礼拝のメッセージ 2010年2月
「光の子らしく」 エペソ人への手紙5:1,2 市川副牧師
2010年2月28日
私たちは、主イエス様を信じることによって新しく生まれさせていただきました。今は、主にある新しい生命をいただきました。神様の子どもとされ、父なる神様の愛を何の妨げもなく受ける立場にさせていただきました。主に心を開いたとき光がわたしたちのうちに差し込みました。
主の願いは、み言葉のとおり、神の子とされたわたしたちが主にふさわしく生きることです。エペソ人への手紙には「光の子らしく歩きなさい」(五章八節)とあります。
聖書の基準は非常に高く、自分の姿と比較すればなおさら、その教えの基準の高さに圧倒されます。
しかし、かつて主を知らずに生きていたこと、過去を清算して新しく生きることなど考えられなかった、また、考えても何の手立ても見つからなかったことを考えますと、なんという驚き、恵みでしょうか。今は、イエス様の贖いによって、清く価値ある生き方に招かれているのです。しかも、助け主、聖霊なる神様が内側から促し生かしてくださる、と教えられています。(市川)
「ベレヤの教会に学ぶ」 使徒行伝、17:10〜15 伊藤 牧師
2010年2月21日
今日は礼拝に続いて定期教会総会が開かれます。二千十年度予算審議があります。お祈りをもってご参加くださいますようにお願いします。
今年は「みことばを慕い求めて歩もう」という標語をかかげて、みんなで聖書を読みはじめています。
聖書をよく読んだ教会をあげるとすれば使徒行伝十七章に記されている「ベレヤの教会」をあげることが出来ると思います。
ベレヤはテサロニケから八十キロぐらい西にあった町で、ユダヤ人が大勢住んでいました。パウロはいつものように、ユダヤ人の会堂に入り、そこで旧約聖書に基づいて、イエスがキリストであることを解き明かしたのです。
すると、ここのユダヤ人たちは福音に対し、とても素直に応答し、心からみことばを受け入れたのです。
彼らは、会堂に出かけ「果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」というのです
今朝は、そうした彼らの聖書に対する熱心な姿勢を学びましょう。(伊藤)
「みことばのダイジェスト版」 ヨハネによる福音書3:16 伊藤 牧師
2010年2月14日
預言者エリヤの信仰は「わたしの仕えるイスラエルの神、主は生きておられます」という彼の言葉の中に要約されています。
エリヤは、アハブ王の不信を悔い改めさせ、民を正しい信仰に目覚めさせるために、バアルの預言者四百五十人を相手にカルメル山で対決しました。そこでエリヤは、祈りをもって天から火を呼びくだして、イスラエルの神が生きておられるのを実証したのです。これは彼の預言者活動において際立った出来事です。
しかし、列王記上十九章には、それまでの勇者エリヤとは別人のような、意気阻喪し、失望落胆のどん底にあえぐエリヤの姿が描かれています。
私たちの人生にも、落ち込んだり、悩んだりすることがあります。偉大な預言者エリヤもこの時そういう体験をしたのです。しかし神様のお取り扱いによって、エリヤは落ち込みから回復されていくのです。
今朝は、預言者エリヤが落ち込んでしまった原因と、その回復の道についてご一緒に学びたいと思います。 (伊藤)
「世界宣教への第一歩」 使徒行伝13:1〜3 伊藤 牧師
2010年2月7日
使徒行伝は、十三章から、いよいよ使徒パウロのめざましい伝道活動の記録となります。
アンテオケ教会の人々は、キリスト教がまだ伝えられていない周囲の地域や、伝えられていてもなかなかキリスト教を受け入れようとしない人々に対して、福音を宣べ伝えることの必要を強く感じて、そのことの実現のために、礼拝の中で、常に祈りがささげられ、またそのための計画が進められていました。そのような熱心な礼拝と準備の中に、神の導き、すなわち、聖霊の働きが起こったのです。
世界宣教のために、バルナバとパウロが選ばれ、伝道の旅に出発しました。
ですから、パウロたちの伝道旅行の出発は、アンテオケ教会における礼拝にあったと言えるのです。
クリスチャンの、物の考え方と行動のすべての出発点が教会の礼拝――礼拝において正しく伝達される神の言葉にあることを、使徒行伝の著者ルカは私たちに示しているのです。
今朝はそのことを学びたい。(伊藤)