礼拝のメッセージ 2009年11月
「ザアカイの救い」 ルカ福音書19:1,2 江森 五男
2009年11月29日
私たちは誰もが名前を持って日常生活を送っています。夫婦が妊娠を知ると生まれてくる子に対してまず考えることは、男の子ならこんな名前にしよう、女の子ならこんな名前にしよう、とあれこれ名前を考えることではないでしょうか。
「名は体をあらわす」とか「名前負け」という表現がありますが皆さんの名前はどうでしょうか。まったくその通りだと納得する人もいれば、自分の名前は立派すぎて窮屈な思いを抱いている人もいるかも知れません。
今から二千年ほど前にユダヤのある人の所に男の子が生まれました。父親は彼を取り上げ「ザアカイ、お前の名前はザアカイだよ」と言いきかせました。ヘブル語で「清い人」「義なる人」という意味ですから日本語名で言えば「清」「正」となるでしょうか。
さて、このザアカイは親の期待通りに清く正しい人間として大人になっていたでしょうか。
今日はザアカイの物語から、彼の人生とキリストとの出会いを学んでみましょう。(江森 五男)
「人知を超えたキリストの愛」 エペソ人への手紙3:14〜19 市川副牧師
2009年11月22日
エペソ人への手紙一章にはパウロの祈りが記され、三章後半にも記されています。祈りには心からの願いが込められています。そのような祈りが記録されていることは貴重です。パウロがどのような信仰に立ち、何を心から願っていたのか、一面を知る助けになります。パウロの信仰の姿や祈りは、主を信じるわたしたちにとってよいお手本であり、大きな励ましとなります。
パウロは父なる神様に祈っています。父なる神様は、天上においても地上においても父と呼ばれているあらゆるものの源でいらっしゃる方だとあります。子どもを育て、家族を守る地上の父にまさって、いつくしみ深いお方です。
「あなたがたの内なる人を強くして下さるように…」「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って…あなたがたが満たされるように、と祈る」とあり、神様の豊かなご臨在のうちに生きるように願っています。そのような主にある人々の群れである教会により、キリスト・イエスによって、神様に栄光がありますように、と祈っています。祈りのお手本、生活のお手本をここに見ることができます。 (市川)
「兄たちを試したヨセフ」 創世記42:1〜5 伊藤 牧師
2009年11月15日
主なる神が夢でパロに告げ知らせ、ヨセフが解き明かした通り、やがてエジプト全土は前代未聞の大豊作に恵まれ、その豊作は七年間続きました。しかし総理大臣ヨセフは、それを決して浪費させませんでした。彼は全国の町々に穀物倉庫を造らせ、食糧を保存させたのです。
豊作の七年が過ぎた後は、ヨセフの預言のとおり凶作が続いて、大飢饉が襲ってきたのです。しかしエジプトにはヨセフが貯えさせた豊かな穀物がありました。ですから国民は、そこから放出される食糧で十分満たされていたのです。
けれども近隣諸国では、飢えを凌ぐために、エジプトの穀物を買いに来る者が殺到していたのです。
ヤコブ一族の住んでいたカナンも例外ではありませんでした。もうどうしようもなくなった時、ヤコブは息子たちに、エジプトに行って穀物を買ってくるように命じました。しかし、末っ子のベニヤミンは一緒にやりませんでした。そこで十人の息子たちをつかわしたのです。
こうして彼らとヨセフは約二十年ぶりに出会うことになるのです。(伊藤)
「王子の披露宴のたとえ」 マタイ福音書22:1〜7 伊藤 牧師
2009年11月8日
結婚の披露宴に出席するということは、人間が、この世で経験することの中で最も喜ばしいものの一つではないでしょうか。
イエス・キリストは、神様の王国で神様の民があずかる祝福を、この喜ばしい結婚の披露宴にたとえて、「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせた」と言われました。
しかし、招かれた人々はそれぞれの理由をつけて断わったというのです。招待客が断わったとはちょっと考えられない話です。結婚式への招待というものは、老人でも青年でも、喜んで受けるものだからです。
けれども、神様が魂の永遠の救いを差し出してくださる喜ばしい祝宴にお招きになると、人々は何とかしてその招きを断わろうとするのは、昔も今も同じです。
今朝は、「王子の披露宴のたとえ」を通して、私たちを天国へ招く神様の愛とその備えについてお話します。(伊藤)
「ペテロの救出」 使徒行伝12:1〜5 伊藤 牧師
2009年11月1日
十一章三十節のところには、アンテオケの教会からの献金をバルナバとサウロとがエルサレムの教会へ送り届けることが記されていて、十二章二十五節には、「任務を果たしたバルナバとサウロとは、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた」と結んでいます。つまり十二章一節から二十四節までは、このバルナバとサウロの旅行の記事に挟まれた挿入文なのだという事がわかります。
そして挿入文の最後には「こうして、主の言葉はますます盛んに広まって行った」(二十四節)とあるように、エルサレム教会の働きはペテロの逮捕と救出の際の出来事を通して拡大されて行ったのです。それも、このペテロの逮捕と救出事件はバルナバとサウロがエルサレム旅行中の短期間に起こった出来事でした。
そして、本章を境界線として世界宣教の拠点は、エルサレムからアンテオケへ、働きの中心人物はペテロからパウロへ移っていくのです。
今朝は「ペテロの救出」の際に見られたコントラストを学びましょう。(伊藤)