館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2000年3月

「傷んだ葦」  マタイ福音書12:17〜21 伊藤牧師 

2000年3月5日
 マタイによる福音書一二章二十節で、キリストが「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」お方だというのは、私たちに深い慰めを与えてくれます。
 葦は、見映えのするものではなく、玄関や床の間に飾って鑑賞するものでもありません。その葦が傷んでいるというのです。また今にも倒れそうな人のことを「風前のともしび」と言います。そのともしびも消え、かすかにくすぶっている燈心はまことに傷ましい限りです。しかしキリストは、これらを折ることも消すこともないのです。
 私たちは毎日の生活の中で、落ち込むこと、暗く沈みがちになることもあります。あるいはクリスチャンとしての証が揺らぎ、その光は燃えさかる炎ではなくて、かすかなともしびのように感じることもあります。しかしキリストはそのような私たちを蔑視することなく、支え、力づけ、立ち上がらせるお方です。
 今朝は、この恵みと憐れみに富んでおられるキリストの、慰めに満ちた約束を学びたいと思います。(伊藤)

「イエスは道」  ヨハネによる福音書14:1〜6 伊藤牧師 

2000年3月12日
 イエス・キリストは十字架にかかられる前の晩、弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」と話しました。しかし「道を知る」ということは、何よりもまず、どこへ行くべきかを知らなければなりません。ですからトマスは「主よ私たちはあなたがどこへお出でになるのかわかりません」と言ったのです。
 するとイエス様は、三年半も一緒にいながらまだわからないのかと叱ることなく、「わたしは道であり、真理であり、命である」と答えられたのです。もしもトマスが正直に言わなければ、この素晴らしいみことばはイエス様の口から出なかったかもしれません。
 イエス様が、ここで語った「道」とは、神の国に至る道のことです。しかも「わたしを通してでなければ」と言われたように、神の国に至る唯一の道だということです。そして私たちは誰でも、神から遣わされたイエス様を通して、神の国に入れるのです。 
 今朝は、「イエス様こそ道である」というお話をしましょう。(伊藤)

「信仰による土台」 ヘブル人への手紙11:7 伊藤副牧師 

2000年3月19日
 ノアの時代の様子を、創世記六章十一節では「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」と記しています。人の心と行動とに強く根付いた罪の力は、人間世界のありとあらゆる分野に、その暴力を発揮し始めたのです。しかし暴虐と堕落でおおわれた罪の世界にもかかわらず、ノアだけは、神の前に恵みを得ていたのです。
 そして神は、このノアに二つのことを伝えました。一つは洪水による人類の滅亡で、もう一つは箱舟の建造です。こうしてノアは、神の命令によって、途方もない大きな箱舟を造りました。
 このことは神の存在を信ぜず、恐れない当時の人々にとっては物笑いの種でした。
 しかしわずか八名の家族だけは、ノアの言葉を信じ、その箱舟に入って救われたのです。箱舟を造り、またこれらの人々が救われたのは、神の言葉を信じ、受け入れたからです。
 今朝は、信仰の土台は、神の言葉を受け入れ、従うことによって築かれることをノアの信仰を通し学びたい。(伊藤)

「少年サムエル」 サムエル記上3:1〜5 市川副牧師 

2000年3月26日
 サムエルはエリのもとで主に仕えていました。彼を取り巻く環境には、よこしまなエリの子らホフニとピネハスの、主を恐れない言動が横行していました。エリはすでに年老い、子らへの甘い判断によって、彼らの重大な罪をはっきり指摘し、正す力を失っていました。
 しかし、サムエルはこのような境遇の勢力にも汚されず成長し「主にも、人々にも、ますます愛せられた。」とあります。(二章二六節)。このお言葉は私たちに、少年時代のイエス・キリストの姿を重ねて思い起こさせます。
 この時代は、モーセやヨシュアが神の言葉を受けてイスラエルを指導した時代とは異なり、今は、「主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。」のです。主の言葉を受ける備えのある予言者を見出すことが困難であったため、主はみ旨をお語りにならなかったのだと想像できると思います。
 このような中で、主は、一人の、しかもまだ少年のサムエルにみ声をおかけくださいました。 (市川)