館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2009年12月

「一つの望みを目ざして」 エペソ人への手紙、4:1〜3 市川副牧師

 2009年12月25日
エペソ人への手紙四章以降には、イエス様に救われた人々が、イエス様にふさわしく生活するにはどう歩むか、ということが教えられています。実生活に関する教えです。
一節の「あなたがたが召されてその召しにふさわしく歩き」という言葉が信仰者の歩むべき姿を一言で表しています。
わたしたちは、主なる神様を知らず、聖書の教えも知らず生きていましたが、教会に導かれ、救いに預かりました。「召し」とは神様に呼び出された者という意味で、まさしくわたしたちが救われたのは、神様が導いてくださったからなのです。
長い距離をまっすぐ歩み通すためにはどうすればよいでしょう。足元ばかり見ていたら曲がりくねった足跡でしょう。ずっと先にある目的をしっかり見つめて歩くなら曲がりくねることなく、しかも目的の場所に必ず到着できます。わたしたちは「一つの望みを目ざして召された」(四節)のですから、この望みに目を注ぎ歩み通すことです。 (市川)

「クリスマス・希望の光」 イザヤ書9:1〜63 伊藤 牧師 

2009年12月20日
 ある時、「あなたの一番楽しいシーズンはいつですか」というアンケートをとったところ、「クリスマス」というのが一番多かったそうです。
 クリスチャン人口が一%に満たない日本では不思議なきも致します。
 毎年、この頃になると、救世軍の社会鍋、歳末助け合い、チャリティショーなどが行われます。クリスマスを待ち望む喜びが、人々の心に「何か良いことをしたい」という思いを呼び起こすのでしょうか。
 ことさら、イエス・キリストを神の子と信じ、私の救い主として信じている人々にとって、このシーズンは意味深いものとなります。
 イザヤ書九章の預言の言葉は、救い主を待ち望む喜びが満ち溢れています。特に二節の「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」という箇所は、救い主の誕生による喜びと慰めを私たちに与えてくれます。
 今朝は、イザヤ書から「クリスマス・希望の光」についてお話します。(伊藤)

「家畜小屋に生まれた救い主」 ルカによる福音書2:1〜7 伊藤 牧師 

2009年12月13日
ルカによる福音書に記されている救い主の誕生で、二章七節の「客間には彼らのいる余地がなかった」という記事を読むたびに、胸が締めつけられるような思いが致します。 神の御子がこの世にお生まれになった時、その身を横たえる部屋がどこにもなかった、と聖書は記しているのです。
 その頃ユダヤは、ローマの植民地であり、皇帝アウグストの勅令によって人口調査が行なわれておりました。
 ナザレに住んでいたヨセフは、妻マリヤと共に登録をするために郷里のベツレヘムに行かなければなりませんでした。その時マリヤはすでに身重でありました。
 彼らがベツレヘムについた時は、町は登録のために帰郷した人々で混雑し、泊まる部屋などありませんでした。
 彼らはようやくのことで、家畜小屋を借り、そこで旅の疲れを癒す暇もなく、マリヤは月満ちて、イエス様がお生まれになった、と聖書は記しているのです。
 これが世界で最初のクリスマスの出来事です。(伊藤)

「ヘロデに対する神の裁き」 使徒行伝12:20〜25 伊藤 牧師 

2009年12月6日
 ヘロデ・アグリッパ一世はペテロが牢獄からいなくなったのを知り、烈火のように怒って必死の捜索を続けたが、ついに見つけることができませんでした。
 ヘロデにして見れば、ペテロがあの厳重な警備をかいくぐることができるとはとても考えられないので、警備に当っている者たちの裏ぎりと判断したのです。そこで、番兵たちを取り調べて処刑するように命じたのです。
 ヘロデは十二使徒の一人、ヤコブは殺したものの、最有力のリーダーであるペテロを取り逃がしたことで、キリスト教会に対する弾圧政策が不成功に終わったことを認めざるを得なくなりました。そこで彼は、エルサレムを離れ、ローマ帝国でユダヤ支配の行政上の中心となっていたカイザリヤに下って行ってしまったのです。そこに滞在している間に、神の裁きによって死んだのです。
 今回は、クリスチャンを迫害した時の権力者ヘロデに対する神の裁きがなされたことを通して、神のみわざがさらに進展していったことをご一緒に学びたいと思います。(伊藤)