礼拝のメッセージ 2010年3月
「キリストの十字架」 ルカ福音書23:32〜34 市川副牧師
2010年3月28日
イエス様は真夜中に、何度も裁判を受け、疲れきっていらっしゃいました。さらに鞭打たれ、十字架につけられるために引き出されました。イエス様はみずから十字架を背負ってゴルゴタに向かわれました。
ゴルゴタにお着きになると、二人の強盗と一緒に十字架につけられました。一人はイエス様の右に、一人は左に。
イエス様が十字架でお祈りくださった祈りは有名です。このとき、刑の執行のために、物見高い人々や、あるいは恐怖と悲しみにたたずんでいる、多くの人々がイエス様を取り巻いていました。イエス様は、そのすべての人々のために祈られたのでした。しかし、これは、私たちすべての者のための祈りでもあります。
十字架につけられた一人の強盗は、イエス様を信じて、罪許され「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」とお言葉をいただいたのでした。 (市川)
「ユダのとりなし」創世記44:1〜5 伊藤 牧師
2010年3月21日
ヨセフは兄弟たちを帰す時に、ベニヤミンの袋に銀の杯をひそかに入れ、盗みの言いがかりで、実弟のベニヤミンをとめおこうと企てました。十七節の「??杯を持っている者だけがわたしの奴隷とならなければならない。ほかの者は安全に父のもとへ上って行きなさい」という主張は、ヨセフの謀略の意図をよく表していると思います。
ところが、問題の杯がベニヤミンの袋の中に発見された時、兄弟たちは共同責任をとって、ヨセフのもとに引き返したのです。
ユダは、老父ヤコブが、いかにベニヤミンを愛し、ベニヤミンを連れ戻らなかった場合には、父がいかに苦悶するかをヨセフに切々と説きました。そしてユダは、ベニヤミンに代わって自分が奴隷になりますから、弟ベニヤミンを赦してくれるようにヨセフに嘆願したのです。
これを聞いたヨセフは、遂に、「わたしはヨセフです」と、兄弟たちに自分を明かすのです。
今朝は、ヨセフの心を動かしたユダのとりなしについてお話します。(伊藤)
「救いの門から入る」 ローマ人への手紙3:23,24 伊藤 牧師
2010年3月14日
神様はすべての人が救われて、神様の用意してくださった祝福の道を歩んで欲しいと願っています。
大勢の方々が教会を訪れますが、その動機は、聖書を読んで見たい、賛美歌を聞きたい、牧師のお話を聞きたい等いろいろです。そして信仰生活に期待していることもさまざまです。
このように、いろんな動機で教会に来て、クリスチャン生活にいろんな期待を持ったとしても、聖書に示されている救いの門を通らないで、クリスチャンになることは出来ません。
私たちが救われるためには、次の二つのことが必要です。
第一に、神様の前に自分は罪人であって、キリストの救いを受け入れなければならないと知ることです。これはあまり触れられたくないことかも知れませんが、正直に、謙遜に、この教えを受け入れることが祝福につながるのです。
第二に、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかられたイエス・キリストを信仰によって受け入れることです。
今朝は、救われるために、「救いの門から入る」というお話をします。(伊藤)
「前進する宣教の働き」 使徒行伝13:13〜15 伊藤 牧師
2010年3月7日
クプロ島では素晴らしい伝道の成果を上げることができました。いよいよ第一次伝道旅行の本拠地ともいうべき小アジアにきました。
ここからは「パウロとその一行」とあり、リーダーシップをパウロがとったようです。どんな経緯かわかりませんがヨハネはここで退いてしまいました。
様々な困難を経てピシデアのアンテオケにきたパウロは、まず礼拝を守るために会堂を捜しました。休んでも当然のパウロの状況でしたが、彼の心はキリストへの愛で燃えていました。
奨励の言葉を述べるように依頼されて語ったパウロの説教が、ここで初めて記録されています。
このパウロの説教は、外地に離散したユダヤ人に対する説教です。パウロはタルソでギリシャ・ローマ文化を良く知る文化人であると共に、エルサレムでラビ・ガマリエルから正式にユダヤ教の指導を受けたプロの説教家です。
彼はギリシャ風の雄弁家のスタイルで「立ち上がり、手を振りながら」聴衆に呼びかけ、語りだしたのです。(伊藤)