上で息を引き取られました。その日の夕方から安息日が始まろうとしていたので、ユダヤ人たちは死体の取り下ろしをピラトに願い出ました。
兵卒たちは死体を取りおろすために、キリストと一緒に十字架に付けられた二人の罪人の足を折りました。キリストの所に来てみると「もう死んでおられたのを見て、その足を折ることをしなかった」とあります。それでも尚、槍でキリストのわきを突き刺しました。「すぐ血と水が流れ出た」とあります。
弟子たちは恐怖のあまり逃げ去り、アリマタヤのヨセフとニコデモが、キリストのお体を取り下ろし新しい亜麻布を巻きました。お体は、岩をくり抜いた横穴式のヨセフの新しい墓に横たえられました。キリストの葬りはユダヤの埋葬の習慣に従って行われました。
安息日をはさんで三日目の朝早く、マグダラのマリヤたちは、香料と香油を携え墓に急ぎました。しかし、墓の入り口の大きな石は取りのけられ、キリストのお体は見当たらなかったのです。 (市川)
「信仰のランナー」 コリント第一9:24〜26 宮田 政信
2000年4月30日
今朝は礼拝の説教のご奉仕に、久しぶりに宮田政信氏があたって下さいます。
宮田氏が洗礼を受けたのは、一九九〇年でした。私が伝道師として館林教会に招聘された翌年です。すでに召天されたお父さんの東氏と共に、親子で受洗されたこと、私の息子も一緒だったこと等の喜びが重なり、よく覚えています。
宮田氏は、受洗なさると、誰に頼まれたわけでもなく自然と奉仕をしていました。そして、まもなく教会役員に選出され、教会の運営の中心に携わっていらっしゃいます。
宮田氏一家は、誰もが知るスポーツ家族です。お父さんの東氏、また息子さんの洋孝君を含め、家族みんなでテニスをやりに行くなど羨ましく思いました。
その宮田氏が、聖書の中で信仰をスポーツにたとえた箇所からお話します。パウロもオリンピック発祥の地ギリシャを訪れて、運動競技からたくさんのことを教えています。
今朝の説教題は、「信仰のランナー」です。耳を傾けてお聞き下さい。(伊藤)