礼拝のメッセージ 2000年2月
「信仰による出発」 コリント第二12:9〜10 伊藤副牧師
2000年2月6日
アメリカの名医で、ルイス・トマスが「フラジャイル 」という言葉を使って人間を洞察しています。
この言葉はガラス製品などの壊れやすい物を送る時に、小包に「壊れ物注意!」と貼られるラベルに書いてある言葉で、このラベルがついていると、みんなが取り扱いに注意をしてくれるというのです。そこで、トマス博士は「人間とは、傷つきやすく、おぼつかない弱い者」だと言っているのです。
もともとは英雄ですら、アキレウスのアキレス腱や弁慶の泣き所に象徴されるように、常に弱点をもっている者として考えられていたのです。
ところが昔も今も、人間社会は弱肉強食の時代で、力の神話は崩れず、社会を歪んだものにしているのです。
ここでパウロは、「喜んで自分の弱さを誇ろう」と言っています。人々に弱く思われたくないうのが一般的な願いだとすれば、実に大胆な告白です。その理由は、弱さを自覚する時こそ、神の力が完全に現れると知ったからです。
今朝は、このことを学びたい。(伊藤)
「奇跡の中の奇跡」 マタイ福音書9:9〜13 伊藤副牧師
2000年2月13日
新約聖書「マタイによる福音書」は取税人マタイが書いたものです。
マタイは、イエス様とモーセを比較して書いています。たとえばモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に対し、イエス様の説教を五つの説教にまとめています。
またモーセがエジプト王パロの前で行った十の奇跡に対し、マタイによる福音書八、九章でイエス様が行った十の奇跡を記し、その中に自分の救いを入れているのです。
イギリスの有名な説教家スポルジョンは、「マタイが福音書を書く時に、この奇跡の七番目に自分の回心のことをあげているのは大変意味がある。言い換えれば、マタイは自分のような罪人が救われてキリストの弟子になったのは、一つの奇跡である。だから病人が癒され、死人がよみがえらされたのと並べて書いたのだ」と言っています。
マタイは、自分の救われたのは「奇跡中の奇跡だ」と言いたいのです。
今朝は、そんなマタイの救いの喜びと感謝の心を学びましょう。(伊藤)
「キリストにあって一つ」 ガラテヤ人への手紙3:26〜29 伊藤副牧師
2000年2月20日
今日は礼拝に続いて「定期教会総会」が行われます。二千年度の予算案審議の他に、小林牧師召天に伴って、役員会から主管牧師の招聘の提案があります。また建築委員会からは会堂新築についての経過報告があります。これらの審議と報告が、礼拝と同じように主の臨在を覚え祝福されるように互いに祈りあって参加しましょう。
さて、教会は「呼び出された者の集まり」と言われます。ですから、罪と死の世界から、選ばれ、召され、救われた私たちは、礼拝をささげ、交わりにおいて恵みを分かち合いつつ、教会を形成し、神の国をこの地上に表わし、キリストの体を建てあげる使命があります。
また、私たちが救われたのは、「あなたがたを暗やみから驚くべき光に招き入れてくださったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」(第一ペテロ二章九節)という使命があります。そのために教会は「キリストにあって一つ」であることを常に確認していく必要があるのです。
今朝は、このことを学びたい。(伊藤)
「エリと息子たち」 サムエル記上2:12〜14 市川副牧師
2000年2月27日
エリの二人の子ホフニとピネハスはシロの神殿で主に仕える祭司でした。エリはすでに非常に年をとっていました。ですから、祭司の主な働きはエリの手から離れていたようです。
祭司であった「エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった」聖書が私たちに示す彼らの状態でした。
エリは、ハンナが神殿で祈っていた時、彼女が酔っているのだと思い「酔いをさましなさい」と言いました。そのエリは、二人の子らのよこしまで不道徳な生活ぶりに対し確固とした態度で叱責、指導することが出来ませんでした。息子たちは、父の言葉に耳を傾けませんでした。
この重大な状況に際し、一人の「神の人」すなわち預言者が、エリに神の言葉を告げたのです。それはエリにとって厳しいものでした。二人の子らの死と、そのしるしに伴って起こるエリの家への裁きの宣告でした。
同時に神様はイスラエルのために、ひとりの忠実な祭司を起こすことをも告げられたのです。(市川)